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証歓喜地生安楽

0 4月 11th, 2012

「証歓喜地生安楽」歓喜地を証して、安楽に生ぜん

最初の「歓喜地」とは、下から数えて五十一段目、あと一段で仏覚という大変高いさとりのことです。
龍樹菩薩は、四十一段まで自力で覚られた、どえらい方ではありましたが、
“とても仏の覚りを得られる自分ではなかった。本師本仏の阿弥陀仏のお力によらねば、救われない龍樹であった”と知らされて、
「私は弥陀の救いによって、この世は歓喜地になり、死後、弥陀の浄土(安楽)へ生まれるのだ」
と言われているのが、
「歓喜地を証して、安楽に生ぜん」
というお言葉です。
この一行で龍樹菩薩は、「現当二益」を教えておられるのです。

弥陀の救いは、この世と未来の二度あることを「現当二益」といわれます。「現益」と「当益」の二つです。
「現益」とは現在の救い、「当益」とは死後の救い、ということです。
阿弥陀仏のお力によって、この世で救い摂られたことを龍樹は、
「歓喜地を証して」
と言われ、死ぬと弥陀の浄土へ往くことを、
「安楽に生ぜん」
と言われているのです。
このように、龍樹菩薩のような偉大な方でも、弥陀の広大な救いに遇い、弥陀の救いは「現当二益」であることを明らかにされているのだよと、親鸞聖人が仰っているお言葉です。

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法

0 3月 31st, 2012

釈迦如来楞伽山 釈迦如来楞伽山において、
為衆告命南天竺 衆の為に告命したまわく、
龍樹大士出於世  南天竺に龍樹大士、世に出でて、
悉能摧破有無見  悉く能く有無の見を摧破し
宣説大乗無上法 大乗無上の法を宣説す

「釈迦如来楞伽山(釈迦如来楞伽山において)」とは、
「釈迦如来が、楞伽山という山で、ご説法しておられた時に」
ということです。
「為衆告命(衆の為に告命したまわく)」とは、
「その時の参詣者に告げられた、予言された」
ということです。その内容を次に、
「南天竺に龍樹大士、世に出でて、
悉く能く有無の見を摧破し
大乗無上の法を宣説したもう」
といわれています。
「南天竺」とは、「南インド」のこと。
お釈迦様は、
「私がこの世を去った後、七百年後、南インドに、龍樹という勝れた人が現れて、真実の教えを弘宣するであろう」
と予言されています。
果たして、その釈迦の予告通りに龍樹菩薩という人があらわれて、
「悉く能く有無の見を摧破」
されたのだ、と言われています。
「有無の見」とは、「有の見」と「無の見」のことです。(いずれも間違った思想。後述します)。その謬見を、
「悉く能く摧破する」とは、
「徹底的に排斥された」ということ。
龍樹菩薩は「有無の二見」を完膚無きまでに打ち破られて、
「大乗無上の法を宣説したもう」
真実の仏法を明らかにされたのだ。
「釈迦が告げられた通りの、龍樹菩薩の大活躍のお陰で親鸞、大乗無上の法を知らされ、救い摂られることができたのだ」
と、厚きご恩に感泣されているのです。

しかし、龍樹菩薩がそのように、聖人からも尊敬されるような偉大な方になられるのは、紆余曲折を経てのことでした。

◇ ◇ ◇

南インド、コーサラ国のバラモンの家に生を受けた龍樹は、聡明な頭脳をもって、幼少にしてバラモン経の四べーダの経文を悉く諳んじてしまった。青年になると、清新な知識を求めてインド中を巡り、天文学、薬学、錬金術、易学など手当たり次第に習得し、学び尽くしていった。
龍樹に出会う者、ただただ学問の深さに驚き、舌を巻くばかり。二十歳の頃には最早、国内に並ぶ者ない天才として、名声はとどろいていたといわれる。
「俺はもう、天下の学問を成し終わった。すでに学ぶべきものは何もない」
若年にして功を成すは身を誤らせる元なのか、傲慢が彼を支配した。

龍樹には三人の勝れた親友があった。類は友を呼ぶのであろう、彼らの学問も人並みではなかった。そんな友人らと交友を重ねていたある時、
「お互いにもう学問は学び尽くしてしまった。楽しみが無くなってしまったな」
一人が言うと、
「何を言うか。確かに学問に楽しみはもうないが、快楽とはそればかりではあるまい。我々はまだ、肉体の歓びを十分に味わっていないではないか」
人生最高の歓楽は情欲にあり、と聞いて若い血潮は騒いだ。四人は、色欲の満足を求めて巷の女性を誘惑し、欲望の餌食としていったのである。

市井に美女を求め、女漁りを続けていた四人は、やがて並の女性では飽きたらず相談の末、城の後宮に忍び込み、国王の寵愛する女性達を、情痴の餌としようと画策する。後宮こそ、国中から選りすぐられた麗人の宝庫。ある晩、夜陰に乗じて龍樹らは巧みに王宮に潜入し、女性たちの部屋を目指す。国王の愛人達は、この意外な闖入者に最初は驚きの色を示したが、別に危害を加えられるのでもなく、彼らの目的が自分たちの肉体であると知ると、もはや騒ぎ立てるような愚かな真似はしなかった。
数十人で、たった一人の国王の寵を競っていた彼女たちにとって、中年を過ぎた肥満体とは対照的な、龍樹達の逞しい魅力的な肉体は却って歓迎すべきものであったのである。
こうして四人は、夜な夜な思いのままに、美女達と戯れあった。

しかし、このようなことがいつまでも発覚せぬはずがない。後宮の微妙な変化を感じとった王は、家臣に調べさせた。事実を知って激怒した王はその夜、宮廷の庭かげに屈強な衛兵を配備して、侵入者を待った。
そうとも知らず龍樹らはいつものように、宮中が寝静まった頃、愛欲の蜜を求めて忍び込んできたが、庭半ばに進んだ時、「賊共を切り捨てよ」の王の号令一下、飛び出してきた群臣の刃に包囲されてしまう。
抵抗空しく、三人の親友はたちまち斬り伏せられ、混乱の中、龍樹だけがなんとか難を逃れたのであった。城外に脱出した龍樹であったが、眼前で斬殺された友の死に、悔悟の念と、激しい無常を痛感したのである。
「俺は間違っていた。情欲こそ災いの元であった。それにしても、何とはかない人間の命であることか。彼らの魂はどこへ行ったのか。俺が死んでたら、一体どうなっていたのだろうか」
以来、龍樹の煩悶は深さを増し、矢も楯もたまらず、魂の解決を仏道に求めたのであった。

出家授戒した寺院にて、早速、小乗経典に取り組んだが、わずか九十日で読み尽くしてしまった。だが、魂の救いは得られない。
そこで、インド北方、ヒマラヤ山の麓、仏跡の散在する地域に秘伝されるという大乗経典を求めて旅立ったのである。

道中、各地に名だたる学者を訪問するが、いずれも龍樹の博識に却って驚嘆するばかりで、師と仰ぐに値する人物に巡り会うことはなかった。
やがてヒマラヤ山中の古びた寺を訪ねたとき、大乗経典を伝持する老比丘に出会うことができた。念願の大乗経典に接した龍樹の歓びは大きかった。経典に基づき、能うかぎりの仏道修行に精進していった。
精懃十数年、修行の峻厳さは古の釈尊もかくやと思われんばかりである。結果、仏覚に至るまでのさとりの五十二位中、四十一位の初地という位まで到達したのである。
自力修行によって四十一位を悟ったのは、釈迦を例外とすれば、龍樹と、後の天親菩薩の兄・無著の二人だけと言われている。
しかし、さすがの龍樹も、初地に至るのが精一杯であった。
「これから、五十段位の十地を超え、仏覚を極める難行苦行の道は、釈尊の如き大丈夫志幹の方ならともかく、?弱怯劣な人間の歩める道ではない。ああ、どこかに、私のような劣機でも救われる法はないのだろうか」
厚い修行の壁に悩む龍樹に、光明は意外な方面から射し込んできた。ヒマラヤの奥深い地域に龍族という部族があり、その長老・大竜が、龍樹を訪ねた来た。
「菩薩よ。我々の村に遠く伝わる経典がある。しかし、未だその真意を会得する賢人がおらず、今日まで経蔵に眠っている。あなたこそ、その経典を伝授するに相応しい方だ。どうか一度、確かめていただけないだろうか」
大竜の言葉に新たな希望を見いだし、龍樹がその村に行ってみると、経蔵には数多の大乗経典が、ぎっしり詰まっていた。龍樹はむさぼるように、それら経典を読破していく。必死にひもといていくうちに、ついに『大無量寿経』を発見、どんな極悪人も救い摂る、阿弥陀仏の本願を知られる。まもなく龍樹は、その弥陀の本願を憶念した一念に、必定の位に救い摂られたのである。
「必定」とは、あと一段で仏という五十一位のことで、「正定聚」とも「等覚」とも、「歓喜地」とも言われる。
魂の解決を果たされた龍樹菩薩は、インドに種々の外道が競いおこり、混乱の極に達していた宗教・思想界に飛び込んで、悉くそれら一切の邪義を打ち破り、弥陀の本願真実を宣布せられたのである。そのことはすでに釈尊が、楞伽山にて説かれた『楞伽経』に、
「未来世に当に我が法を持つ者あるべし。南天竺国の中、大名徳の比丘あらん。その名を龍樹となす。能く有無の宗を破し、世間の中にして我が無上大乗の法をあらわし初歓喜地を得て、安楽国に往生せん」
かく大衆に予言された通りの大活躍であったのだと、親鸞聖人は、
「釈迦如来楞伽山において、
衆の為に告命したまわく、
南天竺に龍樹大士、世に出でて、
悉く能く有無の見を摧破し
大乗無上の法を宣説す」
と仰っているのである。

◇ ◇ ◇

●有無の見●

では、龍樹菩薩が悉く摧破された、「有の見」「無の見」とはどんなことでしょうか。
お釈迦様が仏教を説かれた当時、インドには九十五種の外道がありました。外道とは、仏教以外のすべての宗教のことです。
それらを大きくわけると、断見外道と常見外道の二つになります。
「断見外道」とは「死んだら何も無くなる」という教えです。これを「無の見」とも言われます。「見」とは、そういう考え方、思想、教えのことです。
次に「常見外道」とは、「我々には霊魂なるものがあって、死後、肉体が無くなった後も、変わらずに続く」という教えをいいます。これを「有の見」とも言われます。
当時の九十五種の外道は、このどちらかの教えでした。それは今日でも同じで、真実の仏教以外のすべての宗教は、「有の見」か「無の見」、いずれかに分類されます。
お釈迦様は、二千六百年前に、その有無の二見、どちらも間違いだと教えられました。
『阿含経』というお経に、こう言われています。

「因果応報なるが故に来世なきに非ず、
無我なるが故に常有に非ず」

因果応報とは、因果の理法とか因果の道理といわれるもので、一言で、
「蒔かぬ種は生えぬ。蒔いた種は必ず生える」
ということです。しかも、蒔いたタネと生える結果との関係は、
「善因善果、悪因悪果、自因自果」
と、「蒔いたタネに応じた結果が現れる」ことを「因果応報」といい、これは万に一つ、億に一つも例外のない、大宇宙の真理なのだと、お釈迦様は教えておられます。この因果の道理が、仏教の根幹です。

では、もし断見外道の言うように、「死ねば何にも無くなる」としたらどうなるでしょう。
たとえば一人の人を殺した者が、その報いとして一回死刑にあうとします。ところが十人殺しても死刑は一回、百人殺しても一回の死刑です。死んで無になるとしたら、何人殺そうが一回の死刑で終わり、ということですから、一人殺してしまったら、あとは何人殺しても結果は一緒、殺し得ということになってしまいます。これでは誰も納得がいかないでしょう。
「いや納得できる」という人は、こんな話ならどうでしょう。
一日働いて一万円の給料なら、十日働けば十万円、百日働けば百万円もらえれば納得いきますが、十日働いても、百日働いても一万円しかもらえないとしたら、どうでしょう。それでも納得して働けるでしょうか。誰も働く人はありません。道理理屈にあわないからです。因果の道理に合わないからです。
同じことで、百人殺して一回の死刑にあうとしたら、残りの九十九人分の報いを受ける世界が、死後になければなりません。そうでなければ、大宇宙の真理である因果の道理にあわなくなるからです。
これを、
「因果応報なるがゆえに来世なきにあらず」
「蒔いたタネに応じた結果が現れるのだから、死後は何も無くなるという『無の見』は間違いだ」
と教えられているのです。

次に「無我なるが故に常有に非ず」とは、
「無我」とは「我が無い」ということです。
「我」とは、固定不変の「私」というものがある、ということです。これを仏教の言葉で「常一主宰」といいます。常に変わらない「我」というものがあって、それが死後、肉体が無くなっても続いていく、という考えです。これを「有の見」とか「常見外道」と言われるのです。

それに対して、仏教では「無我」といわれ、そのような常一主宰の「我」というものはない、固定不変のものはない、と教えられています。一切のものは因縁が結びついてできており、因と縁が離れれば消滅するのだということです。それを歌でこう表わされています。
「引き寄せて結べば柴の庵にて
解くればもとの野原なりけり」
庵とは、家のことです。テントを想像したほうが分かりやすいかも知れません。柴を引き寄せて結べば、それで家が出来ますが、結んであるヒモをほどけば、家はあとかたもなくなり、もとの野原になる、ということです。
「家」という変わらないものが、あるのではない。柱や壁や窓や屋根、瓦などが揃って、因縁が結びついて、しばらく「家」と呼ばれているものがあるだけで、やがて因縁が離れれば、あとかたもなくなる。古い家の取り壊しを思い出せばお分かりになるでしょう。
「私」というものも、色々な構成要素が集まり因縁そろってできているものであり、ガチガチに固まった不変不滅の「我」というものが、あるのではない。これを仏教で「無我」といわれるのです。そして、
「無我なるがゆえに、常有にあらず」
「無我であるから、そんな固定不変の霊魂なるものは無いのだ」
と教えられているのです。だから、
「死後も不滅の霊魂があって続いていく。常に変わらないものがある」
という考え方は間違いだと、仏教では「有の見」「常見外道」を完全に否定されているのです。
その釈迦の教えの通り龍樹菩薩も、「有の見」「無の見」を徹底的にぶち破られ、「大乗無上の法」である「阿弥陀仏の本願」を明らかにされたのです。その情熱的な布教は外道の者どもの反感を買い、龍樹菩薩は迫害され、殉教されています。
その命がけの活動のおかげで親鸞、弥陀の救いに遇わせて頂くことができたのだと、龍樹菩薩を大変尊敬され、御恩に感泣されている『正信偈』のお言葉です。

では、身命を賭して龍樹菩薩が布教せられた、大乗無上の法、阿弥陀仏の本願とは、いかなる救いであったのか。次に、
「証歓喜地生安楽」
と教えておられます。

印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機

0 2月 28th, 2012

印度西天之論家 印度西天の論家、
中夏日域之高僧  中夏日域の高僧、
顕大聖興世正意  大聖興世の正意を顕し、
明如来本誓応機 如来の本誓機に応ずることを明す

「印度」も「西天」もインドのこと、「論家」は菩薩のことですから、
「印度西天の論家」
とは、インドに現れられた「龍樹菩薩」と「天親菩薩」のことを言われています。
次に「中夏日域の高僧」の「中夏」とは中国、「日域」とは日本のことです。「中国の高僧」は、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師の三方、「日本の高僧」とは、源信僧都・法然上人のお二人のことを言われています。
これら七人の、インド・中国・日本に現れられた高僧方を親鸞聖人は、
「印度西天の論家、
中夏日域の高僧」
と言われているのです。

その七高僧方が、
「大聖興世の正意を、顕らかにされたのだ」
と次に言われている「大聖」とは「お釈迦様」のこと、「興出」とは「現れられた」こと、「正意」は「本当の御意」ということですから、この三行は、
「インド・中国・日本に現れられた七高僧方が、
釈迦がこの世に現れられて、仏教を説かれた本意を、
顕らかにして下されたのだ。なればこそ親鸞、救われることができたのだ」
と、その御恩を喜ばれ大活躍を讃えておられるのです。

では七高僧方は、どのように釈迦の本意を鮮明にされたのか。次に、
「如来の本誓、機に応ずることを明す」
と教えられています。
「如来の本誓」とは、「阿弥陀如来の本願」のこと。
「機に応ずる」と言われている「機」とは、私たち人間のことです。
世の中にはいろいろな人があります。男もいれば女もいる。国や言葉も違えば、顔かたちも違う。感情的な人、理屈っぽい人など、それぞれですが、
「阿弥陀如来の本願は、どんな人にも適応する」ことを、
「如来の本誓、機に応ずる」と言われているのです。
ちょうど水が、どんな器にも、器に応じて入るようなものです。丸い器なら丸く、四角い器なら四角く水は入ります。水が器を選んで、こんな器には入らない、適応しない、ということはありません。
同様に、阿弥陀如来の本願は、
「どんな人をも必ず助ける」
と誓われたお約束であることを、七高僧方が明らかにして下されたことを、
「如来の本誓は機に応ずることを明かす」
と言われているのです。

では、七人の高僧方とはどんな方で、どのように「大聖興世の正意」「如来の本誓」を明らかにされたのか。親鸞聖人は『正信偈』のこの後に詳しく、それぞれの方のご活躍を紹介され、功績を讃えておられるのですが、ここでは略説しましょう。

(1) 龍樹菩薩
約千九百年前、インドの人。
釈尊がお経に、「私の死後七百年のち、南インドに龍樹という者が現れ、大乗無上の法を伝えるであろう」と予言されている、その通り大活躍された方。
今日「小釈迦」と呼ばれるほど、仏教の諸宗派から尊敬され、『御文章』にも「八宗の祖師龍樹菩薩」(一帖目十四通)と言われている。
『十住毘婆沙論』に、仏教を「難行道」と「易行道」に分けられ、易行の「弥陀の本願」を勧められている。

(2) 天親菩薩
約千七百年前、インドの人。「世親菩薩」ともいわれる。
『浄土論』は、『大無量寿経』の註釈書。仏教で「論」といえば『浄土論』のことを指すほど有名。『往生論』ともいわれる。
「千部の論主」といわれるほど、多くの著書がある。

このお二方のことを、親鸞聖人は「印度西天之論家」と言われています。
次に、仏教はインドから中国に伝わりました。

(3) 曇鸞大師
約千五百年前、中国の人。
聖人は名前の「鸞」の字を、曇鸞大師から頂かれた。また、『高僧和讃』の数が一番多く(三十四首)ある。『正信偈』には「本師」と仰っている(他には直接のお師匠・法然上人のみ)ことからも、いかに曇鸞大師を尊敬されていたかが知られる。
『浄土論註』は、天親菩薩の『浄土論』を解釈されたもの。「註」とは解釈のこと。仏教で「論註」と言えば『浄土論註』を指す。『往生論註』ともいわれる。

(4) 道綽禅師
約千四百年前、中国の人。
主著『安楽集』に、仏教を「聖道仏教」と「浄土仏教」の二つに分けられ、「聖道仏教では助からぬ。浄土仏教・弥陀の本願のみを信じよ」と、断言して教えられた。これは道綽禅師のような方でなければできないことであったと、偉大な功績を、
「道綽決聖道難証
唯明浄土可通入」(正信偈)
と讃嘆されている。

(5) 善導大師
約千三百年前、中国の人。中国で最も仏教の栄えた唐の時代。
親鸞聖人は『正信偈』に、
「善導独明仏正意」
(多くの僧侶がいたが、「仏の正意」に明らかであったのは、善導大師お一人であった)と絶賛されている。
「大心海化現の善導」(仏さまが、極楽から姿を変えて現れられた方)とも言われている。
『観無量寿経疏』は、釈迦の『観無量寿経』を解釈されたもの。夢に現れた仏の教導を仰いで著されたので、
「写す者は経の如くせよ。一字一句、加減すべからず」
と、自ら仰っているお聖教。

このお三方を、「中夏の高僧」と言われています。
それから日本に伝来した仏教を、このお二人が正しく伝えて下されたのだと、聖人は「日域の高僧」と讃えておられます。

(6) 源信僧都
約千年前、日本の人。「恵心僧都」ともいわれる。
『往生要集』には、地獄・極楽の様子がつぶさに描写され、早く浄土往生の身になることを勧められている。臨終の母君に説法され、弥陀の本願を喜ぶ身となられたことをご縁として、著されたといわれる。

(7) 法然上人
約九百年前、日本の人。「源空」ともいわれる。
親鸞聖人の直接のお師匠。智慧優れ、仏教の大学者であられたことから、「智慧第一の法然房」「勢至菩薩の化身」と仰がれた。勢至菩薩は、阿弥陀如来の智慧を表す菩薩、「化身」とは、その生まれ変わりのこと。
『選択本願念仏集』は、「弥陀の本願以外の総ての仏教を、捨てよ、閉じよ、閣けよ、抛てよ」と徹底された書で、「捨閉閣抛」といわれる。当時の仏教界に、水爆のような衝撃を与えた。『選択集』とも略される。『教行信証』は、この『選択本願念仏集』を解説された著書である。

「このように、インド・中国・日本の七高僧方が、仏教を説かれた釈迦の目的を鮮明にされ、弥陀の本願はどんな人をも救う誓いであることを明らかにして下されたのだ。なればこそ親鸞、救い摂られることができた」
と広大な御恩を喜ばれ、この後、七高僧のお名前を一人ずつ挙げられ、その教えの真髄を要説されているのです。
詳しく解説していきましょう。

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯

0 1月 16th, 2012

弥陀仏本願念仏 弥陀仏の本願念仏は
邪見驕慢悪衆生  邪見驕慢の悪衆生、
信楽受持甚以難  信楽受持すること甚だ以て難し
難中之難無過斯 難の中の難これに過ぎたるは無し

「弥陀仏の本願」とは、
「どんな極悪人も、 平生の一念に、必ず絶対の幸福に救い摂る」
と約束なされている、「阿弥陀仏の本願」のことです。この本願の通りに、「絶対の幸福」に救い摂られて称える念仏を、
「弥陀仏の本願念仏」
と言われています。

弥陀仏の本願に救われたことを、この後に、「信楽受持」とも言われているのです。これを「獲信」とも「信心獲得」とも言われることは重ねてお話ししてきました。
そして、それは大変に難しいことなのだと、
「信楽受持すること、甚だ以って難し」
と仰っています。「甚だ以て難し」とは、非常に難しい、と言うことです。
では、どれほど難しいかというと、次に、
「難の中の難、斯れに過ぎたるはなし」
「斯れ」とは、前の行の「信楽受持」のことですから、
「世の中に難しいことは色々あるけれども、信楽受持(信心獲得)することより難しいことはない」
といわれているお言葉です。

よく浄土真宗では、「他力だから易行じゃ、無条件じゃ、何もせんでいい、そのままのお助けじゃ」と嘯いている人が少なくありませんが、親鸞聖人は、朝晩の『正信偈』に、
「阿弥陀仏に救われることは、極めて難しい。これ以上難しいことはない」
と、常に教えておられます。

では、それはどうしてなのか。なぜ「信心獲得」することが、それほど難しいことになるのか。その理由を前の行の、
「邪見驕慢悪衆生」
「邪見驕慢の悪衆生であるからだ」
明示されているのです。
「悪衆生」とは、「悪い人間」ということですが、普通は「悪い人」というとどんな人のことを思い浮かべるでしょう。強盗殺人、婦女暴行、恐喝や詐欺罪、贈収賄罪……などの犯罪者ではないでしょうか。
だが親鸞聖人がここで「悪い」と言われているのは、そのような「犯罪」のことではありません。
「邪見・驕慢」の者を、「悪衆生」と言われているのです。
そこで、「邪見」「驕慢」とはどんなことか。誰のことなのでしょうか。

●邪見・驕慢●

「邪見」とは、「邪に見る」ことで、「正見」の反対です。
「正見」とは仏教の言葉で、「ありのままに見る」こと。誤魔化さず、偏見のフィルターを通さず、白いものは白、黒いものは黒、四角いものは四角いもの、丸いものは丸いもの、と見る、これを「正見」と言われます。
特に仏教では、「自分の本当の姿を、ありのままに見なさいよ」と教えられているのですが、それが中々できない。正しく見れない。
本師本仏の阿弥陀仏が、私の実態を、
「唯除五逆誹謗正法」
(絶対助かる縁手がかりのない逆謗の屍)
と「正見」されているのに、当の本人は、自分をそんな者だとはとても思えない。

「夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」(御文章)

〝大宇宙の全ての仏方が見捨てて逃げたお前だぞ〟
と教えられても、ピンともカンとも驚かない。
このように、邪な見方しかできず、己の実態をまったく知らないのを「邪見」と言われ、だから「なんとかすればなんとかなれる」と自惚れているのを「驕慢」の者と言われているのです。

「然れば、爰に弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり」(御文章)

〝諸仏に見捨てられた極悪の私を、「われ一人助けるぞ」と立ち上がられた阿弥陀如来が、一劫でなし、二劫でなし、五劫もの間、考えに考え抜かれて本願を建てられ、本願どおりに救うために、兆載永劫の気の遠くなるような長い間ご苦労なされて、『南無阿弥陀仏』を成就して下されたのだぞ〟
と聞かされても、千円もらった程も有り難いとは思わない。
この仏智の不思議を計らい、拒否しているのを「邪見驕慢」と言うのです。
このように、後生の一大事、自分の力で何とかすれば何とかなれるという自惚れ心が、腹底にドーンとあって動かない。弥陀の五劫思惟に反抗して、オレはそんな腑抜けでない、と思っているのだから、弥陀の本願に相応しないことを聖人は、
「邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯」
〝古今東西の全人類は、邪見驕慢の悪衆生であるから、
弥陀の本願に救い摂られることが、甚だ難しいのだ。
難しいことは色々あるけれども、信心獲得することほど難しいことは、大宇宙にないのだよ〟
と『正信偈』に朝晩、教えておられるのです。
私が邪見驕慢の親玉でございましたと、如来の御前に五体投地するのは、地獄一定の実機が仏智不思議に生かされた、不可称不可説不可思議の時です。
そこまでひたすらに自己を凝視して求め抜きなさいよ、と言われている親鸞聖人のお言葉です。

一切善悪凡夫人~是人名分陀利華

0 12月 6th, 2011

一切善悪凡夫人 一切善悪の凡夫人、
聞信如来弘誓願 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏言広大勝解者 仏は広大勝解者とのたまい、
是人名分陀利華 この人を分陀利華と名けたもう

『正信偈』の冒頭に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と叫ばれた聖人は、その「弥陀の救い」を明らかにされて最後に、
「道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説」
「すべての人よ、この親鸞と同じように、早く阿弥陀如来に救われてもらいたい」
と結んでおられます。『正信偈』を書かれた聖人の目的は、私たちが「弥陀に救われること(信心決定)」一つであったことが分かります。この度お話する四行も、その御心は、
「あわれあわれ、存命の中に、みなみな信心決定あれかし」
の外に何もなかったことを確認した上で、解説を進めましょう。

まず「一切善悪の凡夫人」とは、「すべての人」のことです。男も女も老いも若きも、善人も悪人も、この中に入らない人は一人もありません。「どんな人も」ということです。次に、
「聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
と言われている「如来の弘誓願」とは、「阿弥陀如来の本願」のこと。本師本仏の阿弥陀如来が、
「すべての人を
平生の一念
必ず助ける
絶対の幸福に」
と誓われているお約束を、「如来の弘誓願」と言われています。
大宇宙には、地球のお釈迦さまはじめ、大日如来や薬師如来、ビルシャナ如来など無数の仏方がましまして、それぞれに本願を持っておられますが、中でも、
「すべての人(十方衆生)と、約束する」
と、差別なく誓われている阿弥陀如来の本願のことを、「弘誓願(広い誓い)」と言われるのです。

「聞信」とは、露チリ程の疑いも無くなったこと。ですから、
「如来の弘誓願を聞信する」
とは、弥陀の本願通りに「絶対の幸福」に救い摂られて、
「弥陀の本願まことだった、まことだった、ウソではなかった!」
と疑い晴れたことを言われるのです。これを「信心決定」とも「信心獲得」とも言われ、また「獲信」と言われることも、先月お話ししました。これでお分かりのように、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
の二行は、
「どんな人も、
阿弥陀如来に救い摂られたならば」
といわれているお言葉です。

●阿弥陀仏に救われたら、どんないいことがあるの?●

では、弥陀に救われたら、どうなるのでしょうか。信心決定すると、なにかいいことがあるの? 私たちが知りたいことについて、親鸞聖人は続いて、
「仏言広大勝解者(仏は広大勝解者とのたまい)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)」
と明言され、
「凄いいいことがあるのだよ、早く信心決定して、この幸せよろこぶ身になってもらいたい」
と勧めておられるのです。
ここで「仏」と言われているのは、「十方諸仏」のことです。大宇宙にまします無数の仏方のことで、『阿弥陀経』には、東西南北上下のそれぞれの方角に、インドのガンジス川の砂の数ほど(恒河沙数)の仏方がおられるのだと、具体的な名前を挙げて紹介されています。それら無数の仏さまが、弥陀に救い摂られた人を、
「貴方は『広大勝解者だ』『分陀利華じゃ』と褒め讃えて下される」
といわれています。
「広大勝解者」とは仏教の大学者、「分陀利華」は、千年に一度しか咲かない白蓮華のことで、滅多にない素晴らしいことを表します。親鸞聖人はこの四行で、
「どんな人も、阿弥陀仏に救われたならば、大宇宙の無数の仏方から、『あなたは仏教の大学者だ』『滅多にない尊い人だ』と称賛される身になるのだよ」
と言われているのです。

●ほめられると、うれしい●

私たちは朝から晩まで、どんなことを考えているでしょうか。頑張って生きようとするモチベーションは、何でしょう。人それぞれ、いろいろありましょうが、中でも「褒められたい」、これが大変強いのではないでしょうか。評価されたい。実力を認められたい。若く見られたい。キレイと言われたい。モテたい。朝起きて、何を着ていくか、誰とどんなことを話すか。何から何までその行動基準は、「どうしたら他人からよく見られるか」が大きいでしょう。
そして実際に褒められると、どんな気持ちになるでしょう。子供に褒められてさえ、気分がよくなります。「お前なんかにどう言われても、どうってことないよ」と思っている相手からでも、また、お世辞だとは百も承知でも、やはり褒められると嫌な気がしないのが、私たちですね。まして、自分の尊敬する方から賛辞を頂けばなおさらです。「よし、もっと頑張ろう!」と元気が出ます。「どんな困難も乗り越えてゆくぞ」と、勇気が湧いてきます。
このように、人から褒められることも凄い元気と勇気の出ることなのですが、親鸞聖人は『正信偈』のここで、
「阿弥陀仏に救われた人は、
大宇宙の仏さま方から、褒められる身になるのだよ」
と、とてつもないことをおっしゃっているのです。「仏さまから褒められるって?どういうこと?」あまりにも日常からかけ離れているのでピンと来ない、という人もあるでしょうが、これは『教行信証信巻』にも、
「金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何ものをか十とする」
〝阿弥陀仏に救われた人は、死んでからではない、現在生きている時に、十の幸せを頂けるのだ〟
とおっしゃっている五番目に、「諸仏称讃の益」を挙げられて、
「大宇宙のすべての仏方に、褒められる幸せを頂けるのだ」
と言われています。その褒め言葉は、『正信偈』に言われている「広大勝解者」「分陀利華」の他にも、お釈迦さまは、
「すなわち我が善き親友なり」
と、「親友」とまでおっしゃってくださり、また「上上人だ」「無上人(最高の人だ)」「妙好人(妙なる好ましい人だ)」「希有人(めったにない、珍しい人だ)」「最勝人(もっとも勝れた人だ)」など、仏さま方から種々の褒め言葉で称讃されるのですから、勇気百倍、生きる力が沸々と湧いてくるのです。

弥陀に救い摂られてからの、あのたくましい親鸞聖人の生きざまは、一体どこから出てくるのだろうか、と首をかしげる人も少なくありませんが、「迷った人間から何を言われても親鸞、眼中にない。大宇宙の仏さまから褒められる身になったのだからなあ」と、「諸仏称讃の益」に生かされている自覚からにちがいありません。

●たくましき生きざま●

親鸞聖人の生涯は、激しいものでした。波瀾万丈という言葉は、聖人の生きざまを表すためにある、と思えるほどです。「たくましき親鸞」といわれるそのご一生には、どんなことがあったのか。弊社のアニメ「世界の光親鸞聖人」全六巻に詳しく描かれていますが、一例を挙げれば、三十五歳の「肉食妻帯」でしょう。
当時の仏教界では、僧侶には固く禁じられていた「戒律」があり、中でも大きな二つが「肉食」と「妻帯」でした。「肉食」とは、生き物の命を奪ってその肉を食べること、「妻帯」は結婚することです。出家した仏弟子たるもの、これを犯してはならない。「肉食妻帯」した者は僧侶ではない。これが伝統的な仏教であったのです。
その戒律を親鸞聖人は公然と破られ、肉食妻帯を断行されました。
当然「あいつは堕落した」「戒律を破った破戒僧だ」と非難の嵐は巻き起ころう。だが、肉食妻帯が十方衆生(全人類)の姿ではないか。仏の慈悲は苦あるものにおいて偏に重し。欲や怒りの煩悩にまみれ、罪の重い者ほど殊に哀れみたもうのが仏さまではないのか。まして本師本仏の阿弥陀仏の救いに、差別があろうか。肉食妻帯の者が助からない仏教が、本当の仏教といえるか。「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」、男も女も、在家も出家の者も、あるがままの姿で救われるのが真実の仏教なのだ。この弥陀の本願真実を明らかにするためならば、どんな嘲笑罵倒も物のかずではない、と御身をもって示された破天荒の言動が、親鸞聖人の肉食妻帯であったのです。
案の定、聖人には、仏教界は無論、一般大衆からも、「あれで僧侶か」「堕落坊主じゃ」「仏教を破壊する悪魔の坊主だ」「仏法の怨敵じゃ」と非難中傷が浴びせられ、八方総攻撃の的となられたのでした。肉食妻帯だけでなく、三十四歳の三大諍論も、三十五歳の越後流刑も、四十過ぎから二十年間の関東ご布教も、八十四には長子善鸞を勘当も、疑謗の嵐の中を、たったお一人突き進まれた方が、親鸞聖人であったのです。
どうしてそんなことができられたのでしょうか。普通なら意気消沈するところ、その勇気はどこから出ているのか。
大宇宙の諸仏方から「親鸞、あなたは広大勝解者だ」「滅多にない白蓮華のような方だ」と称讃されている自覚から、迷った人間のどんな罵倒も聖人には、牛の角に蚊が刺したほどにも思われなかったのでしょう。

●弥陀の本願、聞き開けよ●

では、地獄より行き場のない極悪の私を、弥陀に救い摂られたならば、どうして大宇宙の仏方がかくも褒めて下されるのでしょうか。
諸仏も釈迦も、その使命は、宇宙の真理「因果の道理」を説き、三世因果を教え、「後生の一大事」を知らせて、その後生の一大事解決してくださる方は本師本仏の阿弥陀仏しかないから、
〝阿弥陀仏一仏に向け、本師本仏の阿弥陀仏を信じよ〟と、
「一向専念無量寿仏」
を教え勧めること以外にはありませんでした。その勧めに順って、阿弥陀仏に救われた人は、弥陀の弟子になったともいえる、さすれば大宇宙の仏方にとっては、まさに「我が親しき友」であり、また一切経を身体で読み破った大学者(広大勝解者)であり、それは滅多にない人(分陀利華)だと、褒め讃えてくだされるのです。

褒められたい一杯の私たちが、「仏さまから褒められる身になれるのだよ」と聞けば、早くそうなりたい、と思いますね。
「親鸞と同じように、阿弥陀仏に救われてもらいたい」
これ以外に、『正信偈』を書かれた目的のなかった親鸞聖人が、
「誰でも仏さまから褒められる大変な身になれるのだよ。この親鸞と同じく、諸仏称讃の益をいただける身に早くなってくれよ。それには、如来の弘誓願を聞信すればなれるのだから、片時も急いで、如来の弘誓願を聞信しなさいよ」
と勧めておられるのです。

●聞信●

そこで大事なことは、
「如来の弘誓願を聞信する」ことだとお分かりでしょう。
「如来の弘誓願を聞信すれば、このような身になれるが、
如来の弘誓願を聞信しなければ、こうはならないのだよ。
だから早く、如来の弘誓願を聞信しなさいよ」
ということだからです。
そこで、「如来の弘誓願を聞信する」とはどんなことか、親鸞聖人からお聞きしましょう。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり   (教行信証信巻)

「聞」=「信」ですから、これは、
「『聞』と言うは……」
とは、
「『聞信』とはどんなことかというと」
ということです。
「それは、『仏願の生起本末』をきいて、『疑心有ること無し』となったことを『聞信』というのだ」
と教導されています。

「仏願」とは、阿弥陀仏の本願のことであり、「如来の弘誓願」のこと。
「生起」とは、建てられた、「本末」とは、その一部始終、ということですから、「仏願の生起本末」とは、
「阿弥陀仏は、なぜ本願を建てられたのか。誰のため、何のために、どんな約束をなされているのか。その誓いを果たすために、どのようなご苦労をなされているのか。その結果、どうなったのか。その本から末まで、すべて」
ということです。その「仏願の生起本末」を聞いて、「疑心有ること無し」と疑い晴れたのを、
「如来の弘誓願を聞信する」
というのだ、といわれているお言葉です。

●「疑心」といっても、二つある●

ここで、「疑心」といわれていますが、仏教では「疑心」といっても二つあることを知らねばなりません。すなわち、晴れる疑心と、絶対に無くならない疑心とがあるからです。
絶対晴れない疑心とは、品物を疑ったり他人を疑ったりする心で、煩悩の一種です。例えば、込んでいる電車の中で、変わった動きをしている人を見て、「あの人、私の金を狙っているスリではなかろうか」と疑ったり、「これはダイヤモンドだ、と言われて買ったけど、ホンモノだろうか」とか、「明日の天気は大丈夫だろうか、予報では晴れると言うが、ホントかな」というように、人や物、天気などを疑う心です。このような疑心は、死ぬまでなくなりません。

親鸞聖人がここで「疑心」と言われているのは、それらの疑心とは違います。「仏願の生起本末(如来の弘誓願)」に対する疑心のみを言い、「疑情」とも言われます。「本願疑惑」とか「仏智疑惑」「不定の心」「二心」「三世の業障」とお聖教にあるのも、すべて「仏願の生起本末」を疑う、この心のことです。この疑いこそ、私たちを苦しめる元凶なのです。(詳しくは、「還来生死輪転家 決以疑情為所止」)

この疑心は、一念で無くなります。一念とは、アッという間もない時間の極まり、何兆分の一秒よりも短い時間。その一念で、「仏願の生起本末」に対する疑心が無くなったことを、親鸞聖人は、
「疑心有ること無し」
と言われているのです。

●「有ること無し」と「無し」の違い●

「疑心無し」でなく、「疑心有ること無し」と言われているのは、どういうことでしょうか。実は、「無し」と、「有ること無し」では、意味が異なります。その違いを例えで言いましょう。
どうしてもお金が要ることになったが工面できず、友人に借りに行った。「どうか、百万円、貸してもらえないだろうか」
「百万円?悪いけど、そんなお金無いよ」と、彼は答えた。
この場合、「今は無い」ということで、後日、有るようになるかも知れません。こういうのは、「無い」です。
ところが、次に借りに行ったら、今度は「百万円、有ること無しだよ」と言って断られた。これはもう、いつ借りに行っても「金輪際、無い」ということ。百万円が「有る」ということが「無い」、ということだからです。こうなると、あきらめるしかない。その友人には、何十年経っても、百万円が絶対にないからです。
親鸞聖人が、ここで「疑心有ること無し」と言われているのは、「仏願の生起本末」に対する疑心が、金輪際無くなったことであり、蓮如上人はこれを、『御文章』の至るところで、
「ツユチリ程の疑心も無し」
といわれているのです。
これを「聞」といわれ、同時に「信心決定」とハッキリ救い摂られますから、この時を「聞即信の一念」とか「聞信」と言われているのです。
その身に救い摂られた人は、大宇宙の仏方から、「仏教の大学者じゃ、分陀利華だ」と褒め讃えられる身になれるのだよ、だから早く、「如来の弘誓願に、疑心有ること無し」と疑い晴れるまで、火の中かき分けても聞き抜けよ、と教え勧めておられるお言葉が、
が、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者とのたまい)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)」
の四行なのです。

獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

0 11月 9th, 2011

初めに「獲信(信を獲る)」と言われているのは、「信心獲得」のことです。
すでに重ねて述べてきたように、『正信偈』冒頭の二行、
「帰命無量寿如来(親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
南無不可思議光(親鸞、不可思議光に南無いたしました)」
これは、
「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ!
親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ!」
という、「弥陀に救われた」聖人の歓喜の告白です。この「阿弥陀仏に救われたこと」を、仏教の別な言葉で「信心獲得」とか「信心決定」、あるいは「信を獲る」とも言われ、『正信偈』のここでは、二字で「獲信」と言われているのです。
では、「信心獲得」「信心決定」「獲信」とは、私たちがどうなったことでしょうか。続けて蓮如上人にお聞きしましょう。

「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」(御文章)

これは「信心獲得の章」といわれる『御文章』の冒頭です。初めにズバリ、
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり」
〝信心獲得するとは、第十八の願を心得ることなのだよ〟
と言われています。
「第十八の願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が、四十八の約束をされている中の十八番目のお約束のこと。「十八願」ともいわれます。阿弥陀仏が本心を誓われている願であり、王本願ともいわれる、弥陀の命です。ゆえに「阿弥陀仏の本願」といえば、この「十八願」のことなのです。一言で、こう約束されている本願です。
「すべての人は、助かる縁手がかりのない極悪人である。
『南無阿弥陀仏』を与えて、必ず絶対の幸福に助けてみせる」
この第十八の願を、「心得る」とは、
「『ご本願の通りでございました』と疑い晴れたこと」です。
では、それはどういうことか、蓮如上人は続けて、
「この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
と、懇ろに解説されています。

●ナムアミダブツって、なに?●

世間では、「南無阿弥陀仏」といえば〝魔除けのマジナイか〟くらいに思われていますが、本当の意味を蓮如上人にお聞きしましょう。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。

〝『南無阿弥陀仏』といえば、わずか六字だから、そんなに凄い働きがあるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸せにする大変な働きがあるのである。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである〟

「(南無阿弥陀仏には)さのみ功能のあるべきとも覚えざるに」
とは、
〝助かる縁手がかりのない極悪人を、絶対の幸福に救う働きがあるとは、誰も思えないだろう〟
ということです。〝猫に小判、豚に真珠〟といわれるように、ネコに小判を与えてもニャンとも喜ばないし、ブタの鼻先に真珠をぶら下げても、ブーとも言わない。見向きもせずエサに顔を突っ込むだけでしょう。それは、小判や真珠に値が無いからではない、それらの値を知る智恵が、ネコやブタにはないからです。
同様に、〝『南無阿弥陀仏』に、それほど凄い働きがあるとは思えない〟のは、六字の名号に「値がないから」ではない、「値を知る智恵が、我々にない」からなのです。
『南無阿弥陀仏』のもの凄い働きを知られた蓮如上人は、
「無上甚深の功徳利益の広大なること、極まりがない」
と言われています。これは無論、蓮師の「こう思う」という私見や、根拠のない独断ではなく、釈迦・親鸞聖人のご教導の通り知らされられての明言です。

お釈迦さまは『大無量寿経』に、

「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう」

〝大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほどの仏方が、異口同音に、阿弥陀仏の作られた名号(南無阿弥陀仏)の不可思議な大功徳を褒め讃えておられる〟
と説かれています。
阿弥陀仏は、なぜ、このような大功徳のある名号を作られたのでしょうか。一体、誰のために、どのようなご苦労をなされて、「南無阿弥陀仏」を完成されたのか。その「名号のいわれ」を親鸞聖人は、こう述べておられます。

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり」(教行信証)

〝すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿弥陀仏)を完成されたのである〟

十方諸仏の悲願に漏れて、捨て果てられた私たちを、本師本仏の阿弥陀仏だけが、「我ひとり助けん」と立ち上がられ、五劫の思惟と兆載永劫のご修行という大変なご苦労をなされて成就されたのが、『南無阿弥陀仏』であるから、この六字の名号の中には「無上甚深の功徳利益(=どんな極悪人をも、絶対の幸福に救い摂る働き)」があるのだよと、釈迦も親鸞聖人も蓮如上人も、一貫して教えておられることがお分かりでしょう。

「『南無阿弥陀仏』のすがたを心得る」
と蓮如上人が言われているのは、
「その『南無阿弥陀仏』を弥陀から賜って、〝助かる縁なき極悪の私を、救いたもう無上甚深の大功徳であった〟と、ハッキリ知らされた」ことであり、これを「信心獲得した」というのだと、蓮如上人は、
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」(御文章)
と言われているのです。

『正信偈』の初めに聖人が、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
〝阿弥陀仏に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀仏に親鸞、助けられたぞ!〟
と表明されているのは、この『南無阿弥陀仏』の大功徳を弥陀から賜って、絶対の幸福に救い摂られたことであり、
「獲信見敬(信を獲て見て敬い)」
とおっしゃっているのも、全く同じ意味です。
次に「大慶喜する」とは、

「この信心をうるを『慶喜』という」(唯信鈔文意)

と聖人の教示されているとおり、「慶喜」は「信心」を表す異名ですから、
「獲信見敬大慶喜(信を獲て見て敬い大慶喜すれば)」
の一行で、
「信心獲得したならば」
「阿弥陀仏に救われたならば」
と言われているのです。

●迷いの世界と縁が切れる●

弥陀に救い摂られたならば、どうなるのか。次に、
「即横超截五悪趣(即ち横に五悪趣を超截す)」
と、これまたとてつもないことを言い切っておられます。
「即ち」とは、同時に。「横に」とは、阿弥陀仏のお力によって。
「五悪趣」とは、五つの苦しみの世界ということで、「地獄界、餓鬼界、畜生界、人間界、天上界」の五つの迷いの世界をいわれます。(※註・「六道」の中の「修羅界」を「人間界」に含めて言われたもの)。私たちの魂は一人一人、これら迷いの世界を生まれ変わり死に変わり、果てしなく経巡ってきたことを親鸞聖人は「多生」「億劫」「昿劫」「微塵劫」と説かれ、『歎異抄』には「久遠劫より流転せる苦悩の旧里」と言われています。
阿弥陀仏に救い摂られたならば、その流転の絆が断ち斬られて、二度と迷わぬ身になることを、
「五悪趣を超截する」
と言われているのです。死ねば必ず弥陀の浄土へ往ける身になるからです。
ゆえに、
「獲信見敬大慶喜(信を獲て見て敬い大慶喜すれば)
即横超截五悪趣(即ち横に五悪趣を超截す)」
と、親鸞聖人が朝晩仰っている二行は、
「弥陀から『南無阿弥陀仏』を賜って信心獲得(獲信)すると同時に、昿劫流転の迷いを一念で断ち切られ、『往生一定』の絶対の幸福に救い摂られるのだ。我々はそのために人間に生まれてきたのであり、仏教を聞く目的も、この外に何にもないのだよ」
と、一日も早い「信心獲得」を勧めておられるお言葉です。
片時も急いで、弥陀の本願を聞き開かせていただきましょう。

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

0 10月 12th, 2011

この「煩悩」と「無明の闇」の違いを正しく知らなければ、親鸞聖人の教えは絶対に分からず、弥陀の救いには遇われません。だからこそ聖人は、『正信偈』に峻別して教えておられる。
ところが、専門外の作家が間違うならまだしも、相当の真宗学者でもこの「煩悩」と「無明の闇」の区別がなされておらず、ごちゃまぜに論じているものがほとんどですから、違いを知るのは大変です。多くの人の仏教観が、こうなるのも当然でしょう。
「阿弥陀仏に救われたならば、欲が減って、何事にも淡泊になるのではないか。今まで一日に十回腹を立てていた人は、忍耐力がついて、五回か六回になるのだろう。執着を離れてひょうひょうとした生き方になるのではないか」
これが常識ですから、それに反する言動を見聞きすると、
「あんたは仏教を聞いているのに、少しも欲が減らないじゃないの」
「腹立ててばかりいるし。聞く前とちっとも変わってない。それで仏教聞いているといえるの?」
「そんなことでは仏教を聞く意味なんてない!」
と非難までする。これは「無明の闇」と「煩悩」との違いが分からず、仏教の目的を完全に誤解しているから。すなわち、
「仏教を聞く目的は、煩悩を減らすことだ」「欲や怒りをコントロールできるようになることだ」と、カンカンに思い込んでいるのです。

そこで聖人は、この「無明の闇」と「煩悩」との違いは簡単に分かることではないからと、さらに譬えを重ねて、
「譬如日光覆雲霧 譬えば、日光の雲霧に覆わるれども、
雲霧之下明無闇 雲霧の下、明かにして闇なきが如し」
〝雲や霧で天が覆われていても、日光で、雲霧の下は明るくて闇がないように、どんなに煩悩に覆われていても、弥陀の智慧の太陽で、心は明るく浄土に遊んでいるように楽しいのだ〟
と解説されています。「日光」とは「太陽」のこと。「弥陀に救い摂られた『後生明るい心』」を、「太陽の光によって闇が無くなった、明るい天」に譬えられているのです。

この懇ろな聖人の教導でお分かりのように、「昼」と「夜」とでは、「雲霧が天を覆っている」状態は同じでも、「日光」の有無によって、全く異なるのです。
「夜」(=「日光」が出ていない間)は、天を覆う「雲霧」も見えないし、「闇」が「闇」とも分かりません。まして、「闇が晴れた明るい世界」など知るよしもないでしょう。
それが、「昼」(=「日光」で「闇」が晴れた)ならば、「闇」が「闇」と知らされ、天を覆う一杯の「雲霧」も、「闇の無くなった明るい世界」も、ハッキリするのです。
これが「夜」と「昼」との違いです。「雲霧」は関係ありません。「日光が出ていないか、出たか」で、全く別世界なのです。
同様に、弥陀に救われる前(無明の闇のある間)は、欲や怒りの「煩悩一杯」も分からなければ、「無明の闇」を「闇」とも分かりません。
ところが、ひとたび、弥陀の智慧の太陽(日光)によって「無明の闇」が照破されたならば、欲や怒りの「煩悩一杯」の自己も、「往生一定」の自己も、ハッキリ知らされるのです。
「雲霧の下、明らかにして闇なし」
は、その自覚を言われたお言葉です。
私たちの本懐成就のポイントは、欲や怒りの煩悩にあるのではなく、「無明の闇が晴れたか、どうか」にあることを、巧みなたとえで説かれているお言葉と知られるでしょう。

●「無明の闇」と「煩悩」のちがい

阿弥陀仏の目的は、私たちの欲や怒りの煩悩を減らしたり無くすることではありません。もしそうなら、弥陀に救われた人は、夜も眠らず食欲減退、ヒョロヒョロの草食系の人間になり、誰かにいきなり頭たたかれても、腹も立たないということになります。おかしいとすぐ分かるでしょう。
弥陀の救いは「無明の闇(後生暗い心)を照破すること」なのです。

聖人は九歳で仏門に入って二十年、比叡山での日々は、まさに煩悩との格闘でした。
「あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。思ってはならぬことが思えてくる。考えてはならぬことが浮かんでくる。恐ろしい心が噴き上がる。どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか」
無常の風は時を選ばず。このままならば、釜の中の魚の如く、永久の苦患は免れぬ。忍びよる無常の嵐に火急を感じ、「こんな親鸞、救われる道があるのだろうか」と下山を決意。間もなく、法然上人に邂逅され、

『凡夫』というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心、多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、止まらず消えず絶えず              (一念多念証文)

〝人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない〟
苦悩の根元は無明の闇一つであると知らされて、「無明の闇を断ち切り、往生一定の身にする弥陀の誓願」に救い摂られたのが、聖人二十九歳の御時のことでした。
それから九十歳でお亡くなりになるまで六十一年間、この「弥陀の救い」ひとつを、すべての人に知らせたいと、「煩悩」と「無明の闇」との違いを『正信偈』に峻別され、
「欲や怒りの煩悩は、死ぬまで無くならぬ。仏教を聞く目的は、後生暗い『無明の闇』を破ること一つなのだ。聞き誤ってはならないよ」
と朝晩、訴えておられるのです。

貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

0 9月 21st, 2011

どうして「後生暗い心」が苦悩の根元なのか。疑問に思う人もあるでしょうが、未来暗いとどうなるか。墜落を知った飛行機の乗客を考えれば、よく分かるでしょう。
小説や映画でたびたび描かれる「日航機墜落事故」は、一九八五年八月十二日、羽田発大阪行きの日本航空123便が、群馬県御巣鷹の尾根に墜落炎上し、五百二十名が亡くなる惨事でした。発見された遺書には、
「恐い 恐い 恐い 助けて 気もちが悪い 死にたくない」(26歳女性)
「もう飛行機には乗りたくない」(52歳男性)
と、悲痛な心境がつづられていました。墜死だけが恐怖なのではない、悲劇に近づくフライトそのものが、地獄なのです。
未来が暗いと、現在が暗くなる。現在が暗いのは、未来が暗いからです。死後の不安と現在の不安は、切り離すことができないことがお分かりでしょう。

●無明の闇を破す、阿弥陀仏の本願●

後生暗いままで、明るい現在を築こうとしても、できる道理がありません。すべての人が苦しみから離れ切れないのは、「お金がないから」でも、「病気だから」でもない、「こんな人と結婚したから」でもなければ、「隣にこんな人が住んでるから」でもない、後生暗い「無明の闇」こそが苦しみの根元なのだと、本師本仏の阿弥陀仏は見抜かれて、こう約束なされています。
「すべての人の『無明の闇』を破り、『往生一定』の大満足の身に救ってみせる」
このお誓いが「阿弥陀仏の本願」です。「本願」とは「誓願」ともいわれ、約束のこと。あの有名な『歎異抄』の一章冒頭に、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」
と言われている「弥陀の誓願」とは、この「阿弥陀仏の本願」のことです。
「往生一定」とは、疑いなく浄土へ往く身になったことで、蓮如上人は「往生は治定せしめたもう」(聖人一流の章)とか、『領解文』にも「往生一定・おん助け治定」と言われています。「一定」も「治定」も、ハッキリしたこと。一切が浄土往生のさわりにならないから「無碍の一道」(歎異抄第七章)とも聖人は言われています。今日の言葉では、「絶対の幸福」といえるでしょう。
その絶対の幸福に、平生の一念、必ず救い摂る、という凄い約束を阿弥陀仏はなされているのです。大宇宙広しといえども、私たちの後生暗い心(無明の闇)をぶち破ってくだされるのは、本師本仏の阿弥陀仏だけなのだと、親鸞聖人は、

無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり (浄土和讃)

と仰っています。意味はこうです。
「阿弥陀仏には、全人類の苦悩の元凶である無明の闇(後生暗い心)を破り、往生一定の大安心に救い摂るお力があるから、大宇宙のすべての仏や菩薩方が、〝智慧光仏〟と弥陀を絶賛されているのである」
この弥陀のお力によって、「後生暗い心」がぶち破られて、「往生一定」に救い摂られたことを、
「已能雖破無明闇」
「弥陀の誓願力によって(=能く)、無明の闇が破られた」
と言われ、『正信偈』冒頭の、
「帰命無量寿如来(親鸞、弥陀に救われたぞ!)
南無不可思議光(親鸞、弥陀に助けられたぞ!)」
の宣言も、聖人自らこの「弥陀の救い」に遇われた魂の絶叫なのです。

●無明の闇が晴れたら、どうなる●

では、無明の闇が破られて、往生一定に救い摂られたならば、どうなるのか。「人生の目的」を成就すると、どう変わるのでしょうか。
「とらわれない生き方」になるのか。「しがみつかない生き方」に変わるのか。執着心の無い、ひょうひょうとした生きざまになるのだろうか。欲や怒り、ねたみそねみなどの煩悩は、少しは減って、穏やかな生活ができるようになるのだろうか。
これらの疑問に、親鸞聖人は続けて、
「貪愛瞋憎之雲霧(貪愛・瞋憎の雲霧)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり)」
とハッキリ答えられ、私たちが仏教を聞く目的を、鮮明にされています。

「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。褒められたい、儲けたい、愛したい、愛されたい、まだ足らんと、際限もなく求める心をいわれます。ダイエットや整形に大金を投じ、時には命の危険さえ冒すのも、モテたい、キレイと言われたい、の強烈な願望にちがいありません。
「瞋」は瞋恚、怒りの心。欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心です。ひとたび怒りの炎が燃え上がると、理性も教養もへったくれもなく八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。十八歳の男が、「交際を邪魔されたから」と、恋人の姉を刺殺した事件も、この怒りのなせる業でしょう。
「憎」は憎しみ・うらみの心。因果の道理が分からず、〝オレがこんな目にあったのは、あいつのせいだ〟〝こいつが余計なことを言ったからだ〟〝世間が悪い〟と他人を怨み世を呪い、ライバルの容姿や人気をねたみそねむ、醜い心のことです。
これら欲や怒り・ねたみそねみの心で私たちは、朝から晩まで煩わされ、悩まされ、イライラしてはいないでしょうか。仏教ではこれを「煩悩」といわれ、全部で百八つあると教えられています。
その百八の煩悩を、雲や霧にたとえられて聖人は「貪愛瞋憎の雲霧」と言われ、次の「真実信心の天」とは、無明の闇が晴れた「後生明るい心」のこと。その天を、欲や怒りの雲霧が「常覆(常に覆っている)」とは、「途切れる間がない、一杯である」ことですから、この三行は、
「弥陀に救われて『無明の闇』が無くなっても、
欲や怒り・ねたみそねみの『煩悩』は、
減りもしなければ無くもならない、まったく変わらない」
と、驚くべきことを喝破されているお言葉です。

已能雖破無明闇

0 8月 4th, 2011

「已能雖破無明闇」と言われているお言葉の、
「破無明闇」
とは、「無明の闇を破す」と読みます。ここで親鸞聖人は、
「人生の目的は、無明の闇を破ることである」
と、明らかにされているのです。

●なぜ生きる●

私たちは何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、どんなに苦しくても、なぜ自殺してはいけないのか。これが「人生の目的」であり、平易な言葉で「なぜ生きる」です。

政治も経済も、科学も医学も、倫理も道徳も法律もスポーツも、人間のあらゆる営みは、「より快適に、少しでも長く生きる」ための努力と言えるでしょう。
教育現場では、子供たちの〝生きる力〟を養おうと必死に取り組みがなされています。CO2の削減目標を高く設定し、エコカー減税やエコポイントを導入したのは、「地球環境を守り、生命を存続させるため」でしょう。
では、どうして命を守らねばならないのか。強く生きて何をするのか。私たちは一体、なんのために生まれ、生きるのか。この「生命の尊厳」「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな政策も技術の進歩も、水面に描いた絵に終わってしまうのではないでしょうか。
「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」
どこにも明答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はありません。『正信偈』にはズバリそれを、
「破無明闇」(無明の闇を破ることだ)
と、断言されているのです。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元である『無明の闇』を破り、〝よくぞこの世に生まれたものぞ〟の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
聖人、九十年のメッセージは一貫して、これしかありませんでした。すべての人の最も知りたい「なぜ生きる」の答えを、鮮明にされた方が親鸞聖人ですから、世界の光と言われるもうなずけます。
では「無明の闇」とは、何か。これを正しく知ることが、生涯かけての最大事になってくるのです。

●苦しみの根元「無明の闇」とは●

「無明の闇」とは、分かりやすく言えば、「死後どうなるか分からない、後生暗い心」のこと。「後生」とは死後のことで、私たちの百パーセント確実な行く先です。禅僧・一休は、
「世の中の娘が嫁と花咲いて 嬶としぼんで婆と散りゆく」
と歌いました。女性は、娘から嫁、嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、どんどん進んでいきます。お婆さんが嫁になったり、嬶が娘になったり、という逆行はない。男も呼び名が違うだけで、すべて同じコースをたどります。だんだんと体力は衰え、病気がちになり、ケガもしやすくなり、物忘れが進み、気力も萎えてくる。どんなに美容整形を施してみても、悲しいかな、避けられないのが「老い」です。
だが、老後で終わりではありません。「散りゆく」と一休が言うように、必ず死んでいかねばなりません。しかも、いつ死ぬか分からない。
年金がちゃんと満額もらえるのか、多くの人が制度に不安を感じていますが、それは「受給年齢まで生きておれる」ことを前提にしてのこと。その年になる前に、事故や病気であっさり死ぬこともある。早ければ今晩かも知れません。
では、死んだその先は、どうなっているのでしょうか。
死んだら天国とか極楽とか言うけれど、本当だろうか。楽しいところへ往けるような気もするけど、ひょっとして暗いところかも……。

「死ぬ」ことを、よく「他界」といわれます。〝この世とは違う、他の世界に行く〟ことですが、他の世界とはどこなのか、ハッキリしているでしょうか。いろいろ想像はしても、確証はない。〝千の風になる〟と言われても、ピンとこない。〝死んだら死んだ時だ〟と強がってみても、どうもスッキリしない。〝死後は無になる〟の信念にも、根拠がない。心はなんだかぼんやりしています。
気楽に考えている人は「念仏さえ称えておれば極楽へ往けるのだろう」と淡い想像をし、自己を真面目に見つめている人は「こんな私は暗い世界へ行くのではなかろうか」と恐れおののく。「でも、そこはお慈悲な阿弥陀さま、なんとかしてくださるだろう」と希望を抱きもする。
いずれにしても、ハッキリしていない。どこへ行くかも分からないまま、一日一日、着実に後生に向かって突き進んでいる。これが、紛れもない私たちの現実ではないでしょうか。

死を遠くに追いやっている間は気づかなかったが、ひょっとして今晩かもと、死を凝視して魂を後生へと送り出してみると、なんとも言えぬ不安な、恐ろしい戦慄を覚える。崖っぷちから千尋の谷底をのぞき込んでいるような薄気味悪い、真っ暗な心が胸一面を覆います。
たとえ命永らえて二十年、三十年生きたとしても、過ぎてしまえばアッという間です。一瞬で「後生」に入って行く。その「後生」がどうなっているかハッキリしない暗い心を「無明の闇」といわれ、この闇こそが、人生を苦に染める元凶なのだと、親鸞聖人は断定されているのです。そして、この「無明の闇を破る」ことが、人生の目的であることを、

「破無明闇」

と漢字4字で仰っているのです。

摂取心光常照護

0 7月 5th, 2011

摂取心光常照護 摂取の心光、常に照護したまう

弥陀の救いとは、どんなことか。救われる前と、救われた後とでは、どう変わるのか。それを親鸞聖人が鮮明に教えておられるお言葉です。

●摂取不捨の利益●

「摂取の心光」の「摂取」とは、「摂取不捨の利益」のことです。「摂取不捨」とは文字どおり〝摂め取って捨てぬ〟ことであり、「利益」は〝幸福〟をいいます。〝ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福〟を「摂取不捨の利益」と言われるのです。「絶対の幸福」といえるでしょう。
私たちは、健康から、子供から、恋人から、友人から、会社から、金や財から、名誉や地位から、捨てられはしないかと、毎日ビクビクしてはいないでしょうか。
彼女にフラれるんじゃないか。メールの返信しないと仲間はずれにされるんじゃないか。やっともらえた内定、取り消されたらどうしよう。定年退職した途端に妻から離縁状を突きつけられたら大変だ。病院から再検査の通知が来たが大丈夫かなあ。うちの子供が事故や事件に巻き込まれたらどうしよう、と薄氷を踏む不安にいつもおびえています。
楽しみも夏の夜の夢、幸せもつかの間の幻、浜辺の砂に指で書いた文字のように儚いものだと知っているからです。たとえしばらくあったとしても、やがて、すべてと別れる時が来ます。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、ただ一人こそ行きなんずれ」(御文章)

「いままで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、いよいよ死んでゆく時は、何一つ頼りにならぬ。誰もついては来てくれぬ。すべてから見放され、独りぼっちでこの世と別れて、いったい、どこへゆくのだろうか」
咲き誇った花も散る時が来る。死の淵に立てば、必死にかき集めた財宝も、名誉も地位も、何もかもわが身から離散し、一人で地上を去らねばなりません。
こんな悲劇に向かっている私たちに、死が来ても崩れない「摂取不捨の幸福」のあることを明示されているのが、親鸞聖人です。絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今すでに受く」(釈尊)
〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と、ピンピン輝く摂取不捨の幸福こそ、誰もが求める人生の目的なのです。

政治も経済も、科学も医学も、法律、芸術、スポーツなどあらゆる人間の営みは、幸福の追求以外にありません。ストレスに耐えて働くのも、資格取得や大学受験に励むのも、スキルアップに努め時間の使い方を工夫するのも、いろんな健康法やダイエットを試したり、合コン・婚活、プチ整形、ファッション、温泉めぐりや食べ歩きなど趣味や生き甲斐もすべて、よろこびや満足を求めてのことでしょう。
しかも私たちは決して、〝夢のまた夢〟と消える幸せのために生きているのではない。一切の滅びる中に、滅びざる真の幸福、「摂取不捨の利益」を得ることこそ、人生究極の目的なのです。

●阿弥陀如来の光明に、二つあり●

次に「心光」とは、阿弥陀如来のお力のことです。阿弥陀如来のお力を「光明」ともいわれるのですが、その「光明」の働きに二つあることを、よく知っていただかねばなりません。

「遍照の光明」と「摂取の光明」の二つです。

「遍照の光明」とは、〝遍く照らす〟とあるように、大宇宙のすべての衆生にかかっている阿弥陀如来のお力です。アメリカ人にも中国人にもアフリカの人も日本人にも、古今東西の人々すべてに働いている。またキリスト教を信じている人も、イスラム教者も天理教の信者も。みんなを照らしておられる阿弥陀如来のお力を、「遍照の光明」と言われるのです。この光明に照らされていない人は、一人もありません。

それに対して「摂取の光明」とは、私たちを一念で「摂取不捨の幸福」に救い摂る働きです。親鸞聖人は、

「一念とは、これ信楽開発の時尅の極促を彰す」(教行信証))

「一念とは、阿弥陀仏に救われる、何兆分の一秒よりも速い時をいう」
とおっしゃって、弥陀の「摂取の光明」によって「摂取不捨の利益」に救い摂られる(信楽開発)のは、「だんだんと」でもなければ「いつとはなしに助かる」のでもない、アッという間もない一瞬であると明言されています。
人生の目的は「摂取不捨の幸福」を得ることですから、「摂取の光明」とは、「一念で人生の目的を果たさせる、弥陀のお力」といっても同じです。
この「摂取の光明」のことを、『正信偈』のここでは「摂取の心光」と言われているのです。

●二つの光明の違い、分かれ目●

この「一念の救い(摂取の光明)」に遇わせるまで、何としても導かんと、阿弥陀如来が、大宇宙すべての人を照らして、押したり引いたり、ああもしたら、こうもしたらと種々に働いてくだされている力が、先に述べた「遍照の光明」なのです。
この「遍照の光明」を、その働きから、「調熟の光明」ともいわれます。

「調熟」とは、一念で人生の目的を果たさせるところまで、私たちの心を調え、誘導し、押し出し、引っ張ってくだされることです。
例えて言うと、集合写真を撮影する際にカメラマンが、
「はい皆さん、前の人の顔と顔の間から見えるようにしてください」
「二列目の方、中腰になってください」
「後ろの方、はいあなたです、気持ち右に寄っていただけますか……」
「赤い服の方、少しお顔が隠れていますので左に……」
などと、撮影できる状態になるまで調整するようなもの、といえましょう。シャッターを押すのは一瞬でも、そのための調節が、どうしても要るのです。

阿弥陀如来は、どうすれば私たちに「摂取不捨の利益」を与えることができるかと、種々にご苦労なされているのです。仏とも法とも知らなかった私が照育されて、無常と罪悪に驚き、後生の一大事を知らされ、仏法を真剣に聞かずにおれなくなる。そしてやがて「摂取の光明」に遇わせるところまで、私たちの心を調えてくださる、その弥陀のお働きを「調熟の光明」といわれ、これは大宇宙すべての人に差別なく平等に(=遍く)かかっている(=照らしてくださる)お力ですから、「遍照の光明」といわれるのです。

このように阿弥陀如来の光明には、「遍照(調熟)の光明」と「摂取の光明(心光)」と、二つの働きがあることをよく知っていただきたいと思います。その違いを知らないと、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
の一行が正しく読めないからです。
二つの光明の違いを一言で言えば、「遍照の光明」はすべての人を照らしているお力ですが、「摂取の光明」は、人生の目的を果たした人だけにかかっている。ここが、まったく違うところです。

次に「常照護」とは、「常に照らして、護ってくだされる」ことですから、
「摂取の心光は、常に照護したまう」
とは、
「一念で弥陀の摂取の光明に救い摂られた後、弥陀のお力は途切れることなく、ずっと護ってくだされるのだよ」
といわれているお言葉です。
これは「摂取の光明」に遇い「摂取不捨の利益」に救い摂られた人(=信後)のことであって、弥陀に救われていない人(=信前)のことではありません。言葉を換えれば、親鸞聖人はここで、弥陀の光明の働きを「遍照」と「摂取」の二つ(信前と信後)に分けられて、その中の「摂取の光明」のことをおっしゃっている、ということです。
「摂取の心光(=摂取の光明)は、」
と言われているのですから、明らかですね。

●要の中の要●

ゆえに、「平生の一念に摂取されたか、どうか」こそが大問題なのだと蓮如上人は、こう断定されています。

「たのむ一念のところ、肝要なり」(御一代記聞書)

「たのむ一念」とは、「弥陀に摂取された一念」「人生の目的を完成した一念」のこと。「肝要」とは「要の中の要」の意であり、これより大事なものはないことをいわれます。
この「たのむ一念」こそ、地獄と極楽の分かれ目であり、信前・信後の水際であり、自力と他力の分岐点であるから、仏教で最も重い言葉を使われているのです。
この肝要がすっぽり抜けているために、浄土真宗に極めて重大な誤解が横行しているのが悲しい実態です。例えば「阿弥陀さまのお力は、南無阿弥陀仏となって今ここに届いている。だからみんな助かっている」などと、ほとんどの人が誤るのです。そして「この身このままのお助けだから、なんにもしなくてよい」とドン座り、「真剣に聞き求める必要はない」と他人の聞法まで邪魔する始末。この末期的症状は、「遍照の光明」と「摂取の光明」との区別がつかず、一緒くたにしているところにあるのです。
大事なところですから、重ねて申しましょう。
「遍照の光明」に照らされてない人は一人もありませんが、「摂取の光明」に遇わねば「摂取不捨の利益」は頂けず、死後、弥陀の浄土へも往かれません。「誰でも彼でも死ねば浄土へ往ける」のではない。だからこそ親鸞聖人は、朝晩の勤行で、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
とおっしゃって、
「早く弥陀の『摂取の光明』に遇わせて頂きなさいよ。平生の一念に、未来永劫の浮沈が決するのだからね」
と、現在の救いを強調されているのです。