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如来所以興出世 唯説弥陀本願海

0 3月 7th, 2011

「如来所以興出世 如来、世に興出したまう所以は、
唯説弥陀本願海 唯、弥陀の本願海を説かんとなり」

「如来」といわれているのは、釈迦如来、お釈迦さまのことです。釈尊とも敬称されます。世間では、お釈迦さまといっても阿弥陀仏といっても、レッテルが違うだけで、同じ仏さまだろうと思っている人がありますが、お釈迦さまと阿弥陀仏とは全く違う仏です。その違いを知らないと、親鸞聖人の教えは全く分からなくなりますので、よく知って頂きたいと思います。

●お釈迦さまはどんな方か●

釈尊は約二千六百年前、インドのカピラ城に住んでいた、浄飯王という王様の太子として誕生されました。お母さんの名をマーヤー夫人といわれます。四月八日、ルンビニー園という花園で生まれられたので、お釈迦さまの誕生日を今日「花祭り」といって祝っています。
幼いころはシッタルタ太子といわれ、学問も武芸も国一番の師匠に学ばれました。文武ともに抜群で、並ぶ者は誰もなかったといわれています。そのことは、二人の師匠が間もなく「私にはもう太子に教えることはありません」と、浄飯王に辞任を申し出たといわれていることでも分かります。
このように何不自由のないシッタルタ太子でしたが、成長するにつれ、何か深刻に物思いにふけられるようになりました。心配された両親は、何とか明るい太子になってほしいと、十九歳で、国一番の美女といわれたヤショダラ姫と結婚させられました。
それでも太子の暗い表情は変わりませんでした。両親はいろいろ悩みの種を尋ねますが、太子は一向に語ろうとはされません。
そこで浄飯王は、春夏秋冬の季節ごとの御殿を造らせ、五百人の美女をはべらせて、太子の悩みをなくそうとされましたが、表情は少しも晴れませんでした。それは、健康、財産、地位、名誉、妻子、才能などに恵まれていても、やがてすべてに見捨てられる時が来る。どんな幸福も続かないことを知っていた太子は、心からの安心も満足もできなかったのです。
“この世のものは皆滅びゆく。どうすれば、崩れない本当の幸福になれるのか”
シッタルタ太子の、真実の幸福を求める気持ちは、日に日に強くなっていきました。ある日、父・浄飯王に手をついて、
「城を出て、まことの幸福を求めさせて下さい」
と、頼まれたのです。驚いた浄飯王は、
「一体何が不足でそんなことを言うのか。お前の望みは何でもかなえてやろう」。
「それではお父さん、申しましょう。私の願いは三つです」
「三つの願いとは何か」
不審そうに浄飯王が聞かれると、シッタルタ太子は、こう言われています。
「私の願いの一つは、いつまでも今の若さで年老いないことです。望みの二つは、いつも達者で病気で苦しむことのないことです。三つ目の願いは、死なない身になることです」
それを聞かれた浄飯王は、
「そんなことになれるものか。無茶なことを言うものではない」
と、あきれかえって立ち去られた、といわれます。
そこでついに二十九歳の二月八日、シッタルタ太子は夜中密かに城を抜け出し、山奥深く入られ、私たちの想像もできない厳しい修行を、六年間されました。そして三十五歳の十二月八日、ついに仏の悟りを得られたのです。

●弥陀の本願ひとつ●

三十五歳で最高の仏の悟りを開かれたお釈迦さまは、八十歳二月十五日にお亡くなりになるまでの四十五年間、すべての人が本当の幸せになれる道一つを、説き続けていかれました。その釈尊の教えを、今日、仏教といわれます。その教えのすべては、今日、「一切経」といわれるものに書き残されています。それは七千余巻という膨大な数のお経です。
仏教に何が教えられているかを知るには、この一切経を、余すところなく読んで、正しく理解しなければなりません。ところが難しい漢字ばかりのお経ですから、誰でも全部読めるものではありませんし、理解できるものでもありません。
今日、世界の光と仰がれている親鸞聖人は、その一切経を何回も読み破られ、
「お釈迦さまの教えていかれたことは、これ一つなんだよ」
と、『正信偈』というお聖教(*)に書かれているのが、
「如来所以興出世(如来、世に興出したまう所以は)
唯説弥陀本願海(唯、弥陀の本願海を説かんがためなり)」
と言われている二行です。

「如来、世に興出したまう所以は」とは、「お釈迦さまが、この地球上に現れて仏教を説かれた目的は」ということ。
「唯説」とは、「ただ一つのことを説かれるためであった」ということです。
七千冊以上のお経があり、四十五年間も教えられたと聞くと、「お釈迦さまは色々なことを説かれたのだろう」と思われましょうが、そうではなかった。お釈迦さまの教えられたことは、たった一つのことなのだと、親鸞聖人は断言されています。
一切経を99%読んでも、こんな断言はできません。後の1%に何が書かれてあるか分からないからです。親鸞聖人は一切経を何度も読み破られて断言されているのです。
私たちは釈迦が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、仏教すべてを聞いたことになり、仏教のすべてを知ったことになる。だから釈迦のただ一つ説かれた、そのことほど大事なことはありません。決して間違えてはならないことです。
親鸞聖人は、それこそ「弥陀の本願」であるとおっしゃっています。
「弥陀の本願」とは、「阿弥陀如来という仏さまが、本当に願っていられる御心」のことで、海にたとえて「本願海」といわれています。
『正信偈』には他にも「本願の大智海」「功徳の大宝海」など、「阿弥陀仏の本願」のことを、幾度も「海」と言われています。
これは、「海」の持つ次の四つの特徴が、「弥陀の本願」をよく表しているからであると拝察されます。
○広い
○深い
○一味
○終帰
一つ一つについて、聖人のお言葉を通して伺ってみましょう。

●広い──相手えらばずなされたお約束●

言うまでもなく、この地球上で最も「広い」ものは、「海」です。海岸や船の甲板から、はるか水平線を眺めると、海の広大さに圧倒されます。それでも見えている範囲は、海全体のごく一部ですから、まさに「海は広いな、大きいな」。海と陸の割合は、およそ七対三。地球儀で見ると、ユーラシア・アフリカ・南北アメリカ大陸など合わせれば、陸地も結構広そうですが、海はその倍以上もの広さがあるのです。
「本願」は「誓願」とも言われ、約束のこと。約束には、必ず相手がある。親鸞聖人が「弥陀の本願」を、広大な海に例えられたのは、そのお約束の「相手」が、とても「広い」からです。
阿弥陀仏は約束の相手を、
「十方衆生」
とおっしゃっています。「十方」とは、東西南北上下四維の十の方向のことで、仏教では大宇宙のことをいわれます。大宇宙には、地球のようなものが無数に存在することは、今日の天文学では常識になっていますね。それはちょうど、大空間に沢山の塵芥が浮いているようなものですから、仏教では「十方微塵世界」とも言われます。
この大宇宙に生きとし生きるすべての人を、「十方衆生」と言われているのです。この中に入らない人は、一人もいません。私も、あなたも、イチローも、朝青龍も、オバマ大統領も、みんなです。
大日如来や薬師如来など他の仏方にも、それぞれ「本願」があり、「約束」をされているのですが、「十方衆生」を相手に約束されている仏はおられません。どの仏さまの本願も、「こんな人とだけ、約束する」と、相手が限定されています。条件がついているのです。
ところが、本師本仏の阿弥陀仏だけは差別なく、「十方衆生」と約束されている。

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず (歎異抄)

親鸞聖人は、その「弥陀の本願」を、「弘誓」(弘い誓い)とか、広い海に例えて「本願海」と讃嘆されているのです。

●深い──弥陀の慈悲は底無し●

次に、とてつもなく「深い」ことも、海の特徴の一つです。
世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈には、世界最高峰を誇るエベレストがそびえていますが、それでも標高は約八八〇〇メートル。対して世界最深のマリアナ海溝は、一万メートルを超えます。エベレストを引っ繰り返して海に沈めても、頂上は海底に届かない程の深さです。
阿弥陀如来が、罪悪の深い私たちを見捨てられず、ご本願を建ててくだされた底無しのお慈悲を、海の深さになぞらえて「本願海」と言われているのです。

願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず (正像末和讃)

と言われている親鸞聖人の『ご和讃』も、
「阿弥陀如来のお力には限りがないから、どんな極悪人をも救い切ってくだされるのだ」
と、繰り返し仰っているお言葉です。
量り知れない悪業のかたまりの我々は、阿弥陀如来の無限のお力によらなければ、絶対に救われません。
『歎異抄』には、”なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのか”といえば、

罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします

“煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである”
と説かれ、そのご本願に救い摂られた歓喜をこう告白されています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ

“弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな量り知れぬ悪業をもった親鸞を、助けんと奮い立ってくだされた本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか”

すべての人を、金輪際助からぬ極悪人と見抜かれた上で、必ず絶対の幸福に救うと誓われている、弥陀の御心の底知れぬ深さが、「海」の一字で表されています。

●一味──海に入れば皆同じになる●

「一味」とは、大小清濁どんな川の水も、「海」に入れば同じ「一つの味」になる、ということです。
富山県でお話ししますと、富山湾には黒部川・神通川・常願寺川・小矢部川・庄川など、多くの河川が流れ込んでいます。しかしどの川の水も、海に入ると同じ味になる。ちょうどそのように、どんな人も、阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、一味平等の絶対の幸福に生かされることを、「本願海」とおっしゃっているのです。
『正信偈』には、このことを分かりやすく、
「凡聖逆謗斉廻入(凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すれば)
如衆水入海一味(衆水の海に入りて一味なるがごとし)」
“弥陀の本願に救い摂られたならば、万川の水が海に入って一味になるように、才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ” (○ページに詳解)
と教えられています。また、
「与韋提等獲三忍」(韋提と等しく三忍を獲る)
“どんな人でも弥陀の誓願不思議に救い摂られれば、イダイケ夫人と等しく三忍(人生の目的成就)を体得できる”(○ページに詳解)
と明言されているのも、いつの時代、どこの国に住む人も、弥陀に救われたならば、一味平等の世界に生まれ出る、と言われたお言葉です。
ここでイダイケ夫人とは、約二千六百年前、お釈迦さまの在世中、インドで最強を誇っていたマガダ国の王妃。産んで育てた我が子によって牢屋に入れられ七転八倒、地獄の苦しみに悶えるイダイケが、お釈迦さまのご教導によって、「弥陀の本願」に救い摂られたことが、『観無量寿経』に説かれています。恨みと呪いの暗黒の人生が、たちまち懺悔と感謝の光明の人生と新生したイダイケは、地球上で最初に「弥陀の本願」に救われた人。そのイダイケの名を聖人は『正信偈』に挙げられて、
「韋提と等しく三忍を獲る」
〝何十億人の人がいても、阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、誰もが韋提(イダイケ夫人)と等しくなれるのだよ〟
と訴えておられるのです。
このように、弥陀の救いは時空を超えて一味であることを、「海」に例えて教えておられます。

●終帰──万川が行き着く●

また、”地上のどこに降った雨水も、最後、ここへ来ないと落ち着かない”という、究極のよりどころが「海」です。
山頂に降った雨も、中腹に降った雨水も、平野に降った水滴も、やがて川に入り、海へ、海へと向かっていきます。もちろん途中の湖や池にしばらく留まることはあるでしょう。が、流れ流れて最後は「海」に辿り着きます。「海」に入らなければ、どの雨滴も落ち着かないのです。これを「終帰」といい、海の大きな特徴です。

世界には、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など数多の宗教があり、信仰している人があります。例えれば、山頂から海に至るまでに、多くの湖や池があり、そこに雨水が留まっているようなもの、といえるでしょう。
何十万とある宗教だけではありません。お金や財産、地位や名誉、仕事、結婚、家庭、友人、思想や哲学、学問など、私たちが信じ、あて力にしている一切は、湖や池や水たまりのようなもの。それらを信じ、手に入れ、しばしの安らぎがあったとしても、心の底からの安心が得られるでしょうか。「人間に生まれてよかった」という、変わらぬ生命の大歓喜があるでしょうか。
「今までで、一番うれしかったことは?」「どんなときが幸せ?」と聞かれて、即答できる人はどれだけあるでしょう。「いやぁ、何かいいことあったかなぁ……」という程度の記憶しか残っていないのが実態ではないでしょうか。
一時よろこべても、すぐに色あせる儚い幸せしか知らない、そんな私たちに、本当の安心・満足を与えてみせると誓われているのが、「阿弥陀仏の本願」です。
私たちは、それぞれ自分が一番よいと思うものを生き甲斐にし、安心を得ようと必死に追い求めていますが、最後はこの「弥陀の本願」に帰して初めて、
「人間に生まれたのは、これ一つであった」
「我が人生に悔いなし」
と真の幸福が得られることを、万川の終帰する「海」に例えて、「弥陀の本願海」と親鸞聖人は言われているのです。

“阿弥陀仏は、すべての人を極悪人と見抜かれた上で、そんな者を一味平等の絶対の幸福に救い摂ると、命を懸けて誓われているのだよ。我々の真に救われる道は、この「弥陀の本願」以外にないのだから、釈迦は「弥陀の本願」唯一つ、教えていかれたのだ。一日も片時も急いで、聞き開いてくれよ”
聖人の熱き御心を、「海」の一字に知らされるではありませんか。

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