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現在ただ今の救い(10)

0 8月 5th, 2010

以上、親鸞聖人、蓮如上人のご教導によって、

阿弥陀如来が「本願文」に

「若不生者不取正覚」(必ず、生まれさせる)

と、命を懸けて誓われている「生まれさせる」は、

「現在ただ今、絶対の幸福に生まれさせる」誓いであることを、明らかにしてきました。

その弥陀の不思議の誓願力、若不生者のご念力によって、絶対の幸福に救い摂られた歓喜の絶叫が、『正信偈』冒頭の、

「帰命無碍光如来(親鸞、阿弥陀如来に帰命いたしました)

南無不可思議光(親鸞、阿弥陀如来に南無いたしました)」

の二行なのです。

「帰命」も「南無」も、「後生の一大事を解決され、絶対の幸福に生まれさせられた」ことを言われるのです。

そして次に、

「親鸞、阿弥陀如来に救われることができたのは、弥陀がこのようなご苦労をして下されたなればこそであった」と、弥陀が本願を建てられた経緯に感泣され、その深いご恩徳を讃えておられるのが、

「法蔵菩薩因位時

在世自在王仏所……」

と続くお言葉です。

次回から、解説していきましょう。

現在ただ今の救い(9)

0 7月 2nd, 2010

私たちを、今までも、今も、今からも苦しめ続ける最も怖ろしい、親鸞聖人の

「助・正間雑し、定・散心雑わる心」

とは何か。また

「疑情」

と言われている ものは如何なるものでしょうか。それが「信受本願」の一念に死ぬ、と言われているものとは一体、どんな心でしょうか。

世間では、我々を苦しめているものは、欲や怒りや愚痴の煩悩だと思われていますが、親鸞聖人は三世を貫いての苦悩の元凶は、そんな煩悩ではないことを教 えられています。ではその元凶はなにか。

お聖教には種々の言葉で説かれています。已に挙げたように、親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とも「疑情」とも言われています。また「本願疑 惑心」とか、「仏智疑う心」とか、「無明長夜の闇」とも仰っています。

覚如上人は「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」とか、「生まるべからざる心」と言い、蓮如上人は「往生不定の心」とか「二心」とか「雑行雑修自力 の心」など、種々教導なされているものです。

一言で言えば、「弥陀の本願」を疑っている心であり、

「死んだらどうなるかハッキリしない心」です。

いざ真面目に自分の死を凝視すると、

「若存若 亡」(ある時は助かるように思い、ある時は助からぬのではなかろうかと危ぶむ心)、

「往生不定の心」(浄土へゆけるかどうか、ハッキリしない心)、

「死んだら どうなるのだろう」

「ひょっとしたら悪い処へゆくのでなかろうか」

「このままでよいのだろうか」

「弥陀は本当に助けてくださるのだろうか」

「俺の信心これでよいのであろうか」

「ひょっとしたら間違っているのでなかろうか」などの心、総べてを言 います。

この三世を徹して苦しめる元凶(三世の業障)を、「必ず、一念で晴らし大安心の心(信楽)に生まれさせる。若し、生まれさせることができなかったら、 正覚を取らぬ」

と誓われているのが、

「若不生者不取正覚」の弥陀の八文字なのです。

この弥陀の誓い通り、本願を信受した一念に三世の業障が死(命終)んで、弥陀の浄土へ往生間違いなし(即生)と、本願に疑い晴れて大満足の心に生ま れられた(不体失往生)のを親鸞聖人は、

「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」

と慶喜なされ、

「若 不生者のちかいゆえ 信楽まことに時いたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」
と和讃なされているのです。

覚如上人は、この弥陀の本願の救いを『改邪鈔』に、

『本願の不思議をもって、生るべからざるものを生れさせたればこそ、「超世の悲 願」とも名け、「横超の直道」とも聞えはんべれ』
と教導なされているのです。

この「生るべからざるもの」が「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」であり、「生まれさせた」が「信楽に生まれた」ことです。こんな不思議な弥陀 の本願だから、「本願の不思議をもって」と覚如上人は言われて、だからこそ弥陀の本願を「超世の悲願」とも「横超の直道」とも教示なされているのだ、と仰っ ているのです。

蓮如上人は『御文章』に、
『「不可称・不可説・不可思議の功徳」ということは、数限りもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻 向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり』

と詳述されています。

これら善知識方が揃って『本願文』の「若不生者」の「生」は、釈迦の『成就文』の「即得往生」であり、親鸞聖人の仰せの通り「信受本願・前念命終・ 即得往生・後念即生」であることを、重ね重ね鮮明になされていることが知らされるではありませんか。

現在ただ今の救い(8)

0 6月 4th, 2010

如何に我々が「信楽の身に生まれる」ことの難しいかを、先回、釈迦や親鸞聖人のお言葉で教えて頂きました。次に蓮如上人のご教導を聞いてみましょう。

蓮如上人は『御文章』に、前掲の『大経』の「易往而無人」の釈迦のお言葉を、 次のように詳説されています。
「これによりて『大経』には『易往而無人』とこれを説かれたり。この文の意は、『安 心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして人なし』と 言えるはこの経文の意なり」釈迦が『大無量寿経』に「易往而無人」と説かれている意味は、「信楽」の身に生まれた人は浄土へは往き易いが(安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄 土へは参り易けれども)、
「信楽」の身に生まれた人が稀にしかないので(信心をとる人稀なれば)、浄土へ往く人がないのだ(浄土へは往き易くして人なし)、と如何に「信楽」の身に 生まれる人の少ないかを教示なされている。

このように、いずれの善知識方も等しく我々の「信楽」に生まれることの難しいことを強調しておられます。

弥陀が名号を誠心誠意与えようとされているのに、なぜ、こんなに「信楽」を獲る人がないのでしょうか。

それについて親鸞聖人は『教行信証』に、こう教誡なされています。

「悲しいかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深 く悲嘆すべし」

折角、弥陀が「名号」を誠心誠意与えようとされているのに、それを拒絶しているから大信海に入れず、果てしない微塵劫の過去から今日今時まで、苦し み続ける悲しい人とならねばならぬのである。

原因は、偏に「助・正間雑し、定・散心雑わるが故に」と、断言されています。

また、『正信偈』には、こう教導されています。

「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」

この意味は、私たちが果てしない過去から今日まで、車輪が果てしなく廻って終わりがないように、苦しみ悩みの迷いの世界を経めぐって終わりがないのは、全 く「疑情」一つなのである、と断言されているお言葉です。

また『高僧和讃』には、次のように教えておられます。

「真の知識にあうことは

難きがなかになを難し

流転輪廻のきわなきは

疑情のさわりにしくぞなき」

これは、私たちが真実の仏法を伝える方に邂逅することは、千載一遇の難事の中の難の難事、滅多にないことなのである。真実の仏法を伝える方とは、我 々が果てしない過去から今日今時まで、苦しみ悩みの迷いの世界を輪廻して終わりがないのは、全く弥陀の本願を疑う「疑情」一つであると教える人である、と言 われているお言葉です。

幸福一つを求めて生きている我々を、果てしない過去から今日まで苦しめ続けてきた最も怖ろしいもの、それを親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わ る心」とか「疑情」と言われています。

「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とか「疑情」とは一体、どんなものなのでしょうか。

次に解明しなければならないでしょう。

現在ただ今の救い(7)

0 5月 7th, 2010

釈迦の『成就文』によって、弥陀の「若不生者」の「生」は「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることが明らか になりました。

言い換えれば、弥陀が

「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」

と誓われているのは、

「若し、極楽に生まれずは正覚 を取らぬ」

ではなく、

「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」

というお約束だということです。
されば弥陀が「若」の一字に正覚(命)を懸けていられるのは、まさしく「信楽」であることは明らかでしょう。

弥陀は我々を破闇満願(信楽)の身にする働きのある名号を完成され、「信楽」の身に救おうとして誠心誠意、その名号を我々に与えよ うとされています。
その弥陀が、なぜ「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」と、正覚(命)を懸けてまで誓われねばならなかったのか。そんな必要がどこにあったのでしょう か。

その理由は、実に我々自身にあったのです。我々の心(自力)が弥陀の本願を疑い、誠心誠意与えようとされている名号(他力)を頑なに拒絶し、全く 受け取る余地のない我々を見抜いてのことであったのです。

釈迦はその実態を『大無量寿経』に、こう説かれています。
「易往而無人」(弥陀の浄土へは、往き易いけれども、人なし)。
親鸞聖人は、この釈迦のお言葉を以下のように解説されます。

『「易往而無人」というは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ往き易きなり、「無 人」というは、ひとなしという、ひとなしというは、真実信心の人はありがたき故に実報土に生るる人稀なりとなり』 (尊号真像銘文)

「弥陀の浄土へは往き易い」と釈迦が言われているのは、「本願力に乗ずれば(信楽)本願の実報土に生るること疑なければ往き易きなり」といい、往き 易いと仰っているのは、信楽の身になっている人のことである。「ひとなし」と言われているのは、「真実信心(信楽)の人はありがたき故に、実報土に生るる人稀なりとなり」と仰って、「信楽に生まれた人」が稀だ からである、

と教えられています。

また、こうも仰っています。
「然るに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽実に獲ること難し」 (教行信証)

総べての人は(常没の凡愚・流転の群生)、弥陀の浄土へ往って無上の仏覚を得ることが難しいのではないのだ。
難しいのは弥陀の浄土へ往ける身(信楽)に成ることなのだ、という教誡です。

釈迦や親鸞聖人のこれらのご教導は、いずれも我々が「信楽の身に生まれる」ことの如何に難しいかを教誡されたものですが、それはそのまま、いかに我々 の心(雑行雑修自力)の迷心が深くて強いかを教示なされたものと言えましょう。

現在ただ今の救い(6)

0 4月 23rd, 2010

弥陀の「若不生者、不取正覚」の仏意を、釈迦は『成就文』に「即得往生、住不退転」の8文字で解説されました。その「即得往生、住不退転」の釈迦の教え を、親鸞聖人は『愚禿抄』に、次のように解明されています。

「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)」

これは一体、どんなことを仰っているでしょうか。
「本願を信受する」とは当然、漢字36文字の阿弥陀仏の本願を「信受する」ことです。決して「若不生者不取正覚」の抜けた、28文字の本願ではありません。
その36文字の弥陀の本願を「信受する」とは、どういうことでしょうか。

「信受する」とは、「まことであったと明らかに知る」ことであり、ツユチリほども疑いのなくなったことをいいます。釈迦や親鸞聖人、蓮如上人は、明信とか、 真知、明知と言われていることです。

弥陀の誓いの36文字にツユチリほどの疑いもなくなったことを「本願を信受する」と言われているのです。
親鸞聖人のお言葉で一例を挙げれば、
「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」 (教行信証)

「攝取不捨の真言」も「超世希有の正法」も同じく弥陀の本願のことですから、本願36文字の誓いに「ウソはなかった」「まことだった」と仰って いるお言葉です。
決してこれは、「若不生者不取正覚」の8字を抜いた、弥陀の本願のことではないのです。

ですから、「ウソではなかった、まことだった」親鸞聖人のお叫びは、「若不生者不取正覚」のお約束「まことだった」と仰っていることは明白です。

「若不生者、不取正覚」とは、「必ず生まれさせる、若し、生まれずは正覚を取らぬ」ということですから、「生まれていない」者には「若不生者」の誓い 「まことだった」とは言えません。いま「生まれた」から言えたのです。死んでからのことなら、生きているときには言えないことです。

ですが「死なねば」「生まれる」ということはないから、親鸞聖人は「本願を信受した」とき死ぬのだと、「心(前念)が、死ぬ(命終)」と仰っています。
「本願を信受するは、前念命終なり」

が、そのお言葉です。

「心(前念)が死ぬ(命終)」と同時(後念)に、「若し、生まれずは正覚を取らぬ」の誓い通り、「信楽(不体失往生)」に生まれると仰っているのです。
これを『愚禿抄』には「後念即生なり」と言われています。「即生」とは、本願を信受した一念に「死んで生まれる」心の誕生(信楽に生まれる)を言います。

親鸞聖人は『愚禿抄』で、『成就文』で釈迦が「即得往生」(即ち往生を得る)と言われているのは、「即得往生住不退転」(不体失往生を得て、不退転 に住す)することだと説き、正定聚不退転(信楽)の身になることだと鮮明にされているのです。

これらによっても分かるように、「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである、と教 えられているのが親鸞聖人であることは明らかでしょう。

現在ただ今の救い(5)

0 3月 23rd, 2010

釈迦の『本願成就文』40字の教えについて、親鸞聖人は『教行信証信巻』にこう言われています、

「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり。

語句の意味は、

・横超……阿弥陀仏の本願。
・願成就……本願成就文。
・一実……大宇宙に二つと無い真実の教え。
・円満……完全無欠の教え。
・真教……まことの教え。
・真宗……真実の宗教。

ということですから、これは親鸞聖人が、

「『阿弥陀仏の本願』とは、イコール釈迦の『本願成就文』の教えである。釈迦の『本願成就文』の教えは、大宇宙無二の真実の教えであり、完全無欠の教えであり、真実の宗教なのである」

と言われているお言葉です。

釈迦の『本願成就文』が、弥陀の『本願文』36文字の一部だけの解説ならば、そんな不完全な教えを「円満」とも「真教」とも言われるはずがありません。『本願文』総ての解説であるからこそ「一実円満の真教」と聖人は絶讃されているのです。

当然ながら、「体失不体失往生の諍論」で論点になっている、『本願文』の「若不生者不取正覚」の8字について、釈迦は『本願成就文』に解説されています。それが、

「即得往生住不退転」

の八字です。これは釈迦が、

「弥陀が本願文に

『若し生まれさせることができなければ、仏の命(正覚)を捨てる』

と誓われている「生まれる」とは、

『即ち往生を得て、不退転に住する』

ということなのだよ」

と鮮明にされているお言葉です。これは、どんな意味なのか。

「死後」のことなのか、「現在」のことか。ここが、

「弥陀の本願」は「体失往生」か、「不体失往生」か、の分かれ目ですから、極めて重大です。

親鸞聖人は、これを『愚禿抄』に、

「信受本願

前念命終

即得往生

後念即生」

と明らかにされています。次回、続けましょう。

現在ただ今の救い(4)

0 2月 18th, 2010

仏教は、仏の説かれた教え、ということです。この地球上では、ただ一人仏の覚りを開かれた、お釈迦さまの教えを、今日、仏教と言われるのです。

では、八十歳でお亡くなりになるまで釈尊は、一体なにを説かれたでしょうか。その全てを書き残されているのが、七千余巻の一切経です。

親鸞聖人は、その一切経を何度も読み破られて、

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」

と断言されています。釈迦如来が、仏教を説かれた目的は、ただ、

「阿弥陀仏の本願」一つを説かれるためであったのだ、と。

「阿弥陀仏の本願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が、なされているお約束のこと。弥陀が本当に願っておられる御心のことです。漢字36文字でなされている、誓いの言葉、これを「弥陀の本願文」と言われます。

さとりが一段違えば、人間と虫けらほど境涯に差があると言われます。まして52段の無上覚を開かれた仏の境涯は、凡夫の智恵ではとても窺い知ることができません。
中でも阿弥陀仏は、十方諸仏の本師本仏であるから、その御意は余りにも深く、弥陀の『本願文』36文字を私たちが読んでも、判らないところがあるのは当然でしょう。

そこで、阿弥陀仏の御意は、仏のさとりを開いた方からお聞きする他ありません。「仏々相念」「唯仏与仏の智見」と言われるように、仏の御意は、ただ仏さまのみ良くこれを知られるからです。
地球上で仏のさとりを開かれた方は、お釈迦様お一人です。そのお釈迦様が、本師本仏の弥陀の『本願文』の本意を、我々に分かるように解説されたお言葉が、漢字40字の『本願成就文』です。
この『本願成就文』によらなければ、弥陀がいかに凄い本願を建立されていても、その願意を正しく知ることはできません。私たちは、『本願成就文』の釈迦の教えによってのみ、本願の真意を知ることができるのです。

故に親鸞聖人は、『本願成就文』の教えこそが、私たちにとって「一実円満の真教真宗」であり、「至極」なのだと明言されています。

これはどういうことか、次回、続けます。

浄土真宗親鸞会で、高森先生からお聞きして初めて知らされた、親鸞聖人の教えです。

現在ただ今の救い(3)

0 1月 15th, 2010

正信偈の最初の二行、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

は、

「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、

親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ」

と、弥陀の救いに遇われた聖人の、歓喜の発露であることを繰り返し述べてきました。

このお言葉から、「弥陀の救い」は死後ではない、現在ただ今の救いであることが

明白であることも、すでに述べました。弥陀に救われるのが人生の目的ですから、

これは、「人生の目的には完成がある」ことと同義です。

ところが今日も、「この世で救われる」「人生に完成がある」とは、誰も思っていません。

親鸞聖人当時も、そうでした。ともに法然上人を師と仰いでいた法友・善慧房証空が、

大衆を前に、「阿弥陀仏の救いは、念仏さえ称えておれば、死んだら極楽。

この世で助かったということなどない」と説法していたのです。

看過できないと親鸞聖人は、待ったをかけられ、論争が始まりました。先回にアニメで

ご覧になったとおりです。

ここで、親鸞聖人が提示された、阿弥陀仏の本願のお言葉の中の、

「若不生者 不取正覚」

について、お話しを続けましょう。これは、

「若し生まれずは、正覚を取らじ」

と読みます。正覚とは、仏の覚りのことであり、仏の覚りは、仏さまにとっては

命ですから、これは阿弥陀仏が、

「もし生まれさせることができなければ、命を捨てる」

と、誓われているお言葉です。そこで、この「生まれる」とは、

「何を、いつ、どのように生まれさせる」ことなのか。

弥陀の命のかかっている「生」の一字ですから、これ以上大事なことはありません。

善慧房はこの「生まれる」を、「死後、極楽に生まれさせる」ことだと解釈し、

そのように説法していたました。つまり「肉体が死んで、生まれる」ことと

理解したのです。これを「体失往生」と言われます。

対して親鸞聖人は、

「後生暗い心・迷いの魂を、現在ただ今、絶対の幸福(信楽)に生まれさせる」

というお誓いなのだと主張されました。この「生まれる」は、「心」のことだと

言われたのです。これは肉体がまだ生きている時の救いですから、

「不体失往生」といわれます。

果たして、法然上人のご裁断によって、親鸞聖人の主張された「不体失往生」こそが、

弥陀の本願の真意であることが明らかになったのです。

そこで、聖人が弥陀の本願文の「生まれる」の意味を、このように鮮明にされた根拠は、

どこにあったのでしょうか。

釈迦の「本願成就文」です。この「本願成就文」について、次回から解説していきましょう。

現在ただ今の救い(2)

0 12月 18th, 2009

正信偈冒頭の二行は、

現在ただ今、弥陀に救い摂られた親鸞聖人の告白であることを重ねてお話ししてきました。

その「現在の救い」を、法友と大げんかしてまで明らかにされたのが、

「体失・不体失往生の諍論」

と言われている、仏法上の争いです。親鸞聖人、34歳の時のことでした。

争いの相手は、善慧房。ともに法然上人をお師匠とする法友です。後に浄土宗を開いた

ほどの優れた人物でした。その善慧房が、大衆にこう説法していたのです。

「皆さん、釈尊がこの世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願一つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、有り難いお約束です」

大衆に混じって聞いておられた親鸞聖人は、この悪魔の説法を見過ごされはされませんでした。

「お待ちください!」

手を挙げられ、決戦の火ぶたは切られます。それからどうなったのか。親鸞聖人はこの論争によって何を明らかにされたのでしょうか。分かりやすく描かれた、アニメーションを見てみましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=MK3iY0QxOWI&feature=player_embedded

善恵房  「何でしょうか。親鸞殿」
親鸞聖人 「今のお言葉、親鸞少々腑に落ちません」
善恵房  「何か気に障られたことでも」
親鸞聖人 「先ほど、あなたは、阿弥陀如来の本願は、死んだら助けるお約束、と言われたようですが」
善恵房  「ああ、それがどうかしましたか」
親鸞聖人 「親鸞は、ただ今、救いたもうた本願を、喜んでおります」
善恵房  「何を言われる親鸞殿。今救われたとなそなたは。この世で救われたということがありましょうか。この世はどうにもならんもんじゃありませんか」
親鸞聖人 「この世さえどうにもならぬ者が、死んで、どうなれましょうか。今、溺れて苦しんでいる者に、土左衛門になったら助ける、という人がありましょうか。今、腹痛で苦しんでいる者に、死んだら治すという医者もいないでしょう」
ある弟子   「まあまあ親鸞殿。ここは皆さんもおられることだし、また後ほど……」
親鸞聖人 「いいえ、釈尊ご出世の、ご本懐の中のご本懐である、阿弥陀如来の本願のことです。皆さんにもハッキリと、知っていただかねばなりません」
善恵房  「親鸞殿、いくらあなたがもっともらしいことを申されても、経典にないことでは、仏教ではありません!お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか」
親鸞聖人 「もちろん、ございます。阿弥陀如来の本願に、『若不生者 不取正覚』とあります。必ず生まれさせると、誓っておられるではありませんか」
善恵房  「ハハハハハハ……。親鸞殿。それこそ、死んだら助けるということではありませんか。死なねば、生まれることはできませんからね。やはり、死んだら極楽へ生まれさせる、というお約束ではありませんか」
弟子   「なるほど、善恵房殿の言われる通りですなあ」
二人   「ハーッハハハハハハ」

親鸞聖人 「善恵房殿、誤りはそこです。あなたの誤りは、実にそこにあるのです」
善恵房  「何ですと?」
親鸞聖人 「死ぬとか、生まれるとかは、肉体のことだけではありますまい。肉体は、死ねば焼いて滅びるもの。肉体よりも、心を重く見るのが、仏法ではありませんか。阿弥陀如来は、私たちの暗い心を、明るい心に生まれさせると、誓っておられるのです。これが、弥陀の本願ではありませんか」
老婆   「心を生まれさせる……?」
(親鸞聖人、その老婆にも目を向けられて)
親鸞聖人 「そうです。心をです。何のために生まれてきたのか。何のために生きるのか。なぜ、生きねばならないのか、分からないでしょう。後生暗い魂を抱えて、生きてはいませんか」
老婆   「うーん、そうじゃな」
親鸞聖人 「私たちの、その後生暗い心を、大安心にしてくださるのが、弥陀の本願です」
(襖がスッと開き、法然上人が本堂に入ってこられる)
参詣者  「あ、法然さまだ」
弟子   「お師匠さまだ」
(善恵房、高座を譲る)
法然上人 「そうだ。親鸞の言う通りじゃ。この法然もただ今、救われたことを喜んでいる。今、救われずして、どうして未来、助かるだろうか」
法然上人 「よいかな。皆さんもよーくお聞きなされ。ここは間違いやすいところです。阿弥陀如来の本願は、この世から未来永劫、助けたまうお約束。誤ってはなりませんぞ」
一同   「ははーっ」
弟子A  「お師匠さま」
善恵房  「……」
「後に、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空も、その過ちを、この時聖人に徹底的に打ち破られたのであった。これは今日、親鸞聖人の三大諍論の一つとして、『体失不体失往生の諍論』と伝えられている」

大変重い内容ですね。ここで、阿弥陀如来の本願の

「若不生者不取正覚」の

「生まれさせる」

の意味が、論じられています。

親鸞聖人は、この「生」を、

「現在ただ今、後生暗い心を明るい心に生まれさせること」だと、明らかにされているのです。

これはまた、聖人90年の生涯、強調して、説き続けていかれたことなのです。

次回、詳しくお話ししましょう。

現在ただ今の救い(1)

0 11月 9th, 2009

『正信偈』の初めの二行、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

について繰り返しお話しをしておりますので、

「早く次に進んでもらえないかな」

と思われる人もあるかも知れません。

が、この初めの二行に、『正信偈』はすべて納まっていますので、

くどいようですが、重ねてお話しさせて頂いていることを、了解して

頂きたいと思います。

つまり親鸞聖人の教えのすべてが凝縮されて いる、初めの二行ですから、

その真意が分からなかったり、誤解していますと、

この後のお言葉の御心も、親鸞聖人の教え全体も、まったく分からなくなって

しまう、ということです。

具体的には、この二行は、

「親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ!助けられたぞ!」

という聖人の絶叫ですが、一体、阿弥陀様に、「何を」救われたと言われているのか。

これが分からなければ、この後にどれだけ、

「どうして救われることができたのか」

「救われてどうなったのか」

「どうすれば、救われることができるのか」

ということを『正信偈』に書かれていても、無意味になってしまいますね。

それで先回は、親鸞聖人が「阿弥陀仏に救われた」と言われているのは、

「後生の一大事を救われた」

=「いつ死んでも浄土往生間違いない身に、救い摂られたこと」

であることを、確認しました。

次に、その「浄土往生まちがいない身」に救われるのは、

「死んだ後」のことではない、

「現在ただ今」のことであることを、親鸞聖人は生涯、鮮明にしてゆかれた、

そのことについて、「体失不体失往生の諍論」を通して、お話しいたしましょう。

これは一言で、「弥陀の救いは、死後か、現在か」という、親鸞聖人のなされた

大きな争いです。

「阿弥陀様は死んだら極楽へ助けてくだされるのだ」

と聞き誤っていた人は、今日の浄土真宗の人だけでなく、親鸞聖人当時も、

あったということです。

しかも、同じ法然門下の先輩、後に一宗一派を開く程の学徳のあった俊秀・

善慧房との対立でした。

その発端と結末を次回、詳しく述べたいと思います。