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現在ただ今の救い(6)

0 4月 23rd, 2010

弥陀の「若不生者、不取正覚」の仏意を、釈迦は『成就文』に「即得往生、住不退転」の8文字で解説されました。その「即得往生、住不退転」の釈迦の教え を、親鸞聖人は『愚禿抄』に、次のように解明されています。

「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)」

これは一体、どんなことを仰っているでしょうか。
「本願を信受する」とは当然、漢字36文字の阿弥陀仏の本願を「信受する」ことです。決して「若不生者不取正覚」の抜けた、28文字の本願ではありません。
その36文字の弥陀の本願を「信受する」とは、どういうことでしょうか。

「信受する」とは、「まことであったと明らかに知る」ことであり、ツユチリほども疑いのなくなったことをいいます。釈迦や親鸞聖人、蓮如上人は、明信とか、 真知、明知と言われていることです。

弥陀の誓いの36文字にツユチリほどの疑いもなくなったことを「本願を信受する」と言われているのです。
親鸞聖人のお言葉で一例を挙げれば、
「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」 (教行信証)

「攝取不捨の真言」も「超世希有の正法」も同じく弥陀の本願のことですから、本願36文字の誓いに「ウソはなかった」「まことだった」と仰って いるお言葉です。
決してこれは、「若不生者不取正覚」の8字を抜いた、弥陀の本願のことではないのです。

ですから、「ウソではなかった、まことだった」親鸞聖人のお叫びは、「若不生者不取正覚」のお約束「まことだった」と仰っていることは明白です。

「若不生者、不取正覚」とは、「必ず生まれさせる、若し、生まれずは正覚を取らぬ」ということですから、「生まれていない」者には「若不生者」の誓い 「まことだった」とは言えません。いま「生まれた」から言えたのです。死んでからのことなら、生きているときには言えないことです。

ですが「死なねば」「生まれる」ということはないから、親鸞聖人は「本願を信受した」とき死ぬのだと、「心(前念)が、死ぬ(命終)」と仰っています。
「本願を信受するは、前念命終なり」

が、そのお言葉です。

「心(前念)が死ぬ(命終)」と同時(後念)に、「若し、生まれずは正覚を取らぬ」の誓い通り、「信楽(不体失往生)」に生まれると仰っているのです。
これを『愚禿抄』には「後念即生なり」と言われています。「即生」とは、本願を信受した一念に「死んで生まれる」心の誕生(信楽に生まれる)を言います。

親鸞聖人は『愚禿抄』で、『成就文』で釈迦が「即得往生」(即ち往生を得る)と言われているのは、「即得往生住不退転」(不体失往生を得て、不退転 に住す)することだと説き、正定聚不退転(信楽)の身になることだと鮮明にされているのです。

これらによっても分かるように、「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである、と教 えられているのが親鸞聖人であることは明らかでしょう。

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