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弥陀の救い

0 6月 30th, 2009

正信偈の冒頭に「帰命無量寿如來 南無不可思議光」とあるように、何度も同じことを繰り返しているというのは、親鸞聖人が歓喜の絶叫をしているからなのですが、親鸞聖人を絶叫させるほどの弥陀の救いというのはどんなものなのでしょうか?!
正信偈の冒頭に続いて、弥陀の救いは死後にあるものではなく、生きている今にある、それは弥陀に救われたときにはっきりと分かると書いてあるのですが、親鸞聖人が凄いとまでいう弥陀の救いとはどんなことなのか調べてみました。

阿弥陀如来に救われたという親鸞聖人ですが、どうなったのかというと、「人生の目的が完成した」ということなのだそうです。
人は何のために生まれてくるのか?なぜ生きているのか?どうして自殺をしてはいけないのか?これらすべてが人生の目的なんだそうです。

生きることが人生の目的だとすれば、私の生きる目的はなんなのだろうか?
本当の人生の目的を知って、それを完成させ「人間に生まれてよかった」と生きていることの喜びを味わうために生きている・・・・。
だったら、もうすでに生きていてよかった!!なんて思ったことのある人は、人生の目的が完成したといえるのではないでしょうか?!

真の人生の目的というのは、正信偈ではどんなことをいうのでしょうか?!
歎異抄では「摂取不捨の利益」を獲ることで「無碍の一道」へ出ることだといわれています。
この「摂取不捨の利益」も「無碍の一道」も今の日本語でいいかえれば「絶対の幸福」ということになり、どんなことにも絶対に壊れない、崩れないのが無上の幸せとされています。

次回は、親鸞親鸞会について調べていきたいと思います。

宗派と正信偈について②

0 6月 18th, 2009

宗派によって正信偈は違うのかということを前回に引き続き今回もお話したいと思います。
正信偈にとって共通して言えることは信心ですが、今回は浄土真宗の大谷派や木辺は天台声明の正信偈を用いないで正信偈和讃がお勤めの中心となっているようです。

大谷派の正信偈はいろんな宗派の中でも正信偈の種類が多いのではないでしょうか?!
興正寺派の正信偈については、本願寺改定前の5種類が存在し、仏木辺派は、真引・中引・舌 舌があります。
念仏和讃について興正寺派は、真譜・墨譜など正信偈に相応した部分がありますが、大谷派や仏光寺派に関しては、ユリの数の増減により区別しているそうです。

今まで宗派と正信偈の関係について調べてきましたが、どんな節回しに変わったとしても正信偈というものは親鸞聖人がどうしても自分と同じ体験を私たちにもしてほしいと一字一涙の心で書き残されたものには違いありません。
正信偈のルーツや種類、宗派との関係について知ることも正信偈をしる上で大切なことには変わりありませんが、正信偈を知るためには親鸞会に加入して、親鸞聖人の御心を直接感じとることが1番なのではないでしょうか?!

自分自身肌で親鸞聖人の御心を感じとることができたなら、正信偈についてもっと深くしることができると思います。
そして親鸞聖人の教えがいかにありがたいものなのかを感じとることができるのではないでしょうか?!

次回からは親鸞聖人が正信偈の冒頭に「帰命無量寿如來 南無不可思議光」と2度も言われるほどの弥陀の救いとはどのようなものなのか?また、その弥陀のお力とはいかほどだったのかを調べていきたいと思います。

宗派と正信偈について

0 5月 27th, 2009

さて今まで正信偈についてお話してきました。
しかし、正信偈について調べている間にある疑問にぶつかったのです。
浄土真宗には浄土真宗本願寺派や浄土真宗大谷派などいろんな宗派があるではありませんか?!違う宗派でも正信偈はすべて同じなのか?!ということです。

通常、宗教というものに興味のない人にとっては正信偈というものもお経の1つだと考える人が多く、すべて阿弥陀仏と唱えるものが浄土真宗のお経だと思われている中、どこの宗派もどんな宗教でも同じお経を読んでいるのではないか?なんて考える人も多いと思うのです。

そこで今回は宗派と正信偈の関係について調べてみたいと思います。
浄土真宗の各派のうち、本願時・高田派・仏光寺派・誠照寺の4派は天台系声明を併用しているのです。
光寺派は、真譜・行譜・草譜の3種類の正信偈がを使い、誠照寺派は、真偈・行偈・草偈の3種の正信偈を使います。
それに引き替え高田派は、正信偈は棒読みで文類偈のみ節を付けて読じゅしていますが、唱和のテクニックや決まり事などは特にありません。
また、本願時・高田派・仏光寺派・誠照寺の4派では重要な法要の場合は正信偈は大谷派のものを用いる場合もあるそうです。
親鸞聖人が一字一涙の御心で書き残された正信偈ですが、各宗派によって節をつけられたりと少しずつ変化があることがおわかりいただけたと思います。
しかし、これは本当に親鸞聖人が望んでいたことなのでしょうか?
特別形にこだわるのではなく、正信偈の意図するところをちゃんと理解していれば、いいのでしょうが本当の親鸞聖人の教えを知るには親鸞聖人の本当の教えを知りたいと思う親鸞学徒が集まる親鸞会の勉強会に参加してみるといいのではないでしょうか?!

正信偈の「成等覚証大涅槃」とは

0 5月 14th, 2009

今回は正信偈に出てくる成等覚証大涅槃についてお話したいと思います。
正信偈というのは、親鸞聖人の「教行信証」の6巻すべての内容を大切な教えだけを凝縮し抜粋したものであることはすでにおわかりだと思います。
そして、正信偈の冒頭は歎異抄の冒頭にもあるように親鸞聖人自らの体験を告白することから始まっています。

そんな正信偈ですが、冒頭ばかりを調べるのではなく今回は「成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」の2行について調べていきたいと思います。
成等覚証大涅槃というのは等覚を成り、大涅槃を証するという意味で、「等覚」にならなければ大涅槃を証することは絶対にできないのだから、早く「等覚」に成りなさいと進めているのが、成等覚証大涅槃なのです。

では、「等覚」とは何のことでしょうか?!
等覚というのはさとりの位の1つであり、全部で52の段階があります。
この最高位を仏覚といい仏のさとりや無上覚とも言われています。
親鸞聖人が正信偈で「早く等覚になりなさい」というように教えているのに対して蓮如上人は遺言に「あわれ」だといわれています。
この「あわれ」という意味は、今の世の中では死んだら極楽、死んだら仏というような考えの人が多くなって来ていることを表し、そのことに対して可哀そうで情けないことだと言っているのです。

生きているときこそが勝負!死んでからでは手遅れだといい、すべての人に信心決定してもらいたいということ心の中から親鸞聖人や蓮如上人は思われているのです。

正信偈「後生の一大事」②

0 4月 27th, 2009

前回に引き続き正信偈で言われる後生の一大事についてお話したいと思います。
浄土真宗には、この世はどうにもなれない、死んだら極楽、死んだら仏などという人が大勢いますが、
この世と死後の関係をしれば、おかしいことに築くはずです。
そのために、お釈迦様は真実の経である「大無量寿経」に従苦入苦 従冥入冥と説いているのです。
これは、今苦しんでいる人は死んだあとも地獄の苦しみを受けるということをいみし、この世でいじめや不幸にみまわれてしまいこんなにつらい思いをするのなら
死んだ方がいいと思い苦しむことがこの世の地獄であり、このような生活をしている人はたとえ死んでしまっても死んだあとも同じ苦しみが続きますよ!
そして、今現在の苦しみを救い慰めなければ永遠に苦しみ続けなければいけないことといているのです。

しかし、後生の一大事の大苦悩を救う力のある阿弥陀仏ならば人生の苦しみを助けてくれるのは当然で、この世はどうにもできない、死んだ後だけ極楽浄土へ行き助かる
などと思っている人はこの世も死後も助からないということを、蓮如上人は以下の様に御文章でといています。

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」

と教えて戒めているのです。
生きている間に信心決定しなければ、死んで極楽どころか一大事が起こるから親鸞聖人も蓮如上人も早く等覚になること、そして命のある間に信心決定することを強く
歓化されているのです。

正信偈「後生の一大事」

0 4月 4th, 2009

正信偈の冒頭は親鸞聖人が阿弥陀如来に救われ助けられたという体験を告白していると前回もお話しましたが、これは有名な歎異抄の冒頭にある「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」ということを意味しています。

しかし、この正信偈で親鸞聖人は阿弥陀仏に何をたすけられたといっているのでしょうか?!
正信偈には「後生の一大事」を救われた、助けられたと言っているのです。

仏教ではこの「後生の一大事」を知るところからはじまり、解決でおわります。
なので、後生の一大事について知っておかなければ仏法は何十年、何百年聞いても分かるものでもなく、親鸞聖人の正信偈を一行も正しく読むことはできないと思います。

では、後生の一大事とはどのようなことをいうのでしょうか?
「後生」は一息いれたらそれが後生になるのです。
仏教やお経なんて聞くとどうしても「もっと年をとってから聞けばいい」や「若いから必要ない」という人が多いですがこれは、後生は遠い先の話で自分には関係がないという意識から思っていることだと思います。

まさか!なんてことは突然やってきます。
心臓麻痺や脳梗塞など自分の吸った息が吐き出せなくなること、その時から後生になるのです。
人生80年というように近年は平均寿命がのびたといわれていますが、いくら寿命が延びたからといっても死なないわけではありません。
いずれやってくるのが後生なのです。

人は生きているかぎり後生とは無縁の人はこの世に1人としていないのです。

正信偈の平生業成

0 3月 28th, 2009

今まで正信偈についてお話してきました。
正信偈とは正しい信心を歌という形式で明らかにした「お経」ではなく「お聖教」という仏教の書物のことを言います。

正信偈の冒頭には「帰命無量寿如来、南無不可思議光」は阿弥陀如来のお力によって絶対の幸福に救いとられたことを親鸞聖人が、「阿弥陀如来に親鸞救われたぞ!阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」という体験を告白しているのです。
そして、これらは死んでからではなく現在(生きている間)の救いだからこそ親鸞聖人は「平生業成」だと説いているのです。

この平生というのは生きている土岐を意味しています。
仏教という言葉を聞くとどうしても死後の世界を想像すると思いますが、親鸞聖人は「平生というのは死後のことではないですよ!仏教は生きているときが勝負なのです」と生涯平生の救いを強調しているのです。

そして平生業成の「業」とは人生の大事業のことを意味しています。
これは会社のプロジェクトのことではありません。
1人1人の人生の大事業であり、人生の目的のことです。

何のために生きているのか?
何のためにうまれてきたのか?
などすべての人にとって最も大事なこの人生の目的を親鸞聖人は業という一文字で表しています。

平生業成の「成」は達成する、卒業がありということを意味しています。

これまでお話した平生業成というのは親鸞聖人の教えである、「平生ただ今、人生の目的が完成する。だからはく完成せよ」と叫び教え続けてきたものを漢字四文字であらわしたのです。

ただ1つの正しい信心

0 3月 5th, 2009

正信偈の「正」という文字は一に止まると書きます。
これは、正しいものは二つも三つもなく一つしかないということを言っています。
この一つの正しい信心を親鸞聖人が明らかにしたのが「正信偈」なのです。

だったら自分がいいと思ったものを信じて生きればいいと言うことを親鸞聖人が言っているのではなく、正しい信心があるということは、迷信や邪信や偽信といったような正しくない信心があるといういうことを意味しています。
そして、これらの間違った信心はいずれ必ず裏切られて苦しむことになるということを親鸞聖人は言っているのです。

そして、1日も早く正しい信心や真実の信心を努力や苦心のうえに書くとし、何があっても崩れたりしない絶対の幸福に救われてくださいということを伝え続けていたのが親鸞聖人であり、その正しい信心を示しているのが正信偈なのです。

「帰命無量寿如来、南無不可思議光」で始まる正信偈ですが、これは親鸞聖人が弥陀によって救われたこと、そして親鸞聖人が弥陀によって助けられたといういことを2度繰り返して言っていることを正信偈では述べているのです。

なぜ同じような内容を繰り返し言っているのか?と不思議になるのは当然ですよね?!
これらすべては親鸞聖人が弥陀の教えを聞くことができたことに、無限の喜びを表していいるのです。
この無限の喜びを表した親鸞聖人は正信偈の最後に「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」と締めくくっています。
これは「皆さん親鸞とともに同じ心になって下さい。そのためにはこの高僧(親鸞聖人が尊敬している七高僧のこと)の説をただ信じることが1つの道ですよ」と言っているのです。

浄土真宗の内容としては、信心こそが浄土往生の正因であり、念仏を唱えることは報恩行であるということが内容として記されています。
そして、正信偈の後半部分ではインドや中国や日本で正しく弥陀の教えを広く伝えた人の業績・徳を讃嘆しているのです。

正信偈は正しい信心の歌

0 2月 27th, 2009

正信偈というものを多くの人がお経だと思っているのは、すべてが幹事でかかれており、棒読みのように聞こえるからではないでしょうか?!
しかし、正信偈というのは「うた」なんです。

正信偈の偈というのは、韻を踏んだうたのことを意味します。
うたに何か意味があるのか?なんて思われることが多いかもしれませんが、正信偈というのは親鸞聖人が何としても知ってもらいたいことすべてが凝縮しているのです。
「正信偈」とあるように「正信」とは正しい信心のことを意味しています。

この信じる心というのは、神や仏を信じることだけが信心ではないのです。
自分の心の中で何かを支えとして頼りにするということすべてが信心につながるのです。特別信じるものがないという人でも、何かしら自分の信念があるからこそそれを頼りにして生きていいるのではないでしょうか?!
もっと簡単にいうと、信じているものがあるからこそ自分たちがいまこうして生きていることができるということになるのです。
たとえ、その信じるものが恋人だったり家族であっても、その人たちに裏切られたときにはひどい悲しみや苦しみを感じずにはいられないと思います。

そのようなことがないように親鸞聖人が正信偈で説いているのが、本当の幸せをつかみたければ決して裏切られない正しい信心を持つことが大切だと言っているのです。
イワシの頭も信心からなんて言われるとおり、何かを信じていればその人にとってそれは新人となるのです。

正信偈はお経とは違う

0 2月 3rd, 2009

正信偈について調べてみようと思うのですが、『正信偈』とはどんなお聖教なのでしょうか?
正信偈の冊子をk見ても何やら難しい漢字ばかりで書かれているために、正信偈そのものをお経だと思っている人は少なくはないはずです。
実は、正信偈はお経ではないのです。

今回は、正信偈とお経の違いについてお話したいと思います。
「お経」とは・・・
お経というのはお釈迦様の説法を弟子たちが書き残したもので、正式名称は「仏説○○経」と言われています。
仏説とは仏様が説かれたということを表しており、この仏というのがお釈迦様のことを意味しているのです。

よく、人がお亡くなりになると「仏様になった」ということを聞きますが、これは間違いなのです。

仏というのはインドに現れたお釈迦様が35歳で最高無上の「仏」というさとりを開いてからなくなるまでの期間、仏として説いた教えを仏教といいます。
この教えの全てが書き残されている「一切経」のことを「お経」というのです。

このお経というものは膨大な量がありますが、どれもお釈迦様が説いたということを表しているのです。
それに対し、正信偈というのは親鸞聖人が書いたもので「帰命無量寿如来、南無不可思議光」という冒頭で始まり、「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」で終わる正信偈というものは、1行7文字120行で840字で親鸞聖人がいろんな人に何とかしてこの教えを伝えたい、知ってもらいたいことがあると泣く泣く筆を執られた一字一涙の正信偈の教えには親鸞聖人の90年の教えすべてが説かれています。