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普放無量無辺光~一切群生蒙光照(4)

0 11月 22nd, 2010

●清浄光●

「清浄光」とは、貪欲(欲の心)を照らしてくだされる、弥陀のお力のことです。
「ヘソのない人がいても、欲のない人はない」といわれるように、私たちは、「あれが欲しい」「これも欲しい」という欲の心一杯。無ければ無いで欲しい、有れば有るでもっと欲しいと、際限もなく求める心です。食いたい、飲みたい、金が欲しい、男が欲しい、女が欲しい、褒められたい、楽がしたい、眠たい。満足を知らず、どれだけ手に入れても足りない。
欲深い人のことを、「あいつは汚い人だ」といわれるように、欲は「汚い心」。「汚い」というのは外見のことではなく、欲の心が深いことをいうのです。
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道警札幌中央署は25日、札幌市中央区の無職男(71)を窃盗の疑いで現行犯逮捕した。男は生活保護を受給しており、犯行時、財布に約75万円の現金を持っていた。調べに対し、「自分の金を使いたくなかった」と供述しているといい、同署は生活費を浮かせて生活保護費を蓄えるために万引きをしたとみている。
発表によると、男は同日午前11時50分ごろ、同区内のスーパーでおにぎり、納豆巻き、洋菓子などの食料品計14点(計約3000円相当)を盗んだ疑い。男は着ていたジャンパーの中に次々と商品を入れ、精算せずに店を出たため、気付いた警備員が追いかけて取り押さえた。
同署によると、持っていた現金は、受給した生活保護費を少しずつためたものとみられ、二つ折りの財布に入れてポケットの中に所持していた。
*『読売新聞』(平成20年9月26日)
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七十五万円の現金を所持していた人が、三千円の万引き。自分の金は、一円でも使いたくない。こんな人のことを「欲深い、汚い人だ」と言いますが、この人だけのことでしょうか。自惚れているために分からないだけで、すべて私たちは欲の塊なのです。
この汚い心を照らし出して、「お前はこんなに汚い心を持っているんだぞ」と知らせてくだされる阿弥陀仏のお働きを、「清浄光」といわれているのです。
親鸞聖人は、弥陀の光明に照らし抜かれ知らされた自己の姿を、こう告白されています。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して

「ああ、バカな親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、大きな山ほどの名利の欲望に、朝から晩まで振り回されて、感謝もなければ懺悔もない。なんと情けないことか」
「愛欲」とは、男女の欲や、親子友人との愛憎。その愛したい愛されたい心の多いのを、広い海に例えられています。「沈没」とは、「浮かぶ瀬がなく、完全に沈みきっている」こと。
次の「名利」とは、「名誉欲」と「利益欲」のことで、「名誉欲」とは、キレイな人と褒められたい、能力を評価されたい、悪口言われたくない心。「利益欲」とは、一円でも多く儲かりたい、損したくない心。財産が欲しい、他人の持たぬものを持ちたい。
「これら名誉欲・利益欲が大きな山ほどあって親鸞、迷惑している」
と、懺悔されているお言葉です。
それまでも、「愛欲名利の深い自分だなあ」とは思っていますが、本当の「欲の心」というものがすべて知らされるのは、弥陀の救いに値った時。その汚い心を”汚い心”と照らして懺悔させ、「こんな欲深い私が、どうして救われたんだろうか」と喜びに転じてくださるのが、弥陀の「清浄光」の働きです。

●歓喜光●

「歓喜光」とは一言で、「私たちの怒りの心を照らして懺悔、歓びに転じてくだされる阿弥陀如来の働き」をいいます。
人間は欲の塊で、一円でも金が欲しい、地位が欲しい、男が欲しい、女が欲しい、若く見られたい、努力を評価されたい、悪口言われたくない、という心一杯。仏教ではこれらの「欲しい、欲しい」と際限もなく求める心を「貪欲」と言われます。
この欲の心が妨げられると噴き上がるのが怒りの心、「瞋恚」です。
「あいつのせいで儲け損なった」「こいつのせいで恥かかされた」と腹を立て、「死んでくれたらいい」とさえ思う。「怒り」という字は「心」の上に「奴」と書くように、欲を邪魔した相手は親でも先生でも友人でも「奴」呼ばわりして切り刻む。関係無い人まで巻き添えにして八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。
最近も衝撃的な事件が起きました。元厚生次官ら連続殺傷事件で逮捕された容疑者(46)は、「昔、保健所にペットを殺され腹が立った」と供述しています。大事なものを奪われた怒りが三十四年間も燃え続け、ついには人生を破滅させる凶行にまで及んだのでしょう。ところが、保健所の管轄が厚生労働省でないことを取調官から聞かされた容疑者は、「えっ」と絶句したそうです。”怒りは無謀に始まり、後悔に終わる”の格言に、身の震える思いがいたします。
大阪では、男(42)が妻(29)の入浴中に携帯電話の着信履歴を確認し、男性からの着信があったのを見つけて腹を立て、出刃包丁で刺殺、「妻が浮気をしていると思い、カッとなってやった」と認めています。ほかにも毎日、飲み屋で口論のすえ殴殺とか、親の介護のストレスで突発的に絞殺など、これらは決して、短気な人たちの特殊なケースではなく、私たちの心の中で日々、展開している地獄絵図ではないでしょうか。惚れた女性が他の男と楽しげに話しているのを見て、心穏やかでいられる人はないでしょう。ライバルの面前でボロクソに貶され、嘲笑されても気にしない人があるでしょうか。子供にバカにされてさえ腹が立つ。ひとたび瞋恚の炎が燃え上がったならば、理性も教養もへったくれもない。この恐ろしい怒りの心を、”恐ろしい心”と知らせ、「こんなものがどうして救われたのだろうか」と歓びに変えてくだされる阿弥陀如来の働きを、「歓喜光」といわれるのです。

●智慧光●

次に「智慧光」とは、「愚痴」を照らしてくだされるお力を言われます。「愚痴」とは、愚もバカ、痴も、頭が入院中(「痴」という字は、知恵が病院に入っている)ですから、バカということです。最近は「おバカキャラ」などといって、無知を売りにするタレントもありますが、仏教でバカと言われるのは、知識の乏しいことではありません。「因果の道理が分からない心」のことです。いくら頭脳明晰で記憶力がよく、知識が並み外れて豊富でも、大宇宙の真理である「因果の道理」が分からなければ、仏教では「愚痴」といわれるのです。

ところが、この「因果の道理」を聞いても、「善因善果、自因自果」なら納得できるのですが、「悪因悪果、自因自果」となると、どうしてもそうは思えない。因果の道理を否定する。論理一貫しないのです。だから、思わぬ事故やトラブルが起きると「オレがこんな目に遭ったのは、あいつのせいだ」「勧められて買った株が暴落して大損した。あいつがあんなことさえ言わなければ、オレがこんな目に遭わなくてもよかったのに」と、他人を恨んだり憎んだり、世の中を呪ったりする。まさに「ナワをうらむ泥棒」で、自分のまいたタネとはとても思えない。
また、他人が幸せそうなのを見ると、本人の努力の結果とは認められず、特にライバルなど自分に近い人の成功は、面白くない。「うまいことやりよって」と妬み、心ひそかに「あいつ大失敗してくれんかな」と醜いことを思う。
このように、「因果の道理」が分からず、他人をウラみ、ネタみ、ソネんだりして苦しんでいるのが、愚痴です。大宇宙の真理が分からないのですから、バカと言われて当然でしょう。
この愚痴の心を照らして、「お前はこんな愚かな心いっぱいだぞ」と知らせ、懺悔させてくだされるのが、阿弥陀如来の「智慧光」の働きです。

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