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五濁悪時群生海 応信如来如実言

0 4月 20th, 2011

五濁悪時群生海  五濁悪時の群生海、
応信如来如実言 応に如来如実の言を信ずべし

「五濁悪時」と言われているのは、
「いろいろと汚れ、悪に染まっている世界」
のことです。これは、歴史上のある一時代のことでもなければ、映画・ハリー・ポッターやアバターなどファンタジーに出てくる架空の世界でもありません。私たちの生きている現実社会、この娑婆世界のことです。古今東西、いつでもどこでも、「五濁悪時」なのです。
親が子を殺し、子供が親をあやめる悲しい事件が後を絶ちません。遊ぶ金欲しさに、虫けらのようにタクシー運転手を刺し殺し、ホームレスを面白半分に殴り殺す高校生あり。「ムシャクシャするから」と、駅のホームで赤の他人を線路に突き落としたり、恋愛関係のもつれから、女性を山中の屎尿処理タンクで窒息死させたり。”クリーンな政治”を掲げて当選した人が贈収賄で捕まり、警察官が万引きし、消防士が放火し、教師が淫行で逮捕される。清純派アイドルだった女優が覚醒剤に染まっていた事件も、世間に衝撃を与えました。
人命の尊重を訴えていた識者があっさり首を吊ってしまったり、人道の正義を振りかざす平和主義者が戦争をしかけ、法治国家で人治がまかり通り、冤罪事件がでっち上げられることもあります。
「なぜオレだけがこんな目に」
「世の中いったいどうなってんだ」
「まさかこんなことになるとは……」
深い業をもった私たち人間の生み出す世界は、かかる矛盾と不条理にあふれ、毎日報じられる悲喜劇は、まさに『歎異抄』の、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって
空事・たわごと・真実あること無し

の実証でしょう。形こそ違えど、これらは太古の昔から現代まで連綿と、この地上で織り成されてきた人間ドラマではないでしょうか。
このように、罪悪にまみれ、悲哀と苦悩充満する人の世を「五濁悪時」と言われ、そこに生きる私たちすべてを、
「五濁悪時の群生海」
と、親鸞聖人は言われているのです。「群生海」とは、その数の多いことから「生きている群れ」と言われた言葉で、この中に入らない人は一人もいません。日本人もアメリカ人も中国人も、男も女も老いも若きもすべて。その苦悩の絶えない全人類に向かって、
“どうか皆人よ、「如来如実の言」を信じ、まことの幸せになってくれよ”
と訴えておられる聖人のお言葉が、
「五濁悪時の群生海、
応に如来如実の言を信ずべし」
の二行なのです。
では、「如来如実の言」とは、何のことか。これが分からなければ、聖人が朝晩、私たちに「信ずべし」と勧めておられるのに、順うこともできず、聖人の御心にかなうこともできません。それどころか、悲しまれる結果となってしまいます。それではあまりにも申し訳なく、勿体ないですね。
「如来如実の言」とはどんなことか、続けて親鸞聖人からお聞きしましょう。。

●「如来如実の言」=「一向専念無量寿仏」●

ここで「如来」と言われているのは、仏教を説かれた「釈迦如来」のことであり、「如実」とは「真実」ということですから、
「如来如実の言」
とは、
「釈迦如来の、真実のお言葉」
ということです。それは、『大無量寿経』という唯一真実の経に説かれている、

「一向専念無量寿仏」

の八字のこと。これは、
「無量寿仏に一向専念せよ」
ということで、無量寿仏とは本師本仏の「阿弥陀仏」のことですから、
「阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ」
と言われている、釈迦のご金言であり、仏教の結論です。
この「一向専念無量寿仏」の釈迦のお言葉を、親鸞聖人はここで「如来如実の言」と言われているのですが、では、どうしてお釈迦さまは、
「弥陀一仏だけを信じよ」
と言われるのでしょうか。それは、大宇宙広しといえども、私たちの「後生の一大事」を救う力のある仏は、阿弥陀仏一仏だけだからです。
このことは先に聖人が先に、
「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
「釈迦如来が仏教を説かれたのは、
『弥陀の本願』唯一つ明らかにするためであったのだ」
と仰っている通りです。そして、釈迦が「弥陀の本願」ただ一つ説かれたのは、
「阿弥陀仏の本願以外に、我々の救われる道は絶対にないから」
であることを、「本願海」の「海」の一字で教えておられることも、詳述してきました。
「助ける力のないものにすがっていも、絶対に助かりませんよ。この釈迦にもあなた方を助ける力はない。助ける力のある仏は、本師本仏の阿弥陀仏だけなのだから、弥陀一仏に向きなさい、弥陀のみを信じよ。弥陀の本願によって、『後生の一大事』を助けて頂けよ」
これ一つ教えられたのが、釈迦如来なのだと、親鸞聖人は断言されているのです。

●徹底した教え●

「弥陀一仏に向きなさい」
ということは、
「他の一切の諸仏・菩薩・諸神に向くな、礼拝するな、捨てよ」
ということです。
蓮如上人(*)は、有名な『御文章』に、
「一心一向というは、阿弥陀仏に於て、二仏をならべざる意なり」
「心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、更に余の方へ心をふらず」
など、繰り返されています。「二仏をならべる」とか「余の方へ心をふる」とは、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や諸神を信ずる」ことですから、いずれのご文も、釈迦の教えのとおり、
「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や諸神にかかわるな、手を合わせるな、礼拝するな、弥陀一仏を信じよ」
と訴えておられるお言葉です。

●なぜ、「弥陀一仏」なのか●

親鸞聖人は九十年の生涯、この釈迦の教えに順い、

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり (御伝鈔)

“我々が未来永遠、救われるか、どうか、の一大事は、「一向専念無量寿仏」になるか、否かで決するのである”
と明言されて、
「一向専念無量寿仏」
を叫び続けていかれました。『正信偈』の
「五濁悪時群生海
応信如来如実言」、
この二行も、
「すべての人よ、どうか早く『一向専念無量寿仏』の釈迦の教えに順い、『後生の一大事』の解決を果たしてくれよ」
と、熱烈に勧められているお言葉です。
蓮如上人もまた、

「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせよ」                  (白骨の章)

とか、

「阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二つも三つもあるべからざるものなり」   (御文章)
「その外には何れの法を信ずというとも、後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず」                (御文章)

と、「一向専念無量寿仏」の真実を開顕することに生涯、徹し抜かれたのでした。
阿弥陀仏は、
“すべての人は極悪人である。
我を信じよ、必ず助ける”
と誓われています。いかなる罪悪深重の者をも、極楽往生一定の身に必ずしてみせる、と仰せです。この弥陀の本願以外、釈迦も親鸞聖人も蓮如上人も、教えられたことは何もありませんでした。
「『一向専念無量寿仏』の他に、我々の助かる道は絶対ないのだから、五濁悪時のすべての人よ、弥陀一仏を信じなさい」
朝晩の勤行で私たちは、その聖人のみ声を聞かせていただいているのです。直ちに随順いたしましょう。

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