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Archive for the ‘正信偈について’ Category

正信偈「後生の一大事」

0 5月 14th, 2009

正信偈の冒頭の二行で親鸞聖人が阿弥陀如来に救われた喜びを告白しておられると前回もお話しました。
御文章にも似たようなことがかいてありますが、これは有名な歎異抄の冒頭にある「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と同じこととを意味しています。

しかし、正信偈で親鸞聖人は阿弥陀仏に何をたすけられたといっておられるのでしょうか?!
正信偈で救われたといわれているのは、「後生の一大事」を救われた、助けられたと言われているのです。

仏教はこの「後生の一大事」を知るところからはじまり、「後生の一大事」の解決でおわります。
なので、後生の一大事について知っておかなければ仏法は何十年、何百年聞いても分かるものでもなく、親鸞聖人の正信偈を一行も正しく読むことはできないのです。

では、後生の一大事とはどのようなことをいうのでしょうか?
「後生」は一息いれたら後生です。
仏教とかお経と聞くとどうしても「年をとってから聞けばいい」とか「若いから必要ない」という人が多いですがこれは、後生は遠い先の話で自分には関係がないと思っているからだと思います。

まさか!なんてことは突然やってきます。
心臓麻痺や脳梗塞などでいつ自分の吸った息が吐き出せなくなるか分かりませんが、その時から後生になるのです。
人生80年といわれ平均寿命は伸びましたが、いくら寿命が延びたからといっても死なないわけではありません。
いずれ必ずやってくるのが後生なのです。

後生とは無縁の人はこの世に1人としていないのです。

正信偈の平生業成

0 4月 27th, 2009

今まで正信偈についてお話してきました。
正信偈とは正しい信心を歌の形で明らかにしたお聖教です。
※お聖教とは仏教(浄土真宗)の書物のことを言います。

正信偈の冒頭の「帰命無量寿如来、南無不可思議光」は「阿弥陀如来に親鸞救われたぞ!阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」との親鸞聖人の喜びの言葉です。

阿弥陀如来のお力によって絶対の幸福に救いとられた親鸞聖人は弥陀の救いは死んでからではなく現在(生きている間)であることを教えていかれました。
ですから親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」なのです。

平生とは生きている時のことです。
仏教と聞くと、どうしても死後の世界を想像するかも知れませんが、親鸞聖人は「平生というのは死後のことではないですよ!仏教は生きているときが勝負なのです」と生涯平生の救いを強調していかれたのです。

平生業成の「業」とは人生の大事業のことを意味し。
これは会社のプロジェクトのことではありません。
1人1人の人生の大事業であり、人生の目的のことです。

何のために生きているのか?
何のためにうまれてきたのか?
何のために生きているのか?
すべての人にとって最も大事なこの人生の目的を親鸞聖人は業という一文字で表しておられます。

平生業成の「成」は達成、完成、ということで正しい信心には卒業があるということを意味しています。

平生業成とは、「平生ただ今、人生の目的が完成する。だから早く達成せよ」と親鸞聖人が生涯叫び教え続けていかれことを漢字四文字であらわされたものなのです。

ただ1つの正しい信心

0 4月 4th, 2009

正信偈の「正」という文字は一に止まると書きます。
これは、正しいものは二つも三つもなく一つしかないということを言っています。
この一つの正しい信心を親鸞聖人が明らかにしたのが「正信偈」なのです。

だったら自分がいいと思ったものを信じて生きればいいと親鸞聖人が言われているのではありません。
正しい信心があるということは、迷信や邪信や偽信といったような正しくない信心があるといういうことで、そんなものを信じていても決して幸せにはなれませんよと教えておられるのです。
間違った信心はいずれ必ず崩れてしまうからです。

そして、1日も早く正しい信心・真実の信心を獲得し絶対の幸福に救われてくださいと伝え続けていかれたのが親鸞聖人であり、その正しい信心を明らかにしているのが正信偈なのです。

「帰命無量寿如来、南無不可思議光」で始まる正信偈ですが、これは親鸞聖人が阿弥陀仏に救われたこと、そして親鸞聖人が弥陀によって助けられたといういことを2度繰り返して言っていることを正信偈では述べているのです。

なぜ同じような内容を繰り返し言っているのか?と不思議になるのは当然ですよね?!
これらすべては親鸞聖人が弥陀の教えを聞くことができたことに、無限の喜びを表していいるのです。
この無限の喜びを表した親鸞聖人は正信偈の最後に「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」と締めくくっています。
これは「皆さん親鸞とともに同じ心になって下さい。そのためにはこの高僧(親鸞聖人が尊敬している七高僧のこと)の説をただ信じることが1つの道ですよ」と言っているのです。

浄土真宗の内容としては、信心こそが浄土往生の正因であり、念仏を称えることは報恩・礼であると教えられています。
そして、正信偈の中にはインドや中国や日本で正しく弥陀の教えを広く伝えた七人の高僧方の業績・徳を讃嘆しておられるのです。

正信偈・冒頭の二行②

0 3月 28th, 2009

正信偈の最初の二行について書いています。
正信偈の最初の二行は

「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

で書き起こされています。
前回は、無量寿如来と不可思議光について書きました。
無量寿如来も不可思議光もともに阿弥陀如来のことなんですね。

今日は、帰命と南無についてです。
帰命とは中国の昔のことば、南無はインドの昔のことばです。

仏教はお釈迦さまがインドで説かれ、それが中国に伝わり、朝鮮半島を経て日本に伝わってきましたので、よくインドの言葉や中国の言葉が使われます。

では、帰命、南無とはどういう意味かといいますと、御文章という仏教書には「南無というは帰命なり」と書かれてありますように、帰命も南無も同じ意味で、ともに、救われた、助けられた、という意味なのです。

ですから正信偈冒頭の二行は、「親鸞、阿弥陀仏に救われた。親鸞、阿弥陀仏に助けられた」

という意味になります。
どこにも「親鸞」とはありませんが、これは向かいのおじさんのことを親鸞聖人書かれたものでもありませんし、隣のお嫁さんのことを言われたものでもなく、親鸞聖人ご自身のことを書かれたものなのです。