Line

現在ただ今の救い(8)

0 6月 4th, 2010

如何に我々が「信楽の身に生まれる」ことの難しいかを、先回、釈迦や親鸞聖人のお言葉で教えて頂きました。次に蓮如上人のご教導を聞いてみましょう。

蓮如上人は『御文章』に、前掲の『大経』の「易往而無人」の釈迦のお言葉を、 次のように詳説されています。
「これによりて『大経』には『易往而無人』とこれを説かれたり。この文の意は、『安 心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして人なし』と 言えるはこの経文の意なり」釈迦が『大無量寿経』に「易往而無人」と説かれている意味は、「信楽」の身に生まれた人は浄土へは往き易いが(安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄 土へは参り易けれども)、
「信楽」の身に生まれた人が稀にしかないので(信心をとる人稀なれば)、浄土へ往く人がないのだ(浄土へは往き易くして人なし)、と如何に「信楽」の身に 生まれる人の少ないかを教示なされている。

このように、いずれの善知識方も等しく我々の「信楽」に生まれることの難しいことを強調しておられます。

弥陀が名号を誠心誠意与えようとされているのに、なぜ、こんなに「信楽」を獲る人がないのでしょうか。

それについて親鸞聖人は『教行信証』に、こう教誡なされています。

「悲しいかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深 く悲嘆すべし」

折角、弥陀が「名号」を誠心誠意与えようとされているのに、それを拒絶しているから大信海に入れず、果てしない微塵劫の過去から今日今時まで、苦し み続ける悲しい人とならねばならぬのである。

原因は、偏に「助・正間雑し、定・散心雑わるが故に」と、断言されています。

また、『正信偈』には、こう教導されています。

「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」

この意味は、私たちが果てしない過去から今日まで、車輪が果てしなく廻って終わりがないように、苦しみ悩みの迷いの世界を経めぐって終わりがないのは、全 く「疑情」一つなのである、と断言されているお言葉です。

また『高僧和讃』には、次のように教えておられます。

「真の知識にあうことは

難きがなかになを難し

流転輪廻のきわなきは

疑情のさわりにしくぞなき」

これは、私たちが真実の仏法を伝える方に邂逅することは、千載一遇の難事の中の難の難事、滅多にないことなのである。真実の仏法を伝える方とは、我 々が果てしない過去から今日今時まで、苦しみ悩みの迷いの世界を輪廻して終わりがないのは、全く弥陀の本願を疑う「疑情」一つであると教える人である、と言 われているお言葉です。

幸福一つを求めて生きている我々を、果てしない過去から今日まで苦しめ続けてきた最も怖ろしいもの、それを親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わ る心」とか「疑情」と言われています。

「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とか「疑情」とは一体、どんなものなのでしょうか。

次に解明しなければならないでしょう。

Comments are closed.