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普放無量無辺光~一切群生蒙光照(3)

0 11月 1st, 2010

●無辺光●

「無辺光」とは、阿弥陀如来のお力には「ほとりがない」こと。阿弥陀如来のお力の届かぬ所はない、どんなところにも、働いてくだされている。「ここには阿弥陀如来のお力がかかっていない」というところは、地球上にも、大宇宙にもどこにもない。ですから、「いつでも助かる」ということです。畑仕事している時でも、風呂入っている時でも、出張している時でも、病院のベッドにいる時でも、関係ない。「ここにいる時でないと助からない」とか、「あそこにいては救われない」ということは、一切ない。弥陀の救いは、いつ、どこで、ということは決まっていません。人智の計らいを超えた、その阿弥陀如来のお力を、「無辺光」と言われているのです。

●無碍光●

「無碍光」の「碍」は障碍、さわりということですから、「無碍光」とは、「遮るものがない」阿弥陀如来のお力のこと。
阿弥陀如来のお力は、遮蔽するものがない。妨げるものが何もありません。「無碍光」ですから、私たちを「無碍の一道」に出させてくだされるのです。「無碍の一道」とは、欲や怒り、ねたみそねみなどの煩悩も、浄土往生の碍りとならない大安心のこと。親鸞聖人は、この不思議な世界に雄飛せられた体験を、『歎異抄』には、

「念仏者は無碍の一道なり」(第七章)

と、高らかに宣言されています。

●無対光●

「無対光」とは、「対するものがない」阿弥陀如来のお力のこと。他に比べるものがない。大宇宙のすべての仏方が束になっても到底及ばぬ、もの凄いお力であることを、お釈迦さまは、

無量寿仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり                         (大無量寿経)

諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、光明の中の最明無極なり
(大阿弥陀経)

とも説かれています。
大宇宙の仏方に見捨てられた極悪の私たちを、「我一人助けん」とただ一仏奮い立たれて、「無碍の一道」に助け切ってくだされるのが阿弥陀如来ですから、その無類の光明を「最尊第一」「最明無極」と言われ、「無対光」と絶賛されて当然でしょう。

●光炎王光●

仏教では、”私たちが人間に生まれるには、五戒といわれる色々の戒律を持たねばならない”と教えられているのですが、法の鏡に照らされて自分の姿をよくよく見れば、とてもそんな戒律を持ってきた殊勝な者とは思えない。では、どうしてそんな私が、人間に生まれることができたのか。人界受生の難しさを知れば、なおさらそう思わずにおれないでしょう。
源信僧都は、こう言われています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり。身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず             (横川法語)

まず、人間に生まれることはいかに有り難く、喜ぶべきことかを、地獄・餓鬼・畜生界といわれる苦しみの激しい三つの世界と比較して、分かりやすく教えておられるお言葉です。
では、その人間に生まれたのは何のためでしょうか。仏法を聞くためなのだと、親鸞聖人は断言されています。仏法を聞いて「後生の一大事」を解決し、

「人身受け難し、今已に受く」

“人間に生まれてよかった”という生命の大歓喜を獲るため、一切の碍りがさわりとならぬ「無碍の一道」へ出るための人生なのだよと、親鸞聖人は生涯教え続けていかれました。
その仏法を聞くことができるのは、六道の中で人間界だけですから、阿弥陀如来が私たちを、なんとか仏法を聞かせて「無碍の一道」に出させるために、その人間界に生まれさせてくだされた絶大なお力を、「光炎王光」と言われているのです。

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