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普放無量無辺光~一切群生蒙光照(2)

0 10月 21st, 2010

●無量光●

「無量光」とは、「量ることのできないお力」ということ。阿弥陀如来のお力は、無限であることをいわれたものです。「こんな悪いことをした者は助けられない」という〝限界〟がない、底無しということです。
「十方諸仏」の力には、限りがあります。十方諸仏とは、大宇宙(十方)に数え切れないほど沢山まします仏方のこと。大日如来も、薬師如来も、ビルシャナ如来も、地球に現れられたお釈迦さまも、その中の一仏です。それら十方諸仏の力には、「こういう悪までなら助けることができるが、これ以上の重い悪を犯した者は助けられない」という境界線があります。ですから「無量」ではありません。お釈迦さまが、「大宇宙の仏方には、お前たちを助ける力がなくて、見捨てられたのだよ」と説かれているのは、私たちの造る悪が、諸仏の力の限界を超えているからです。
ところが、本師本仏の阿弥陀如来のお力にだけは、限界がない。「五人殺した者までは助けられるが、十人殺した者は助けられない」というような差別がありません。どんな極悪人をも救う弥陀の量り知れないお力を、釈迦は「無量光」と絶賛され、親鸞聖人は”その通りであった”と知らされて、『正信偈』に記されているのです。
『ご和讃』には、こうも説かれています。

願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず (正像末和讃)

「阿弥陀仏のお力は、どんな極悪人をも救い切ることができるのだ」といわれたお言葉です。

ここで「極悪人」と聞くと、文字からいえば「極めて悪い人」ということだから、こんなふうに思う人もあるかも知れません。
「世の中には、確かに酷い人間がいるなぁ。法の網をすり抜けて、ドカ儲けする奴。次々と詐欺商法を生み出しては、お年寄りをダマす者。イヤそれより恐ろしいのは、”人を殺したい、誰でもいい”と繁華街で白昼、包丁を振り回す凶悪犯だ。”極悪人”とは、そんな人間のことだろう」
私たちは常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて、「善人」「悪人」を判断します。これらの基準では、
「一人殺すよりも、十人殺した方がもっと悪い、十人より二十人の殺人犯はもっと悪い」
というように、善悪は相対的なものです。そしてほとんどの人が、「自分を善人だとまでは言わないけど、少なくともあいつよりマシだ」などと、他人と比較して、善悪の程度を自覚しているのではないでしょうか。凶悪事件が起きると皆、即席評論家になり、正義の側に身を置いて、「とんでもない奴だ」と悪事を裁くのも、「自分は善人、この犯人は悪人」と、分けているからでしょう。
ところが聖人の言われる「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではありません。極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させます。

いずれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし  (歎異抄)

“どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄のほかに行き場がないのだ”
この告白は、ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、偽らざる実相であることを繰り返されます。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し    (教行信証)

“すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくない”
世の中に「善人」と「悪人」二通りの人がいるのではない。聖人の「悪人」とは全人類のことであり、人間の代名詞なのです。
阿弥陀如来は、すべての人を「永久に助かる縁なき極悪人」と見抜かれた上で、「我を信じよ、平生に、必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われているのです。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし (歎異抄)

どうにもならない縁が来たならば親鸞、どんな恐ろしいことでもするだろう。人を十人殺す縁が来れば十人殺すだろう、千人殺す縁が来れば、千人殺すこともあるだろう。かかる量り知れない深い業をもった極悪の親鸞が、絶対の幸福に救われたのは、弥陀のお力が「無量光」であったからなのだ。だから救われない人は一人もいない。「私のような悪人が助かるんだろうか。この世で救われるのだろうか」と疑っているのは、弥陀のお力は無限であることを知らないからだ、早く弥陀のお力を「無量光」と知らされるところまで進めよと、親鸞聖人は訴えておられるのです。

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