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普放無量無辺光~超日月光照塵刹(1)

0 10月 5th, 2010

『正信偈』冒頭に親鸞聖人は、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と、後生の一大事を解決され絶対の幸福に救い摂られた大歓喜を、叫び上げられています。その喜びは余人の想像を絶しますが、あえて例えを出して比較の話をしてみましょう。

自分が死刑囚だとします。宣告を受け独房に収監され、執行日は今日か、明日かと恐怖の日々を送っている私に、「明日だ」と告げられる。
いよいよ十三段の階段を上り、黒い布を頭からかぶせられ、首に縄をかけられて、床が抜けようとしていた、まさにその時。
「その死刑待った! 取りやめ!」の一声で、執行を免れた。それだけでなく、「その者に十億円を与えよ」との命によって大金を受け取り、無罪放免、自由の身となったとしたら、その喜びはどれほどか。「うれしいです」などという言葉では、とても表すことはできないでしょう。何が何だか訳が分からず、ただびっくり仰天するだけ、に違いありません。

親鸞聖人が『正信偈』の始めに、「弥陀に救われたぞ、助けられたぞ」と叫んでおられる実体験は、それどころではないのです。百年や二百年ぐらいではない永劫の苦患を逃れて、百兆円や二百兆円で買えない大宇宙の宝物を、現在ただ今、丸もらいさせられた感激は、心も言葉も絶え果てて、ただ泣くばかり。「広大難思の慶心」”広かったぞ!大きかったぞ!想像も絶する驚天動地の慶びがあるぞ!”と絶叫されて当然でしょう。かかる聖人の告白を聞けば、弥陀の救いは決して、「助かったのやら、助かってないのやら、分からん」という曖昧模糊としたものでないことも、お分かりになるでしょう。

「ではどうして親鸞、こんな身に助けていただくことができたのか。それは阿弥陀如来が大変なご苦労をなされて、素晴らしいご本願を建ててくだされたからであったのだ」
と感涙されているのが、次に、

法蔵菩薩因位時   法蔵菩薩因位の時、
在世自在王仏所   世自在王仏の所に在して、
覩見諸仏浄土因   諸仏浄土の因、
国土人天之善悪   国土・人天の善悪を覩見して、
建立無上殊勝願   無上殊勝の願を建立し、
超発希有大弘誓   希有の大弘誓を超発せり、
五劫思惟之摂受   五劫に之を思惟して摂受す。
重誓名声聞十方   重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞えん」と。

と続くお言葉であり、すでに概説しました。
「無上殊勝の願」の「無上」とは、「この上がない」こと。大宇宙に恒沙の諸仏ましませども、本師本仏の阿弥陀如来しかできない、殊に勝れた約束ですから「無上殊勝の願」と称讃され、「希有の大弘誓」とは、「大宇宙に二つと無い、すべての人と誓われた素晴らしいお約束」ということ。いずれも「弥陀の本願」のことです。
「弥陀が五劫の思惟をせられ、”平生に、絶対の幸福に救い切る”と、とてつもない願いを発してくだされたなればこそ親鸞、今、救い摂られることができたのだ」
と感泣絶賛なされ、
「どうか早く皆さんも、弥陀のご本願、聞き開いてくれよ、その他に助かる道は、断じてないのだからね」
と、決死の聞法を勧めておられるのです。

●阿弥陀如来のお力●

では、かかる「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」を建立された阿弥陀如来のお力とは、一体どのようなものであるのか。どんなお力を持たれた仏さまだから、そんな凄いご本願を建てることができたのか。他の仏にはない、「阿弥陀如来」の偉大なお力を教えられたのが、次のお言葉です。

普放無量無辺光 普く無量・無辺光、
無碍無対光炎王 無碍・無対・光炎王、
清浄歓喜智慧光 清浄・歓喜・智慧光、
不断難思無称光 不断・難思・無称光、
超日月光照塵刹  超日月光を放ち、塵刹を照らし
たもう。
一切群生蒙光照 一切の群生、光照を蒙る

これはお釈迦さまが『大無量寿経』というお経に説かれていることを、親鸞聖人が『正信偈』にそのまま記されているところです。
「普放」とは、「普く放っておられる」ということ。
「阿弥陀如来は、『無量光』『無辺光』『無碍光』『無対光』『光炎王光』『清浄光』『歓喜光』『智慧光』『不断光』『難思光』『無称光』『超日月光』、これら十二の光を放ち、塵刹(大宇宙に無数にある地球のような世界)を照らして、一切の群生(すべての人)を救ってくだされるのだよ。その絶大なご念力に照育されて親鸞、救い摂られることができたのだ。なんという幸せ者なのか。深重なる弥陀のご恩徳に、感泣せずにおれない。伝えずにおれない」
弥陀に救われた聖人の慶びが、一言一句にみなぎっています。

「光」とは、仏教で仏さまのお力を表されます。世間でも、「親の七光り」という言葉があるように、「力」を「光」と表現されることがありますね。子にさほど力がなくても、親の力によって、社長になったり議員になったり、タレントになったりするのを見ると、「あれは親の七光りだ」などと言うでしょう。親の体から七つの光が出ているわけではありません。「力」を「光」と表すのです。
お釈迦さまが、本師本仏の阿弥陀如来のお力を、十二に分けて教えられているのが、「十二光」です。

次回から、少しずつ区切りながらお話しましょう。

重誓名声聞十方

0 9月 16th, 2010

「重誓名声聞十方」 重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞えん」と。

「重ねて誓う」とは、
「阿弥陀仏が、重ねて、約束なされている」
ということです。

阿弥陀仏は、
「すべての人を
平生に必ず助ける
絶対の幸福に」
と誓約をなされています。これを「阿弥陀仏の本願」といわれ、それは大宇宙のどの仏もできない約束ですから、親鸞聖人は、
「建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発したもう)」
と述べておられることを、先述いたしました。『歎異抄』冒頭に「弥陀の誓願」と言われているのも、この凄い阿弥陀仏のお誓いのことです。

約束には、必ず相手があります。阿弥陀仏は、「十方衆生」すべての人と約束する、と誓われています。この中に入らない人は、一人もありません。今、キリスト教を信じている人も、イスラム教の人も、ユダヤ教の信奉者も、無宗教の人も。アメリカ人、イギリス人、日本人、中国人、アフリカの人も、すべて。相手構わず、一切差別のない「弥陀の本願」ですから、『歎異抄』には、

「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」  (第一章)

と言われています。男も女も、老いも若きも、慈善家・殺人犯、頭の良し悪しなどは、まったく関係ない。阿弥陀仏は、古今東西の全人類と、約束されているのです。
しかも、その内容が凄い。「死んだらお助け」ではありません。「現在ただ今」救い摂る。どんな極悪人も、平生の一念に、「絶対の幸福」に助け切る、という、とてつもないことを誓われています。
こんな約束のできる方は、大宇宙に無数の仏方ましませども、本師本仏の阿弥陀仏だけですから、親鸞聖人は「弥陀の本願」を「無上殊勝の願」とか「希有の大弘誓」と、『正信偈』に絶賛されていることも、先述しました。

●生きるのは、変わらぬ幸せになるため●

ここで、「必ず救う」と弥陀が誓われている、「絶対の幸福」とは、どういうことでしょうか。
生きる目的は幸福だとパスカルも言います。自殺するのも楽を願ってのことであり、政治も経済も、科学、医学、すべて人の営みは、幸せのほかにはありえません。これに異論を唱える人はないでしょう。
ドラマでも、事件が落着してようやく娘の家庭に平穏が訪れた時、親父さんが娘の両手を握って、「いいか、○○子、この幸せ、離したらアカンで!!」と語るシーンがありました。
人は皆、不幸や災難を厭い、安心や満足を求め、手にした幸せはいつまでも続いて欲しいと願って、生きているのです。
ところが、私たちの追い求める喜びは、変わり通しで、やがては苦しみや悲しみに変質し、崩壊、無に帰することさえあります。
恋のトキメキや結婚の喜びは、どれだけ続くでしょう。相手がいつ病や事故で倒れたり、変心して破鏡の憂き目にあうかも知れません。幸せは、指の間から砂がこぼれ落ちるように消えていく。最愛の人との突如訪れる離別や死別。生涯かけて築いた家もマッチ一本で灰になり、昨日まで団欒の家庭も、交通事故や災害で、「まさか、こんなことになろうとは……」。天を仰いで茫然自失。辛い涙の現実が溢れてはいないでしょうか。
中国四川省の大地震は、深刻な被害をもたらしました。崩壊した校舎の瓦礫を前に、見つからぬ我が子の名を呼び続け、泣き叫ぶ母親の映像に、誰もが胸ふさがる思いをしたでしょう。岩手・宮城内陸の震災でも、「何もかも無くなってしまいました」と嘆く被災者が映し出されていましたが、決して他人事ではありません。
瓢箪の川流れ(*)のように、今日あって明日どうなるか知れぬ幸福は、薄氷を踏む不安がつきまといます。たとえしばらく続いても、死刑前夜のパーティーで、総くずれの終末は、悲しいけれども避けられません。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」               (御文章)

「病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか」
蓮如上人の警鐘乱打です。
風前の灯火のような幸せ求めて、今日も人はあくせく苦しんでいる。悲劇の滝壺に向かっているすべての人を、阿弥陀仏はご覧になられて、
「なんとしても助けてみせる。絶対に崩れぬ大安心・大満足の身に、必ず救う。若し平生に、後生暗い心を、後生明るい『絶対の幸福』に生まれ変わらせることができなければ、この弥陀は仏のさとり(正覚)を捨てる」
(=若不生者不取正覚)
と、「平生の救い」に命を懸けて誓われているのが「弥陀の本願」ですから、親鸞聖人は「若不生者のちかい」とも讃嘆されています。

この約束を果たすために、阿弥陀仏が作られたのが、『南無阿弥陀仏』という「六字の名号」なのです。
ですから、「阿弥陀仏の誓願」とは、こう誓われているお約束なのです。

「どんな極悪人をも絶対の幸福に救う働きのある、『南無阿弥陀仏』を作ってみせる。すべての人に、その名号の大功徳を与えて、絶対の幸福に救い摂る」

阿弥陀仏は、命を懸けてそのように約束されているのですが、ところが、迷いの深い私たちは、
「本当だろうか、そんな働きのある『南無阿弥陀仏』を作られるのだろうか」
「私のようなものが『南無阿弥陀仏』を、頂けるのだろうか」
などと疑う。そこで阿弥陀仏は、私たちのその疑心を晴らすために、重ねて、

「必ず、名号を作ってみせる。間違いなく完成させて、すべての人に与えてみせる」

と誓っておられるのです。そのことを親鸞聖人は、『正信偈』に、
「重誓名声聞十方」(重ねて誓うらくは「名声、十方に聞えん」と)
と教えてくださっているのです。「名声」とは、「南無阿弥陀仏」の名号のこと、「十方」とは大宇宙のことですから、
「名声、十方に聞えん」
とは、
「私の作る名号の素晴らしさを、十方諸仏に褒め讃えさせて、大宇宙のすべての人に聞かせてみせる。そして名号を受け取らせて、助けてみせる」
ということです。

繰り返しになりますが、親鸞聖人が『正信偈』に、
「重ねて誓うらくは、『名声、十方に聞えん』と」
と仰っているのは、こういうことになります。

「阿弥陀仏はすでに、
『十方諸仏の褒め称える南無阿弥陀仏を必ず作ってみせる、そしてすべての人にその名号を与えて絶対の幸福に助けてみせる』
と命を懸けて約束されているのだが、我々の疑心を晴らすために、さらに重ねて、
『名号を必ず完成させてみせる、十方諸仏にその名号(名声)の大功徳を褒め讃えさせて、苦悩の十方衆生に知らしめ、受け取らせて、絶対の幸福に救ってみせる』
と誓われているのだよ」

●名号は、すでに完成されている●

では、阿弥陀仏は、約束されているとおりの「南無阿弥陀仏」を、もう完成されているのでしょうか。
お釈迦さまは、こう教えておられます。

「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう」                       (大無量寿経)

「大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほどの仏方が、異口同音に、阿弥陀仏の作られた名号(南無阿弥陀仏)の不可思議な大功徳を褒め讃えておられる」

このとおり、すでに阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」を完成されていることが分かります。
親鸞聖人は、この「六字の名号」の大功徳を、「功徳の大宝海」とか「本願の大智海」とも『正信偈』に讃嘆され、蓮如上人は平易に、こう詳解されています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり             (御文章)

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである」

このように、『南無阿弥陀仏』はすでに完成されていることを、釈迦も親鸞聖人も蓮如上人も明言されていることが、お分かりでしょう。

●医者が薬を作ったのは、患者に与えるため●

ところが、いくら素晴らしい「南無阿弥陀仏」が完成されていても、私が受け取らねば、私は助かりません。ちょうど、どんな病気でも治す力のある薬がすでに完成していても、患者がそれを飲まなければ、病気は治らないのと同じです。
医者が薬を作るのは、それを患者に与えて、患者の病気を助けるためだからです。
阿弥陀仏が、無上の宝である「南無阿弥陀仏」を作られたのは、私たちに与えて、「絶対の幸福」に救うためです。

では、どうすれば、私たちは「南無阿弥陀仏」の大功徳を、阿弥陀仏から受け取らせていただけるのでしょうか。それ一つを説かれたのが仏教であり、仏教の真髄を明らかにされた親鸞聖人です。『正信偈』には、その聖人九十年の教えが圧縮されているのです。続けて聖人からお聞きしてゆきましょう。

法蔵菩薩因位時~五劫思惟之摂受

0 9月 9th, 2010

「法蔵菩薩因位時  法蔵菩薩因位の時、
在世自在王仏所 世自在王仏の所に在して、
覩見諸仏浄土因 諸仏浄土の因、
国土人天之善悪 国土・人天の善悪を覩見して、
建立無上殊勝願 無上殊勝の願を建立し、
超発希有大弘誓 希有の大弘誓を超発せり、
五劫思惟之摂受 五劫に之を思惟して摂受す

冒頭に、
「帰命無碍光如来
南無不可思議光」
「親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ、
親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ」
と、弥陀に救い摂られた時に、
「阿弥陀如来は一体、誰のために、何のために、どのように本願を建てられたのか。本願を果たすために弥陀はどうされたのか、その結果どうなったのか」、ハッキリ知らされられて、その本願建立の経緯を述べておられるお言葉です。これを「仏願の生起本末」と言われます。
無論これは聖人の独創ではなく、お釈迦さまが『大無量寿経』に説かれている通りであった、と仰っているところです。『正信偈』のお言葉にしたがて、大略を分かりやすい現代の表現で述べてみましょう。

●仏願はどのように起こされたのか●

「今を去ること量り知れぬ久遠の昔に、世自在王仏という仏さまがましました。時に一人の国王があって、世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、なんとかして苦悩の十方衆生(すべての人)を救いたい、の願いを起こし、国も王位も抛って出家の身となり、法蔵と名乗られた。世自在王仏を先生とされたのである。
(このことを親鸞聖人は、
「法蔵菩薩因位時 法蔵菩薩因位の時、
在世自在王仏所 世自在王仏の所に在して」
とおっしゃっています。「因の位」とは、「果の位」である仏覚を求めて、努力精進の因まきをしている、菩薩の位のこと)

才智秀れ志願堅く、はるかに常人に超えていた法蔵菩薩が、世自在王仏のみ元に至り、地にひざまずき、恭しく合掌礼拝して、
『師の仏よ、苦しみ悩むすべての人を見ていると、私はじっとしておれません。どうか私に、助けさせてください』。
『法蔵、そなたの気持ちは尊いが、あの者らは煩悩にまみれ、あまりにも罪が深く、大宇宙のすべての仏方が、とても助けることはできないと見捨てた極悪人なのだよ。それを知ってのことか』
『それはよーく存じております。だからこそ、私に助けさせていただきたいのです。どうぞ、私の為に広く教えをお説きくださいませ。私は、それによって修行して、最もすぐれた浄土を荘厳し、迷いの衆生の悩みの元を除きたいのです』
と申されると、世自在王仏は、法蔵の願いが実に尊く、並々ならぬものであると見そなわして、
『法蔵よ。大海の水を升で汲み取り、幾劫とも知れぬながい間それを続け、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができようか。罪悪深重・煩悩熾盛のすべての人を助けることは、それよりも難しいことなのだ。そなたは、それでもやろうとするのか』。
『私があきらめたら、全人類はこの世も未来も、苦から苦の綱渡り、永劫の苦患に沈まねばなりません。後生の一大事(※巻末参照)、なんとしても助けさせていただきたいのです』
法蔵菩薩の固い決意に、世自在王仏はようやく、
『真心を込めて、一心不乱に道を求めてやまぬなら、必ずその目的を果たし遂げ、いかなる願いでも成就せぬことはないであろう』
とおおせられ、広く二百一十億の諸仏の浄土の優劣と、そこに住んでいる人々の善悪を説き、法蔵菩薩の望みどおり、それらをすべて目の当たりにお見せになったのである。
法蔵菩薩は、それを親しく拝見して、この上もなく秀れた願いを起こされた。その心は極めて静かに、その志は少しの執着もなく、世の中で、これに及ぶものがないという清らかな有り様で、五劫の長い間、思惟を巡らして、浄土を荘厳する清浄の行を選び取られたのである。
(かくて法蔵菩薩が、二百一十億の諸仏の浄土の秀れたところと、 その清浄の行を選び取られたことを、親鸞聖人は、
「覩見諸仏浄土因 諸仏浄土の因と
国土人天之善悪 国土人天の善悪を覩見して」
とおおせられています。「覩見して」とは、「徹底的に調査して」ということ。例えて言うと、家を新築しようとする時に、色々の展示場へ足を運び、モデルハウスを見て回り、全体の間取りや玄関、台所やトイレの使い勝手はどうか、などをよくよく調査するでしょう。そして相応しくないところは採用せず、善いところは取り入れて、最高の家を造ろうとするようなものです)
そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、
『では師の仏よ、どうか、お聞きくださいませ、これから私の願いをつぶさに申し述べましょう』
と言って、四十八願を述べられる。そのうちの十八願を根本の誓願として、限りなき長年月(永劫)にわたる修行を続け、ついに十方衆生を絶対の幸福に救い摂る妙薬・南無阿弥陀仏の六字の名号を成就され、仏と成られた。それが阿弥陀仏であって、その住せられる世界を極楽浄土という。ここを去ること西方十万億の世界を過ぎた所にあり、今もなお、その浄土にましまして説法していられる。成仏せられてからおよそ十劫を経ている。その浄土は善美を尽くし、憂悲苦悩のけがれなき理想の国土である」
と述べられています。

●弥陀五劫の思惟は、だれのため?●

このように、阿弥陀仏は、私たちすべてを救わんがために、法蔵菩薩という因の位の姿となって、五劫の間思惟し、無上の本願を建立せられたのです。
(これを親鸞聖人は、『正信偈』に、
「建立無上殊勝願 無上殊勝の願を建立し、
超発希有大弘誓 希有の大弘誓を超発せり、
五劫思惟之摂受 五劫に之を思惟して摂受す」
とおっしゃっています。かかる素晴らしい願いは、大宇宙に二つとありませんから、「無上殊勝の願」と言われ、「希有の大弘誓」と称讃されているのです。「之」とそのご本願のこと。は「摂受」とは分かりやすく言うと、「よし、この本願で十方衆生を助けることができるぞ」と、阿弥陀仏が確認された、ということ)

では、五劫もの長期間にわたって思案せられねばならなかった、阿弥陀仏のお目当ては、どんな者なのか。

何のためにこの世に生まれてきたのか、サッパリ分からず、ただ生きるために、毎日、食て寝て起きての繰り返しで、やがて年老い、体も動かなくなり、ああ、こんなものが人生なのかと嘆いている。
幸い仏法を聞く縁に恵まれても、晴れたも曇ったも分からず、「死にさえすれば極楽じゃろう」と他人事のように聞いている時は助かるような気がするが、家へ帰れば元の木阿弥だから、「こんな心ではなァ」と首をかしげて思案する。
「いやいや、こんな根性をそのまま助けるとおっしゃるのだから」「どうせ凡夫だ。これくらいは許してもらえよう」と独り決めしてみるけれども、心の底から満足できない。
なぜ喜べないのだろうかと腹底をのぞいてみれば、キョロン、トロン、ボーとした心しか見当たらない。ただ食いたい飲みたい楽がしたい、ねむたいの根性しか出て来ない。善いほうには尻込みするが、悪のほうへはダダ走りする根性、「こんな奴が本当に助かることがあるのじゃろうか」と聞けども聞けども分からない、分かったようでも分からない。困ったようで困らず、泣く程困ってもいないが聞かずにいては気が済まない。こんな奴がいるとは知らなんだ。難治の三病はこのことか、難化の三機とはこの悪性かと、打てど叩けど返事のしない、この悪性こそ、法蔵菩薩の思惟をして五劫の長きにわたらせたのです。
何とかこの逆謗の屍を、絶対の幸福に生き返らせねばならないぞ、後生の一大事、必ず平生に助けてみせる、それにはどうすれば、の法蔵菩薩の願心が、ついに五劫の思惟となってあらわれたのであります。
法然上人は『選択本願念仏集』の中に、

「法蔵菩薩は世自在王仏のみもとにあって諸仏の国土をみ、その救済の方法をしらべたもうに、或は布施を勧むるもの、或は戒律を持たしむるもの、或は忍辱をおしうるもの、或は精進を勧むるもの、或は禅定を勧むるもの、或は智慧を勧むるもの、或は持経すること、或は寺塔を起立すること、或は沙門に供養すること、或は父母に孝養すること、或は師長に奉持すること、こうした色々の善根といろいろの功徳とを規定されてあるけれども、かかる諸行が規定せらるる時は到底すべての人々が救われることができない。そこで一切の善悪の凡夫が、受けとる一つで救われる名号を成就し、これを廻向することを誓い、この名号を受け取る者はすべて救われることを約束せられた」
と、五劫思惟の有り様を詳しく述べられ、お経を念誦せらるる時に、いつもこの五劫思惟の文に感泣せられたという。ある時お弟子がそれをいぶかしく思って尋ねてみると、
「この愚痴の法然房・十悪の法然を助けんがために、五劫の間思惟してくだされたと思えば、弥陀のお慈悲の程が身に沁みて涙がこぼれる」

と仰せられたといいます。
親鸞聖人は『歎異抄』に、

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」

「弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな量りしれぬ悪業を持った親鸞を、助けんと奮い立ってくだされた本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか」
と感泣なされ、
蓮如上人も『御一代記聞書』に、

「思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願に過ぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば仏になるべし」

と讃嘆なされているのは、仏願の生起本末に「疑心有ること無し」と、露チリほどの疑心も無く晴れ渡った歓喜の告白でしょう。

このような話を聞いても、ご文を拝読しても、初めはピンと来ず、誰のことかいな、何のことかいなと、荒唐無稽なおとぎ話のように思えるかもしれませんが、この弥陀の五劫思惟が、自己の体験を通して、そのまま事実となって生きてこなければ、そのご苦労は水泡に帰するのです。

現在ただ今の救い(10)

0 8月 5th, 2010

以上、親鸞聖人、蓮如上人のご教導によって、

阿弥陀如来が「本願文」に

「若不生者不取正覚」(必ず、生まれさせる)

と、命を懸けて誓われている「生まれさせる」は、

「現在ただ今、絶対の幸福に生まれさせる」誓いであることを、明らかにしてきました。

その弥陀の不思議の誓願力、若不生者のご念力によって、絶対の幸福に救い摂られた歓喜の絶叫が、『正信偈』冒頭の、

「帰命無碍光如来(親鸞、阿弥陀如来に帰命いたしました)

南無不可思議光(親鸞、阿弥陀如来に南無いたしました)」

の二行なのです。

「帰命」も「南無」も、「後生の一大事を解決され、絶対の幸福に生まれさせられた」ことを言われるのです。

そして次に、

「親鸞、阿弥陀如来に救われることができたのは、弥陀がこのようなご苦労をして下されたなればこそであった」と、弥陀が本願を建てられた経緯に感泣され、その深いご恩徳を讃えておられるのが、

「法蔵菩薩因位時

在世自在王仏所……」

と続くお言葉です。

次回から、解説していきましょう。

現在ただ今の救い(9)

0 7月 2nd, 2010

私たちを、今までも、今も、今からも苦しめ続ける最も怖ろしい、親鸞聖人の

「助・正間雑し、定・散心雑わる心」

とは何か。また

「疑情」

と言われている ものは如何なるものでしょうか。それが「信受本願」の一念に死ぬ、と言われているものとは一体、どんな心でしょうか。

世間では、我々を苦しめているものは、欲や怒りや愚痴の煩悩だと思われていますが、親鸞聖人は三世を貫いての苦悩の元凶は、そんな煩悩ではないことを教 えられています。ではその元凶はなにか。

お聖教には種々の言葉で説かれています。已に挙げたように、親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とも「疑情」とも言われています。また「本願疑 惑心」とか、「仏智疑う心」とか、「無明長夜の闇」とも仰っています。

覚如上人は「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」とか、「生まるべからざる心」と言い、蓮如上人は「往生不定の心」とか「二心」とか「雑行雑修自力 の心」など、種々教導なされているものです。

一言で言えば、「弥陀の本願」を疑っている心であり、

「死んだらどうなるかハッキリしない心」です。

いざ真面目に自分の死を凝視すると、

「若存若 亡」(ある時は助かるように思い、ある時は助からぬのではなかろうかと危ぶむ心)、

「往生不定の心」(浄土へゆけるかどうか、ハッキリしない心)、

「死んだら どうなるのだろう」

「ひょっとしたら悪い処へゆくのでなかろうか」

「このままでよいのだろうか」

「弥陀は本当に助けてくださるのだろうか」

「俺の信心これでよいのであろうか」

「ひょっとしたら間違っているのでなかろうか」などの心、総べてを言 います。

この三世を徹して苦しめる元凶(三世の業障)を、「必ず、一念で晴らし大安心の心(信楽)に生まれさせる。若し、生まれさせることができなかったら、 正覚を取らぬ」

と誓われているのが、

「若不生者不取正覚」の弥陀の八文字なのです。

この弥陀の誓い通り、本願を信受した一念に三世の業障が死(命終)んで、弥陀の浄土へ往生間違いなし(即生)と、本願に疑い晴れて大満足の心に生ま れられた(不体失往生)のを親鸞聖人は、

「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」

と慶喜なされ、

「若 不生者のちかいゆえ 信楽まことに時いたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」
と和讃なされているのです。

覚如上人は、この弥陀の本願の救いを『改邪鈔』に、

『本願の不思議をもって、生るべからざるものを生れさせたればこそ、「超世の悲 願」とも名け、「横超の直道」とも聞えはんべれ』
と教導なされているのです。

この「生るべからざるもの」が「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」であり、「生まれさせた」が「信楽に生まれた」ことです。こんな不思議な弥陀 の本願だから、「本願の不思議をもって」と覚如上人は言われて、だからこそ弥陀の本願を「超世の悲願」とも「横超の直道」とも教示なされているのだ、と仰っ ているのです。

蓮如上人は『御文章』に、
『「不可称・不可説・不可思議の功徳」ということは、数限りもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻 向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり』

と詳述されています。

これら善知識方が揃って『本願文』の「若不生者」の「生」は、釈迦の『成就文』の「即得往生」であり、親鸞聖人の仰せの通り「信受本願・前念命終・ 即得往生・後念即生」であることを、重ね重ね鮮明になされていることが知らされるではありませんか。

現在ただ今の救い(8)

0 6月 4th, 2010

如何に我々が「信楽の身に生まれる」ことの難しいかを、先回、釈迦や親鸞聖人のお言葉で教えて頂きました。次に蓮如上人のご教導を聞いてみましょう。

蓮如上人は『御文章』に、前掲の『大経』の「易往而無人」の釈迦のお言葉を、 次のように詳説されています。
「これによりて『大経』には『易往而無人』とこれを説かれたり。この文の意は、『安 心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして人なし』と 言えるはこの経文の意なり」釈迦が『大無量寿経』に「易往而無人」と説かれている意味は、「信楽」の身に生まれた人は浄土へは往き易いが(安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄 土へは参り易けれども)、
「信楽」の身に生まれた人が稀にしかないので(信心をとる人稀なれば)、浄土へ往く人がないのだ(浄土へは往き易くして人なし)、と如何に「信楽」の身に 生まれる人の少ないかを教示なされている。

このように、いずれの善知識方も等しく我々の「信楽」に生まれることの難しいことを強調しておられます。

弥陀が名号を誠心誠意与えようとされているのに、なぜ、こんなに「信楽」を獲る人がないのでしょうか。

それについて親鸞聖人は『教行信証』に、こう教誡なされています。

「悲しいかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深 く悲嘆すべし」

折角、弥陀が「名号」を誠心誠意与えようとされているのに、それを拒絶しているから大信海に入れず、果てしない微塵劫の過去から今日今時まで、苦し み続ける悲しい人とならねばならぬのである。

原因は、偏に「助・正間雑し、定・散心雑わるが故に」と、断言されています。

また、『正信偈』には、こう教導されています。

「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」

この意味は、私たちが果てしない過去から今日まで、車輪が果てしなく廻って終わりがないように、苦しみ悩みの迷いの世界を経めぐって終わりがないのは、全 く「疑情」一つなのである、と断言されているお言葉です。

また『高僧和讃』には、次のように教えておられます。

「真の知識にあうことは

難きがなかになを難し

流転輪廻のきわなきは

疑情のさわりにしくぞなき」

これは、私たちが真実の仏法を伝える方に邂逅することは、千載一遇の難事の中の難の難事、滅多にないことなのである。真実の仏法を伝える方とは、我 々が果てしない過去から今日今時まで、苦しみ悩みの迷いの世界を輪廻して終わりがないのは、全く弥陀の本願を疑う「疑情」一つであると教える人である、と言 われているお言葉です。

幸福一つを求めて生きている我々を、果てしない過去から今日まで苦しめ続けてきた最も怖ろしいもの、それを親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わ る心」とか「疑情」と言われています。

「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とか「疑情」とは一体、どんなものなのでしょうか。

次に解明しなければならないでしょう。

現在ただ今の救い(7)

0 5月 7th, 2010

釈迦の『成就文』によって、弥陀の「若不生者」の「生」は「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることが明らか になりました。

言い換えれば、弥陀が

「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」

と誓われているのは、

「若し、極楽に生まれずは正覚 を取らぬ」

ではなく、

「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」

というお約束だということです。
されば弥陀が「若」の一字に正覚(命)を懸けていられるのは、まさしく「信楽」であることは明らかでしょう。

弥陀は我々を破闇満願(信楽)の身にする働きのある名号を完成され、「信楽」の身に救おうとして誠心誠意、その名号を我々に与えよ うとされています。
その弥陀が、なぜ「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」と、正覚(命)を懸けてまで誓われねばならなかったのか。そんな必要がどこにあったのでしょう か。

その理由は、実に我々自身にあったのです。我々の心(自力)が弥陀の本願を疑い、誠心誠意与えようとされている名号(他力)を頑なに拒絶し、全く 受け取る余地のない我々を見抜いてのことであったのです。

釈迦はその実態を『大無量寿経』に、こう説かれています。
「易往而無人」(弥陀の浄土へは、往き易いけれども、人なし)。
親鸞聖人は、この釈迦のお言葉を以下のように解説されます。

『「易往而無人」というは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ往き易きなり、「無 人」というは、ひとなしという、ひとなしというは、真実信心の人はありがたき故に実報土に生るる人稀なりとなり』 (尊号真像銘文)

「弥陀の浄土へは往き易い」と釈迦が言われているのは、「本願力に乗ずれば(信楽)本願の実報土に生るること疑なければ往き易きなり」といい、往き 易いと仰っているのは、信楽の身になっている人のことである。「ひとなし」と言われているのは、「真実信心(信楽)の人はありがたき故に、実報土に生るる人稀なりとなり」と仰って、「信楽に生まれた人」が稀だ からである、

と教えられています。

また、こうも仰っています。
「然るに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽実に獲ること難し」 (教行信証)

総べての人は(常没の凡愚・流転の群生)、弥陀の浄土へ往って無上の仏覚を得ることが難しいのではないのだ。
難しいのは弥陀の浄土へ往ける身(信楽)に成ることなのだ、という教誡です。

釈迦や親鸞聖人のこれらのご教導は、いずれも我々が「信楽の身に生まれる」ことの如何に難しいかを教誡されたものですが、それはそのまま、いかに我々 の心(雑行雑修自力)の迷心が深くて強いかを教示なされたものと言えましょう。

現在ただ今の救い(6)

0 4月 23rd, 2010

弥陀の「若不生者、不取正覚」の仏意を、釈迦は『成就文』に「即得往生、住不退転」の8文字で解説されました。その「即得往生、住不退転」の釈迦の教え を、親鸞聖人は『愚禿抄』に、次のように解明されています。

「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)」

これは一体、どんなことを仰っているでしょうか。
「本願を信受する」とは当然、漢字36文字の阿弥陀仏の本願を「信受する」ことです。決して「若不生者不取正覚」の抜けた、28文字の本願ではありません。
その36文字の弥陀の本願を「信受する」とは、どういうことでしょうか。

「信受する」とは、「まことであったと明らかに知る」ことであり、ツユチリほども疑いのなくなったことをいいます。釈迦や親鸞聖人、蓮如上人は、明信とか、 真知、明知と言われていることです。

弥陀の誓いの36文字にツユチリほどの疑いもなくなったことを「本願を信受する」と言われているのです。
親鸞聖人のお言葉で一例を挙げれば、
「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」 (教行信証)

「攝取不捨の真言」も「超世希有の正法」も同じく弥陀の本願のことですから、本願36文字の誓いに「ウソはなかった」「まことだった」と仰って いるお言葉です。
決してこれは、「若不生者不取正覚」の8字を抜いた、弥陀の本願のことではないのです。

ですから、「ウソではなかった、まことだった」親鸞聖人のお叫びは、「若不生者不取正覚」のお約束「まことだった」と仰っていることは明白です。

「若不生者、不取正覚」とは、「必ず生まれさせる、若し、生まれずは正覚を取らぬ」ということですから、「生まれていない」者には「若不生者」の誓い 「まことだった」とは言えません。いま「生まれた」から言えたのです。死んでからのことなら、生きているときには言えないことです。

ですが「死なねば」「生まれる」ということはないから、親鸞聖人は「本願を信受した」とき死ぬのだと、「心(前念)が、死ぬ(命終)」と仰っています。
「本願を信受するは、前念命終なり」

が、そのお言葉です。

「心(前念)が死ぬ(命終)」と同時(後念)に、「若し、生まれずは正覚を取らぬ」の誓い通り、「信楽(不体失往生)」に生まれると仰っているのです。
これを『愚禿抄』には「後念即生なり」と言われています。「即生」とは、本願を信受した一念に「死んで生まれる」心の誕生(信楽に生まれる)を言います。

親鸞聖人は『愚禿抄』で、『成就文』で釈迦が「即得往生」(即ち往生を得る)と言われているのは、「即得往生住不退転」(不体失往生を得て、不退転 に住す)することだと説き、正定聚不退転(信楽)の身になることだと鮮明にされているのです。

これらによっても分かるように、「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである、と教 えられているのが親鸞聖人であることは明らかでしょう。

現在ただ今の救い(5)

0 3月 23rd, 2010

釈迦の『本願成就文』40字の教えについて、親鸞聖人は『教行信証信巻』にこう言われています、

「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり。

語句の意味は、

・横超……阿弥陀仏の本願。
・願成就……本願成就文。
・一実……大宇宙に二つと無い真実の教え。
・円満……完全無欠の教え。
・真教……まことの教え。
・真宗……真実の宗教。

ということですから、これは親鸞聖人が、

「『阿弥陀仏の本願』とは、イコール釈迦の『本願成就文』の教えである。釈迦の『本願成就文』の教えは、大宇宙無二の真実の教えであり、完全無欠の教えであり、真実の宗教なのである」

と言われているお言葉です。

釈迦の『本願成就文』が、弥陀の『本願文』36文字の一部だけの解説ならば、そんな不完全な教えを「円満」とも「真教」とも言われるはずがありません。『本願文』総ての解説であるからこそ「一実円満の真教」と聖人は絶讃されているのです。

当然ながら、「体失不体失往生の諍論」で論点になっている、『本願文』の「若不生者不取正覚」の8字について、釈迦は『本願成就文』に解説されています。それが、

「即得往生住不退転」

の八字です。これは釈迦が、

「弥陀が本願文に

『若し生まれさせることができなければ、仏の命(正覚)を捨てる』

と誓われている「生まれる」とは、

『即ち往生を得て、不退転に住する』

ということなのだよ」

と鮮明にされているお言葉です。これは、どんな意味なのか。

「死後」のことなのか、「現在」のことか。ここが、

「弥陀の本願」は「体失往生」か、「不体失往生」か、の分かれ目ですから、極めて重大です。

親鸞聖人は、これを『愚禿抄』に、

「信受本願

前念命終

即得往生

後念即生」

と明らかにされています。次回、続けましょう。

現在ただ今の救い(4)

0 2月 18th, 2010

仏教は、仏の説かれた教え、ということです。この地球上では、ただ一人仏の覚りを開かれた、お釈迦さまの教えを、今日、仏教と言われるのです。

では、八十歳でお亡くなりになるまで釈尊は、一体なにを説かれたでしょうか。その全てを書き残されているのが、七千余巻の一切経です。

親鸞聖人は、その一切経を何度も読み破られて、

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」

と断言されています。釈迦如来が、仏教を説かれた目的は、ただ、

「阿弥陀仏の本願」一つを説かれるためであったのだ、と。

「阿弥陀仏の本願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が、なされているお約束のこと。弥陀が本当に願っておられる御心のことです。漢字36文字でなされている、誓いの言葉、これを「弥陀の本願文」と言われます。

さとりが一段違えば、人間と虫けらほど境涯に差があると言われます。まして52段の無上覚を開かれた仏の境涯は、凡夫の智恵ではとても窺い知ることができません。
中でも阿弥陀仏は、十方諸仏の本師本仏であるから、その御意は余りにも深く、弥陀の『本願文』36文字を私たちが読んでも、判らないところがあるのは当然でしょう。

そこで、阿弥陀仏の御意は、仏のさとりを開いた方からお聞きする他ありません。「仏々相念」「唯仏与仏の智見」と言われるように、仏の御意は、ただ仏さまのみ良くこれを知られるからです。
地球上で仏のさとりを開かれた方は、お釈迦様お一人です。そのお釈迦様が、本師本仏の弥陀の『本願文』の本意を、我々に分かるように解説されたお言葉が、漢字40字の『本願成就文』です。
この『本願成就文』によらなければ、弥陀がいかに凄い本願を建立されていても、その願意を正しく知ることはできません。私たちは、『本願成就文』の釈迦の教えによってのみ、本願の真意を知ることができるのです。

故に親鸞聖人は、『本願成就文』の教えこそが、私たちにとって「一実円満の真教真宗」であり、「至極」なのだと明言されています。

これはどういうことか、次回、続けます。

浄土真宗親鸞会で、高森先生からお聞きして初めて知らされた、親鸞聖人の教えです。