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成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

0 2月 2nd, 2011

「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と言われているのは、
「まず『等覚』に成り、『大涅槃』を証しなさい」
ということです。親鸞聖人は私たちに、
「『等覚』に成らねば、『大涅槃』を証することは絶対にできないのだから、早く『等覚』に成りなさい」
と勧めておられるのです。
そこで「等覚に成る」とはどんなことか、お話しいたしましょう。

●等覚に成る●

「等覚」とは先述の「正定聚」と同じで、あと一段で「仏覚」の、五十一段のさとりの位をいわれます。
「等覚に成る」とは、『南無阿弥陀仏』の大功徳を弥陀から頂いた一念で、「正定聚不退転」の身に救い摂られたことであり、これを「信心決定」とも「信心獲得」ともいわれます。

親鸞聖人が『正信偈』に朝晩、「早く等覚に成りなさい」と教えられていることを、蓮如上人はご遺言に、

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり
(御文章)

とおっしゃっています。初めに、
「あわれあわれ(あわれだなあ、不憫だなあ)」
と嘆かれているのは、どういうことでしょうか。
ふつう私たちが「かわいそうだなあ」と思うのは、不幸で気の毒な人のことを、見たり聞いたりしたときでしょう。幸せの絶頂にいる新郎新婦に向かって、「あわれあわれ」とは誰も思いませんし、言いません。地震の被災者や、飢餓で苦しむ子供たちなどを見て、「気の毒だなあ」と思うのです。
ところが蓮如上人が哀れんでおられるのは、一部の人だけのことではありません。「皆々」とあるように、「すべての人」に「不憫だなあ」と言われているのです。
「ん?なんでだろう。別に私はそれほど不幸ではないが」と思われる人も多いでしょう。なぜ蓮如上人は、私たちすべてを「あわれ」と悲嘆されているのでしょうか。
今日でも、仏教といえば「死んだら極楽」「死んだら仏」と思っている人がほとんど。「この世はどうにもなれない、助かるのは死んでから」が常識になっています。せっかく生まれ難い人間に生まれながら、本当の仏教も知らず、何のために生まれてきたのか、生きているのか、真の人生の目的も分からぬまま、金だ財産だ、地位だ名誉だ、酒だ女だと、浮かれ騒いで酔生夢死していく。”人間に生まれてよかった”という命の輝きはなく、人生こんなもんさとアキラメてはいないでしょうか。そんな私たちを蓮如上人は、
「かわいそうに。情けないことだ」
と悲しんでおられるのです。そして、仏法は、
「存命の中に」
〝生きているときが勝負なのだ。死んでからでは手遅れですよ〟
と道破され、
「皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」
〝すべての人に「信心決定」してもらいたい。そのこと一つをこの蓮如は、朝から晩、晩から朝まで、思い続けているのだよ〟
と、述懐されているお言葉です。
私たちが朝夕考えていることは、「どうしたらお金が儲かるか」「人から褒めてもらえるか」ということばかりですが、親鸞聖人や蓮如上人が念じ続けられているのは、私たちの「信心決定」一つであることがお分かりでしょう。
人間は、ただ生きるために生きるのではない。崇高な目的があって、生まれてきたのであり、生きているのです。どんなに苦しくても生きねばならないのは、「信心決定」するためであることを、親鸞聖人も蓮如上人も、
「早く等覚に成れ」
「命のあるうちに、片時も急いで信心決定せよ」
と教示されているのです。

ところがそう聞いても、なにしろ「等覚」とは、最高位の「仏覚」に次ぐさとりの位ですから、「そんな等覚に、私なんかがホントになれるのかな」と、途方に暮れる人もあるかもしれません。しかし、「成れない」ことを「成れ」とおっしゃる聖人ではありません。「等覚に成れ」と言われているのは、必ず成れるからです。「信心決定せよ」と言われているのは、できるからです。
それでもなお、「どうしても、等覚にならねばならないんですか」「信心決定なんて、できっこない」と、尻込みする人もあるでしょう。しかし、現在「等覚」にならねば、死後「大涅槃を証する」ことは絶対にできないのです。
「大涅槃を証する」とは、「阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、弥陀と同じ仏のさとりを開く」こと。先述のように、みんな「死んだら極楽」「死んだら仏」と思っているのは大間違いで、誰でも仏になれるのではない。「この世で等覚になった人だけが、死ぬと同時に極楽へ往って仏に成れる」のだから、
「成等覚証大涅槃」
〝まず「等覚」に成りなさい。現在、等覚になった人は、死ねば極楽へ往って弥陀同体の仏のさとりを開く(大涅槃を証する)ことができるのだよ〟
と聖人は仰っているのです。

●弥陀の救いは二度ある ── 二益法門 ●

この一行で聖人は、「弥陀の救い」は現在と死後の二度あることを言われていることがお分かりでしょう。このように、二度の弥陀の救いを明らかにされた親鸞聖人の教えを、「現当二益」の法門といわれます。
「現当二益」とは、「現世(この世)の利益」と「当来(死後)の利益」の二つの利益(救い)のことです。それぞれ略して「現益」「当益」と言われます。
「現益」は、「等覚に成る」という現在の救いのことであり、
「当益」は、「大涅槃を証する」という死後の救いのことです。
この現当二益の親鸞聖人の教えを、少しでも分かってもらいたいと、蓮如上人は問答形式で次のように教えておられます。

問うていわく、「正定と滅度とは、一益と心得べきか、また二益と心得べきや」。
答えていわく、「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」
(御文章)

「弥陀の救いは一度でしょうか、二度あるのでしょうか」
と問いを出され、
「この世は、弥勒菩薩と同格(正定聚・等覚)に救い摂られ、死ぬと同時に弥陀の浄土で、無上のさとり(滅度・大涅槃)が得られる。弥陀の救いは二度(二益)ある」
と明快に答えておられます。この二度の「弥陀の救い」を親鸞聖人は『正信偈』に、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と、一行で言われているのです。

●必至滅度の願●

ではどうして、この世で「等覚」に成った人が、死後「大涅槃」を証することができるのか。それは、
「必至滅度願成就」
(必至滅度の願が、成就しているからなのだ)」
と、次に言われています。

「必至滅度の願」とは、阿弥陀仏の「十一願」のこと。十一願とは、弥陀が四十八の約束をされている中の、十一番目のお約束をいいます。
弥陀は十一願に、
「設い我仏を得んに、国の中の人天、定聚にも住し、必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ」
“この世で正定聚(等覚)に成った人を、死後、滅度(大涅槃)に至らせてみせる。もしできなければ命を捨てる”
と誓われているので、この十一願のことを「必至滅度の願」といわれているのです。まとめると、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証することは)
必至滅度願成就(必至滅度の願、成就すればなり)」
の二行は、
“現在「正定聚」に成った人が、必ず死後「仏覚」を開くことができるのは、弥陀の十一願が完成されているからなのだ”
と言われ、
「平生の一念に未来永劫の浮沈が決するのだから、現在ただ今の救い(現生正定聚)を急げ」
と勧めておられるのです。

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