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現在ただ今の救い(4)

0 2月 18th, 2010

仏教は、仏の説かれた教え、ということです。この地球上では、ただ一人仏の覚りを開かれた、お釈迦さまのソイエを、今日、仏教と言われるのです。

では、八十歳でお亡くなりになるまで釈尊は、一体なにを説かれたでしょうか。その全てを書き残されているのが、七千余巻の一切経です。

親鸞聖人は、その一切経を何度も読み破られて、

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」

と断言されています。釈迦如来が、仏教を説かれた目的は、ただ、

「阿弥陀仏の本願」一つを説かれるためであったのだ、と。

「阿弥陀仏の本願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が、なされているお約束のこと。弥陀が本当に願っておられる御心のことです。漢字36文字でなされている、誓いの言葉、これを「弥陀の本願文」と言われます。

さとりが一段違えば、人間と虫けらほど境涯に差があると言われます。まして52段の無上覚を開かれた仏の境涯は、凡夫の智恵ではとても窺い知ることができません。
中でも阿弥陀仏は、十方諸仏の本師本仏であるから、その御意は余りにも深く、弥陀の『本願文』36文字を私たちが読んでも、判らないところがあるのは当然でしょう。

そこで、阿弥陀仏の御意は、仏のさとりを開いた方からお聞きする他ありません。「仏々相念」「唯仏与仏の智見」と言われるように、仏の御意は、ただ仏さまのみ良くこれを知られるからです。
地球上で仏のさとりを開かれた方は、お釈迦様お一人です。そのお釈迦様が、本師本仏の弥陀の『本願文』の本意を、我々に分かるように解説されたお言葉が、漢字40字の『本願成就文』です。
この『本願成就文』によらなければ、弥陀がいかに凄い本願を建立されていても、その願意を正しく知ることはできません。私たちは、『本願成就文』の釈迦の教えによってのみ、本願の真意を知ることができるのです。

故に親鸞聖人は、『本願成就文』の教えこそが、私たちにとって「一実円満の真教真宗」であり、「至極」なのだと明言されています。

これはどういうことか、次回、続けます。

浄土真宗親鸞会で、高森先生からお聞きして初めて知らされた、親鸞聖人の教えです。

現在ただ今の救い(3)

0 1月 15th, 2010

正信偈の最初の二行、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

は、

「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、

親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ」

と、弥陀の救いに遇われた聖人の、歓喜の発露であることを繰り返し述べてきました。

このお言葉から、「弥陀の救い」は死後ではない、現在ただ今の救いであることが

明白であることも、すでに述べました。弥陀に救われるのが人生の目的ですから、

これは、「人生の目的には完成がある」ことと同義です。

ところが今日も、「この世で救われる」「人生に完成がある」とは、誰も思っていません。

親鸞聖人当時も、そうでした。ともに法然上人を師と仰いでいた法友・善慧房証空が、

大衆を前に、「阿弥陀仏の救いは、念仏さえ称えておれば、死んだら極楽。

この世で助かったということなどない」と説法していたのです。

看過できないと親鸞聖人は、待ったをかけられ、論争が始まりました。先回にアニメで

ご覧になったとおりです。

ここで、親鸞聖人が提示された、阿弥陀仏の本願のお言葉の中の、

「若不生者 不取正覚」

について、お話しを続けましょう。これは、

「若し生まれずは、正覚を取らじ」

と読みます。正覚とは、仏の覚りのことであり、仏の覚りは、仏さまにとっては

命ですから、これは阿弥陀仏が、

「もし生まれさせることができなければ、命を捨てる」

と、誓われているお言葉です。そこで、この「生まれる」とは、

「何を、いつ、どのように生まれさせる」ことなのか。

弥陀の命のかかっている「生」の一字ですから、これ以上大事なことはありません。

善慧房はこの「生まれる」を、「死後、極楽に生まれさせる」ことだと解釈し、

そのように説法していたました。つまり「肉体が死んで、生まれる」ことと

理解したのです。これを「体失往生」と言われます。

対して親鸞聖人は、

「後生暗い心・迷いの魂を、現在ただ今、絶対の幸福(信楽)に生まれさせる」

というお誓いなのだと主張されました。この「生まれる」は、「心」のことだと

言われたのです。これは肉体がまだ生きている時の救いですから、

「不体失往生」といわれます。

果たして、法然上人のご裁断によって、親鸞聖人の主張された「不体失往生」こそが、

弥陀の本願の真意であることが明らかになったのです。

そこで、聖人が弥陀の本願文の「生まれる」の意味を、このように鮮明にされた根拠は、

どこにあったのでしょうか。

釈迦の「本願成就文」です。この「本願成就文」について、次回から解説していきましょう。

現在ただ今の救い(2)

0 12月 18th, 2009

正信偈冒頭の二行は、

現在ただ今、弥陀に救い摂られた親鸞聖人の告白であることを重ねてお話ししてきました。

その「現在の救い」を、法友と大げんかしてまで明らかにされたのが、

「体失・不体失往生の諍論」

と言われている、仏法上の争いです。親鸞聖人、34歳の時のことでした。

争いの相手は、善慧房。ともに法然上人をお師匠とする法友です。後に浄土宗を開いた

ほどの優れた人物でした。その善慧房が、大衆にこう説法していたのです。

「皆さん、釈尊がこの世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願一つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、有り難いお約束です」

大衆に混じって聞いておられた親鸞聖人は、この悪魔の説法を見過ごされはされませんでした。

「お待ちください!」

手を挙げられ、決戦の火ぶたは切られます。それからどうなったのか。親鸞聖人はこの論争によって何を明らかにされたのでしょうか。分かりやすく描かれた、アニメーションを見てみましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=MK3iY0QxOWI&feature=player_embedded

善恵房  「何でしょうか。親鸞殿」
親鸞聖人 「今のお言葉、親鸞少々腑に落ちません」
善恵房  「何か気に障られたことでも」
親鸞聖人 「先ほど、あなたは、阿弥陀如来の本願は、死んだら助けるお約束、と言われたようですが」
善恵房  「ああ、それがどうかしましたか」
親鸞聖人 「親鸞は、ただ今、救いたもうた本願を、喜んでおります」
善恵房  「何を言われる親鸞殿。今救われたとなそなたは。この世で救われたということがありましょうか。この世はどうにもならんもんじゃありませんか」
親鸞聖人 「この世さえどうにもならぬ者が、死んで、どうなれましょうか。今、溺れて苦しんでいる者に、土左衛門になったら助ける、という人がありましょうか。今、腹痛で苦しんでいる者に、死んだら治すという医者もいないでしょう」
ある弟子   「まあまあ親鸞殿。ここは皆さんもおられることだし、また後ほど……」
親鸞聖人 「いいえ、釈尊ご出世の、ご本懐の中のご本懐である、阿弥陀如来の本願のことです。皆さんにもハッキリと、知っていただかねばなりません」
善恵房  「親鸞殿、いくらあなたがもっともらしいことを申されても、経典にないことでは、仏教ではありません!お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか」
親鸞聖人 「もちろん、ございます。阿弥陀如来の本願に、『若不生者 不取正覚』とあります。必ず生まれさせると、誓っておられるではありませんか」
善恵房  「ハハハハハハ……。親鸞殿。それこそ、死んだら助けるということではありませんか。死なねば、生まれることはできませんからね。やはり、死んだら極楽へ生まれさせる、というお約束ではありませんか」
弟子   「なるほど、善恵房殿の言われる通りですなあ」
二人   「ハーッハハハハハハ」

親鸞聖人 「善恵房殿、誤りはそこです。あなたの誤りは、実にそこにあるのです」
善恵房  「何ですと?」
親鸞聖人 「死ぬとか、生まれるとかは、肉体のことだけではありますまい。肉体は、死ねば焼いて滅びるもの。肉体よりも、心を重く見るのが、仏法ではありませんか。阿弥陀如来は、私たちの暗い心を、明るい心に生まれさせると、誓っておられるのです。これが、弥陀の本願ではありませんか」
老婆   「心を生まれさせる……?」
(親鸞聖人、その老婆にも目を向けられて)
親鸞聖人 「そうです。心をです。何のために生まれてきたのか。何のために生きるのか。なぜ、生きねばならないのか、分からないでしょう。後生暗い魂を抱えて、生きてはいませんか」
老婆   「うーん、そうじゃな」
親鸞聖人 「私たちの、その後生暗い心を、大安心にしてくださるのが、弥陀の本願です」
(襖がスッと開き、法然上人が本堂に入ってこられる)
参詣者  「あ、法然さまだ」
弟子   「お師匠さまだ」
(善恵房、高座を譲る)
法然上人 「そうだ。親鸞の言う通りじゃ。この法然もただ今、救われたことを喜んでいる。今、救われずして、どうして未来、助かるだろうか」
法然上人 「よいかな。皆さんもよーくお聞きなされ。ここは間違いやすいところです。阿弥陀如来の本願は、この世から未来永劫、助けたまうお約束。誤ってはなりませんぞ」
一同   「ははーっ」
弟子A  「お師匠さま」
善恵房  「……」
「後に、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空も、その過ちを、この時聖人に徹底的に打ち破られたのであった。これは今日、親鸞聖人の三大諍論の一つとして、『体失不体失往生の諍論』と伝えられている」

大変重い内容ですね。ここで、阿弥陀如来の本願の

「若不生者不取正覚」の

「生まれさせる」

の意味が、論じられています。

親鸞聖人は、この「生」を、

「現在ただ今、後生暗い心を明るい心に生まれさせること」だと、明らかにされているのです。

これはまた、聖人90年の生涯、強調して、説き続けていかれたことなのです。

次回、詳しくお話ししましょう。

現在ただ今の救い(1)

0 11月 9th, 2009

『正信偈』の初めの二行、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

について繰り返しお話しをしておりますので、

「早く次に進んでもらえないかな」

と思われる人もあるかも知れません。

が、この初めの二行に、『正信偈』はすべて納まっていますので、

くどいようですが、重ねてお話しさせて頂いていることを、了解して

頂きたいと思います。

つまり親鸞聖人の教えのすべてが凝縮されて いる、初めの二行ですから、

その真意が分からなかったり、誤解していますと、

この後のお言葉の御心も、親鸞聖人の教え全体も、まったく分からなくなって

しまう、ということです。

具体的には、この二行は、

「親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ!助けられたぞ!」

という聖人の絶叫ですが、一体、阿弥陀様に、「何を」救われたと言われているのか。

これが分からなければ、この後にどれだけ、

「どうして救われることができたのか」

「救われてどうなったのか」

「どうすれば、救われることができるのか」

ということを『正信偈』に書かれていても、無意味になってしまいますね。

それで先回は、親鸞聖人が「阿弥陀仏に救われた」と言われているのは、

「後生の一大事を救われた」

=「いつ死んでも浄土往生間違いない身に、救い摂られたこと」

であることを、確認しました。

次に、その「浄土往生まちがいない身」に救われるのは、

「死んだ後」のことではない、

「現在ただ今」のことであることを、親鸞聖人は生涯、鮮明にしてゆかれた、

そのことについて、「体失不体失往生の諍論」を通して、お話しいたしましょう。

これは一言で、「弥陀の救いは、死後か、現在か」という、親鸞聖人のなされた

大きな争いです。

「阿弥陀様は死んだら極楽へ助けてくだされるのだ」

と聞き誤っていた人は、今日の浄土真宗の人だけでなく、親鸞聖人当時も、

あったということです。

しかも、同じ法然門下の先輩、後に一宗一派を開く程の学徳のあった俊秀・

善慧房との対立でした。

その発端と結末を次回、詳しく述べたいと思います。

弥陀の救いはハッキリする

0 10月 9th, 2009

『正信偈』冒頭の、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

の二行は、

「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、

親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ」

と、弥陀に救われたことを告白された、親鸞聖人のお言葉であることを、重ねてお話ししてきましたね。

この二行から、

「弥陀の救いはハッキリする」

ことも分かります。ハッキリしないことを、ハッキリ書かれる親鸞聖人ではないからです。

つまり「弥陀の救い」は、

「阿弥陀仏に救われても、救われたのやら、救われていないのやら、分からない」

とか、

「誰かしっかりした人に『あなたは救われましたよ』と言ってもらわないと安心できない」

とか、

「たぶん、これで助かったのだろう。いやきっとそうにちがいない」

というような、曖昧なものでもなければ、無自覚なものでもない、ということです。

それは、「何を」救われたのか、ということが分かれば、歴然です。

親鸞聖人が、「阿弥陀仏に救われた」と言われているのは、

「後生の一大事を救われた」ということなのです。(前にも少し触れましたね)

「後生の一大事」とは、蓮如上人が、

「後生という事は、ながき世まで地獄におつること
なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとり
て、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべ
し」 (帖外御文)

とおっしゃっている一大事のことであり、弥陀の本願とは、

「すべての人の後生の一大事を解決してみせる」

というお約束であることも、この蓮如上人のお言葉から分かりますね。

仏教は、この「後生の一大事」を知るところから始まり、その解決で終わります。

この「後生の一大事」の重荷を背負って、泣き泣き求めた人に、

その重荷を阿弥陀仏に取って頂いた(後生の一大事を解決して頂いた)、

ということがあるのです。

親鸞聖人『正信偈』冒頭のお言葉は、まさにその「弥陀に救われた」実体験の告白です。

9才で出家されてより20年間、比叡の山で親鸞聖人は、この一大事の解決のために、

血の滲むご修行をなさいました。しかし、天台法華の教えにはかなわぬ自己を知らされ、

泣く泣く下山されたのは29才の御時でした。その親鸞聖人が、弥陀の本願を説かれる

法然上人に会われ、その弥陀の本願力によって「後生の一大事」を解決され、往生一定

の大安心の身に救い摂られたことを、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

と叫ばれているのです。あまりにも明らかな救いであるから、

「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、助けられたぞ」

と繰り返し叫ばずにおれなかったのです。

「阿弥陀様に救われても、そんなにハッキリするもんじゃない」

と言う人は、後生の一大事の重荷に苦しんだこともなければ、それを弥陀に鮮やかに抜き取られた

こともない人であり、仏教の出発点にもたっていない、と言われるのはそのためなのです。

『正信偈』の冒頭二行から、その真意を正しく知るのは大変なことですね。

『正信偈』、初めの二行で分かること。

0 9月 8th, 2009

『正信偈』の初めの二行、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

は、

「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、

親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ」

と、阿弥陀仏に救われたことを告白されている、聖人のお言葉であることをお話ししました。

この、同じことを二回仰っている『正信偈』の冒頭から、私たちはどんなことを知ることができるのでしょうか。

一つは、

「阿弥陀仏に救われるのは、死んでからではない、生きている時である」

ということが分かりますね。

『正信偈』は、親鸞聖人が生きておられるときに書かれたものですし(当然ですよね)、その『正信偈』に救われた、助けられた、といわれているのですから、

「阿弥陀仏に救われた」ということが、「生きている時」にある、ということです。

そして二つには、

「阿弥陀仏に救われたことは、繰り返し言わずにおれないほどのものである」

ということも、分かります。

そのような「阿弥陀仏の救い」であることを、親鸞聖人は、朝晩、お勤めの時に教えておられるのですね。

意味をかみしめて、心静かに、拝読させて頂きたいと思います。

親鸞会で正信偈について学ぶ

0 6月 30th, 2009

親鸞会では月一度、親鸞会館という仏法を聞くための会場で正信偈についてのお話があります。
この前聞かせてもらった内容は正信偈の「已能雖破無明闇」についてでした。
とても全て書くことが出来ませんので、今日は煩悩と無明の闇について書きたいと思います。
煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、全部で108つあります。
特に恐ろしいものが3つあって、これを三毒の煩悩といいます。
三毒の煩悩とは、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の3つです。
貪欲とはいわゆる欲のこころで、なければないで欲しい欲しい、あればあったで欲しい欲しいという心です。
我ながら、欲の心は浅ましいなと思います。
もっと他人にゆずってあげれれば相手の方にも喜んでいただけるし、自分も気持ちいいのに、ついつい、それは私の!とか、その人じゃなくと私の方を褒めて!とか、そういう心が出てきては、小さいことにクヨクヨしたり意地を張っているなと思います。
また、うまくいかないと腹が立ちます。
この腹立つ心のことを仏教で瞋恚というのです。
これももっと寛容な大人になりたいと思うのですが、カチンとくると、もうムカムカしてしまうんですよね。
皺も増えるし、精神衛生上もよくないと思うのですが、これがなかなか・・・
愚痴とは怨み、呪いの心。
またねたみ、そなみの心です。
他人の幸福を素直に喜べない心があります。
他人が褒められると、すごい!とか口では言うのですが、私だって頑張ってるのに、あの子ばっかりずるい、あの子のほうが若くて可愛いから評価が高いだけで、仕事の中身でいえば私のほうが・・とかみっともないことを思っちゃうんですよね。
こういったものが煩悩で、人はみな煩悩のかたまりだと仏教で教えられるんです。
正信偈に出ている「無明の闇」とは煩悩とは違うものなんですね。
正信偈に書かれている「無明」とはどういうことかを知っていただくには、この煩悩の違いを知ることが大事なので、まず煩悩から書きましたが、次回に親鸞と無明の闇については書きたいと思います。

弥陀の救い

0 6月 18th, 2009

正信偈の冒頭に「帰命無量寿如來南無不可思議光」とあるように、全く同じことを二度繰り返しているというのは、親鸞聖人が言っても言っても言い足りない、書いても書いても書き足らない喜びの無限の波動をあらわしているのです。

親鸞聖人が繰り返して生命の歓喜を叫ばずにおられなかった弥陀の救いというのはどんなものなのでしょうか?!
正信偈最初の二行で生きている今、弥陀に救われたということがある、そしてそれはハッキリする、ということが分かります。

親鸞聖人が「阿弥陀如来に救われたと」と言われているのは言葉を変えていうと「人生の目的が完成した」ということなのだそうです。
人は何のために生まれてくるのか?なぜ生きているのか?どうして自殺をしてはいけないのか?その答えがハッキリし、人生の目的を達成されたことだと教えてもらいました。

本当の人生の目的を知って、それを完成させ「人間に生まれてよかった」と本当の幸福になるために生きている・・・・。
素晴らしいことですね。

真の人生の目的を達成された喜びが、正信偈の最初の二行に書かれているわけですが、
その人生の目的を、歎異抄では「摂取不捨の利益」を獲ること「無碍の一道」へ出ることだと書かれています。
この「摂取不捨の利益」も「無碍の一道」も今の日本語でいいかえれば「絶対の幸福」ということになり、どんなことにも絶対に壊れない、崩れない無上の幸せのことです。

次回は、親鸞会で聞かせてもらったことについて調べていきたいと思います。

正信偈の「如来所以興出世唯説弥陀本願海」とは

0 5月 27th, 2009

今回は正信偈に出てくる如来所以興出世唯説弥陀本願海についてお話したいと思います。
正信偈というのは、親鸞聖人の「教行信証」の6巻すべての内容を大切な教えだけを凝縮し抜粋したものなのです
そして、正信偈の冒頭は歎異抄の冒頭にもあるように親鸞聖人自らの阿弥陀仏に救われたことが書かれてあります。

そんな正信偈ですが、冒頭ばかりを調べるのではなく今回は「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」の2行について調べていきたいと思います。

如来、世に興出したもう所以は、唯弥陀の本願海を説かんがためなりと読みます。
まず最初の一行から説明いたしましょう。

如来とは、釈迦如来、お釈迦さまのことです。

お釈迦さまがこの世、この地球上に、興出、生まれでられた、所以、目的は、こらが最初の一行です。
ですからこの正信偈の一行の意味は

「お釈迦さまがこの地球上に現れられた目的は」ということです。
お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、と言い換えてもいいでしょう。

唯説弥陀本願海の唯説とは、唯一つのことを説かれたのだ、という意味です。
お釈迦さまは45年間仏教を説かれていますし、その教えは7000冊以上のお経として書き残されていますのでたくさんのことを教えられているのだろうと普通思われると思いますが、お釈迦さまは唯一つのことを教えられたのです。

ではお釈迦さまが教えられたただ一つのこととは何でしょう?
親鸞聖人は正信偈に「それは弥陀の本願である」と書かれています。

お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、ただ弥陀の本願一つを説かれるためであったと親鸞聖人は正信偈に断言しておられるのです。

これはお釈迦さまが説かれた7000冊以上ものお経を全部読んで理解しないと言えないスゴイ言葉なのです。

このようなことを親鸞会というところで教えてもらうことができるそうなので近々おとづれたいと思います。

正信偈「後生の一大事」

0 5月 14th, 2009

正信偈の冒頭の二行で親鸞聖人が阿弥陀如来に救われた喜びを告白しておられると前回もお話しました。
御文章にも似たようなことがかいてありますが、これは有名な歎異抄の冒頭にある「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と同じこととを意味しています。

しかし、正信偈で親鸞聖人は阿弥陀仏に何をたすけられたといっておられるのでしょうか?!
正信偈で救われたといわれているのは、「後生の一大事」を救われた、助けられたと言われているのです。

仏教はこの「後生の一大事」を知るところからはじまり、「後生の一大事」の解決でおわります。
なので、後生の一大事について知っておかなければ仏法は何十年、何百年聞いても分かるものでもなく、親鸞聖人の正信偈を一行も正しく読むことはできないのです。

では、後生の一大事とはどのようなことをいうのでしょうか?
「後生」は一息いれたら後生です。
仏教とかお経と聞くとどうしても「年をとってから聞けばいい」とか「若いから必要ない」という人が多いですがこれは、後生は遠い先の話で自分には関係がないと思っているからだと思います。

まさか!なんてことは突然やってきます。
心臓麻痺や脳梗塞などでいつ自分の吸った息が吐き出せなくなるか分かりませんが、その時から後生になるのです。
人生80年といわれ平均寿命は伸びましたが、いくら寿命が延びたからといっても死なないわけではありません。
いずれ必ずやってくるのが後生なのです。

後生とは無縁の人はこの世に1人としていないのです。