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本願名号正定業 至心信楽願為因

0 1月 8th, 2011

一行目の「本願名号正定業」は、「本願の名号は正定の業なり」と読みます。

「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のこと、「正定」は「正定聚不退転」、「業」は「働き」のことですから、意味はこうです。
「阿弥陀仏の本願によって作られた『南無阿弥陀仏』の名号には、すべての人を『正定聚不退転』の身にする働きがある」
「阿弥陀仏の本願」とは、「本師本仏の阿弥陀仏がなされているお約束」。阿弥陀仏は、漢字三十六文字で誓われているのですが、一言で表現すると、
「すべての人を必ず『信楽』に救う」
と誓われているのです。『歎異抄』には「信楽」を「摂取不捨の利益」と言われています。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私たちを「ガチッと摂め取って、絶対に捨てられない」こと。「利益」は幸福のことですから、「摂取不捨の利益」とは、現代の言葉で「絶対の幸福」といえましょう。

この世は無常、いつどうなるか分からない世界です。終身雇用で安泰と思っていたのに、突然のリストラ。やっと決まった内定が、一方的に取り消し。一家団欒の喜びが、愛児の事故死で涙の日々に。恋人に振られたショックで自殺する人もいます。健康が取り柄だったのに、末期ガンの宣告。かつて賞賛を浴びた才能が衰えて泣く人。
これらは皆、信じていたものに「捨てられた」苦悩でしょう。
東京の高島平や千葉の常盤平など、都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、三十年を経た今、子供は皆巣立ち、独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、NHK番組『クローズアップ現代』で紹介されていました。わずか八畳間に男女の区別なく三人押し込められ、風呂にも入れず、食事は一日たったの二百円。入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、ア然としました。ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」と涙ぐむ。家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。「身寄りがない、いられるだけでよい」という弱味につけ込む悪どい業者、それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、浮き彫りにされていました。
死に物狂いで働き、日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。オギャッとこの世に生まれ落ちてより、努力してかき集めてきたものが、年とともに奪われていく。最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。これが人生というものならば、一体どこに、生きる喜びがあるでしょうか。何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し
(歎異抄)

やがて必ず「捨てられるもの」しか知らず、薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、阿弥陀如来は、
「すべての人を、絶対に裏切られることのない、大安心の身にしてやりたい」
と、無上の願いを起こされたのです。本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、『歎異抄』にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。

●若不生者のご念力●

ところがそう聞いて、「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」「単なる脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、自分とは関係ない」などと怪しむのは論外としても、真剣に仏法を求めていきますと、
「私のようなものが、ホントに絶対の幸福になれるんだろうか」
「生きている時に、ハッキリすることなどあるのだろうか」
などと、阿弥陀仏の本願を疑う心がむくむくと出てまいります。
そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて誓われているお言葉が、

「若不生者不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)

の八字です。「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、命を捨てる」
といわれているお言葉です。弥陀が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」と誓われているのが、「若不生者の誓い」なのです。

卑近な例えで言うと、銀行でローンを組む際、こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、土地や建物を担保に入れるでしょう。
阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。この絶大な「若不生者のご念力」によって、平生の一念、疑心が晴れわたり、必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、親鸞聖人は、

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ  (浄土和讃)

と、教え続けていかれたのです。
この「若不生者の誓い」が、「本願の名号」の「本願」です。

●名号の働き●

次に「名号」とは、阿弥陀仏が、この誓願を実現するために、大変なご苦労をして完成してくだされた「南無阿弥陀仏」の六字のことです。これを、
「本願の名号」
“本願によって造られた名号”
と言われています。「正定」とは「正定聚」のことですから、
「本願の名号は正定の業なり」
と言われている一行の意味は、こうなります。
「弥陀が本願の通りに作られた、『南無阿弥陀仏』の六字の名号には、すべての人を正定聚の身に救い摂る、すごい力があるのだよ」

●正定聚とは●

「正定聚」とは、さとりの位をいうのです。
「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで全部で五十二の位があり、これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。ちょうど相撲取りにも、下は褌担ぎから上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二のさとりには、それぞれ名前がついており、中でも最高のさとりの位を「仏覚」(仏のさとり)といわれるのです。これ以上のさとりはないから、「無上覚」ともいわれます。さとりが一段違えば、人間と虫けらほどの境涯の差があるといわれるのですから、五十二段の仏覚が、いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、お分かりになるでしょう。
その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。
中国で天台宗を開いた天台も、「九段目までしか覚れなかった」と臨終に告白していますし、また、壁に向かって九年間(面壁九年)、手足腐るまで修行し禅宗を開いた達磨大師でも、三十段そこそこであったと言われます。
仏の覚りを開くことが、いかに大変なことかが分かります。

その仏に間違いなくなれると定まった位を、「正定聚」と言われるのです。五十一段のさとりの位であり、絶対に崩れない位ですから、「正定聚不退転」とも言われます。
「不退転」とは、後戻りしない、壊れない幸せ、ということで、今日の言葉で「絶対の幸福」と言えましょう。”必ず浄土へ往って仏になれる”大満足であり、何ものも往生のさわりとならないから「無碍の一道」(歎異抄)とも言われます。「人間に生まれたのはこれ一つだった」という、生命の大歓喜なのです。

阿弥陀仏が、兆載永劫のご苦労によって完成なされた「南無阿弥陀仏」の六字には、どんな極悪人も、この「正定聚不退」の絶対の幸福に救い摂る働きがあることを、親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号は正定の業なり」
と絶賛されているのです。
同じく『正信偈』に「功徳の大宝海」(功徳の大きな宝の海)とも言われています。

多くの人が「これは宝だ」と大事にしているものは、どんなものでしょうか。代々伝わる壺とか掛け軸、土地や家財道具などでしょう。中には鑑定士から何千万円と評価された「お宝」もあるかもしれません。「国宝」に指定された仏像や建造物、「世界遺産」登録の文化や自然を誰もが大切にするでしょう。
しかし悲しいかな、これらの宝は、どんなに厳重に管理し維持しようと努めても、火事で焼けたり、洪水で流されたり、盗まれたりする不安が絶えず、やがて必ず朽ち果てる、一時的なものではないでしょうか。
「佐賀の会社役員、庭に埋めた三億六千万円盗まれる」という見出しで、こんな記事がありました。

会社役員の八十代の男性が、安全のために、佐賀県にある自宅の庭に埋めていた現金三億六千万円が盗まれていたことが明らかになった。(中略)前年十月に盗難にあっていることに気づいたという。男性はその二か月後に死亡している。(中略)四十年間にわたって、現金を容器に入れては自宅の庭に埋めることをくり返していたという。男性は、銀行の金利が低いことから手元に置いておく方がよいと考え、さらに火事や地震の被害を避けるために庭に埋めていたという。

なんともったいない、とも思いますが、考えてみれば、たとえ盗まれなかったとしても、後生へは一円も持っていけない。この世の宝は、すべて置いていかねばなりません。
ところが、「南無阿弥陀仏」の宝は、焼けもせず、流されも、盗まれもしない未来永遠の幸福にする、もの凄い働きがあるから、親鸞聖人は「功徳の大宝海」と讃嘆され、蓮如上人も『御文章』に、分かりやすく解説されています。

それ「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである」

●まことだった!ホントだった!●

この不可称・不可説・不可思議の大功徳(南無阿弥陀仏)を、一念で弥陀から丸もらいされて(仏智全領)、「正定聚」の身に救い摂られた歓喜を、親鸞聖人は『教行信証』にこう告白されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

初めに「真に知んぬ」と言われているのは、
「親鸞、ハッキリ知らされた」
という確言です。「たぶんこうだろう」という曖昧な憶測でもなければ、「私はこう思う」などという想像でもありません。体験して知らされたことを、「まことであった、本当であった」と高らかに叫ばれているのが、聖人の「真知(真に知んぬ)」です。「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びなのです。
では、どんなことが「ハッキリ知らされた」とおっしゃっているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、有名な弥勒菩薩のこと。「菩薩」とは、仏のさとりに向かって修行中の人のことです。いろいろな位の菩薩がある中で、弥勒菩薩は、仏のさとりにもっとも近い等覚(五十一段のさとり)を開いていることを、
「弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに」
と言われています。あの面壁九年の達磨でも、三十段そこそこであったのですから、五十一段のさとりを開いている弥勒が、いかに勝れた菩薩であるか、お分かりでしょう。
その等覚の弥勒菩薩は、
「龍華三会の暁、当に無上覚位をきわむべし」
“五十六億七千万年後に、仏のさとりを開く”
と聖人が言われているのは、お釈迦さまがお経の中に、
「この釈迦の次に、地球上で仏のさとりを開くのは弥勒である。それは、五十六億七千万年後のことである」
と説かれているからです。その弥勒菩薩と比較して、
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
と宣言されています。「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏に救われた人のことであり、聖人自らのことです。「横超の金剛心」とは、「正定聚」のこと。絶対壊れない幸福ですから、金剛心(ダイヤモンドのように硬い、不変の信心)と言われています。
あの弥勒菩薩は、気の遠くなるような長期間の自力修行によって、さとりの位を一段一段上り、ようやく五十一段まで到達したけれども、「念仏の衆生」の親鸞は、「南無阿弥陀仏」の働きによって、一念で五十一段を高飛びさせられ「正定聚」の身に救い摂られたのだ、という大自覚を、
「横超の金剛心をきわむるがゆえに」
と告白され、
「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
“一息切れると同時に、阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができるのだ”
と明言されているのです。
「本当にそうだったなぁ! あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。まったく弥陀の名号不思議によってのほかはない。しかもだ。弥勒は五十六億七千万年後でなければ、仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」
この世から未来永遠の幸福に救い摂る、名号六字の働きを真知させられた聖人の、大慶喜なのです。

●救われたらハッキリする●

ここで親鸞聖人の言われている「真知(真に知んぬ)」と、一般に使われる「信じる」との違いについて、よく知っていただきたいと思います。
実は、「信じる」のは、「疑い」があるからです。
「ん?そりゃどういうことだ。『信じる』とは、『疑っていない』ことだろう」と、常識的には思われるでしょう。ですが、ちょっと考えてみれば分かるように、疑う余地の全くないことなら、「信じる」必要はありませんし、「信じている」とも言いません。「知っている」といいます。例えば、ひどい火傷をしたことのある人なら、火は熱いものだと「知っている」というでしょう。火は熱いと「信じている」とは言いません。そのように言う人は、まだ火に触ったことがなく、想像や憶測で語っている人です。
「あなたの永遠の愛を、信じているわ」
「あの子はまだどこかで生きてくれていると、信じている」
「今度こそ合格、と信じる」
──いずれも、ハッキリしない不安をかき消すために、疑いを抑えつけ信じ込もうとする努力ではないでしょうか。
親鸞聖人の「真に知んぬ」の告白は、それらの「信じる」とは全く異なります。「南無阿弥陀仏は尊いそうな」という想像でもなければ、「お念仏さえ称えていれば、阿弥陀さまは極楽へ連れていってくださるだろう」と夢みる信仰でもない。
身も心も「南無阿弥陀仏」と一体になって、「正定聚」の身に救い摂られた聖人が、
「まことであった、本当だった、ウソではなかった」
と、本願に露チリほどの疑心もなく晴れ渡った、実体験なのです。蓮如上人も『御文章』に、

「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」

「今こそ明かに知られたり」

「この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり」

「うれしさを昔は袖につつみけり、今宵は身にもあまりぬるかな」

とおっしゃっているのも、「南無阿弥陀仏」を頂いた一念に、絶対の幸福に救い摂られた歓喜の発露です。

ところが、「弥陀に救われても、そんなにハッキリするものではない」と嘯いている人が、浄土真宗には少なくありません。
一念で五十一段を高飛びさせられて、この世は弥勒と同格、死ねば「弥勒お先ごめん」と仏覚を開く身になった人が、「その自覚がない」ということがありえるでしょうか。
母親から毎月一千万円もらっていたことを、本人が「知らなかった」「気がつかなかった」と発言してさえ、「そんなのウソに決まってる!」「考えられない」とみんな訝るのです。ましてや、何兆円どころでない大宇宙の宝を一念で丸もらいして、永遠の幸福に救い摂られたのに、それが「自分には分からない」ということが、考えられるでしょうか。
「救われても、ハッキリするものではない」と言うのは、「正定聚」とはどんなことかも、「南無阿弥陀仏」の偉大な働きも、知られないからでしょう。

●どうして、そんな働きが●

「本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)」
と言われている御心の一端を、解説してきました。では、どうしてそんな凄い力が名号にはあるのかというと、その理由を次に、
「至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)」
と開示されています。
「至心信楽の願」とは、
“すべての人を、必ず信楽(正定聚)に救う”
と誓われている「阿弥陀仏の本願」のことです。この「至心信楽の願」を因として造られたのが「南無阿弥陀仏」だから、どんな極悪人をも「正定聚」にする働きがあるのだよと、親鸞聖人は朝晩の勤行で、
「本願名号正定業  本願の名号は正定の業なり
至心信楽願為因  至心信楽の願を因と為す」
と教えられているのです。

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