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能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

0 5月 11th, 2011

「能く」とは、「阿弥陀如来のお力によって」ということ。
「弥陀のお力」のことを、仏教で「他力」といわれます。

●「他力」って何のこと?●

この「他力」という言葉も、世間では誤用されている仏語(仏教の言葉)の一つですね。いわゆる「他人のフンドシで相撲を取る」式の理解をして、「自分以外の人や物の力」という意味で使われています。
例えばプロ野球ペナントレースの終盤、首位チームにマジックが点灯。二位チームが全勝してもリーグ優勝できないケースになると、「これで二位ドラゴンズの自力優勝は消えた。巨人が負けるのを待つ、他力本願しかない」などと言う。あるいは「太陽がなければ我々は生きていけない。空気や水がなくても死んでしまう。これら、他力のおかげさまで、生かされているのだ」などとも使う。
「他力」とはしかし、そんな「他人の力」とか「自然の力」という意味ではありません。語源は仏教ですから、仏教の意味で正しく使用されねばなりません。
仏教で「他力」とは、阿弥陀仏のお力のことをいわれるのだと、親鸞聖人は、こう明言されています。

「『他力』と言うは如来の本願力なり」(教行信証行巻)

ここで「如来」といわれているのは、阿弥陀如来のこと。「阿弥陀仏」「弥陀」ともいわれ、大宇宙に無数にまします仏方(十方諸仏)の、先生の仏さま(本師本仏)であると、お釈迦さまはおっしゃっています。「本願」とは「誓願」ともいわれ、〝誓い〟のことですから、分かりやすく言うと「約束」ということ。ゆえに「如来の本願」とは、「阿弥陀如来のなされているお約束」のことであり、その本願のお力のみを「他力」というのだ、と聖人は教えられているのです。

●本願の信楽=一念喜愛心=他力の信心●

では阿弥陀如来は、誰と、どんな約束をなされているのでしょうか。「如来の本願力」とは、どんなお力のことでしょうか。
弥陀の本願は、一言で言うと、
「すべての人を、必ず信楽に救う」
というお約束です。
私たちが生まれてきた目的、生きている目的は、
「阿弥陀仏に救われること」
です。その「阿弥陀仏の誓い」は「信楽にする」というお約束ですから、私たちの人生の目的は、「信楽の身になること」なのです。いかに、「信楽」とはどんなことか知ることが大切か、お分かりになるでしょう。
そこで、この「信楽」とはどんなことか、蓮如上人は分かりやすく、『聖人一流』の御文章に、

「往生は治定せしめたまう」

と言われています。「往生」とは、「阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、仏に生まれる」こと、「治定」はハッキリしたこと。これを「往生治定」とも「往生一定」とも言われます。弥陀が、
「すべての人を、必ず信楽にする」
と誓われている「信楽」とは、この「往生一定の決定心」をいうのです。いつ、どこで、どんな死に方をしても〝必ず浄土へ往ける〟大安心・大満足のことであり、今日の言葉で「絶対の幸福」といえましょう。親鸞聖人はこの本願の「信楽」を、『正信偈』のここでは、
「一念喜愛心」
と言われ、これは全く「他力(=阿弥陀如来の本願力=能)」によって賜る(発される)心であるから、
「能発一念喜愛心(能く一念喜愛心を発す)」
〝阿弥陀仏のお力によって、往生一定の身に救い摂られるのだ〟
と言われているのです。蓮如上人も同じく「聖人一流の章」に、

「不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう」

〝阿弥陀仏の不可思議の本願力によって、往生治定とハッキリするのだ〟
と、『正信偈』と一貫していることが分かりますね。

●救われたら、欲や怒りの煩悩はどうなる●

では、弥陀に救われたら、煩悩はどうなるのか。次に、
「不断煩悩得涅槃」
と言われています。まず
「不断煩悩(煩悩を断ぜずして)」
とは、
「煩悩は減りもしなければ増えもしない、無くもならないままで」
ということ。一言で、
「煩悩は全く変わらないで」
ということです。

「煩悩」とは、私たちを「煩わせ悩ませるもの」と書き、仏教では、全部で百八あると教えられています。中でも大きなものが三つあり、三毒の煩悩と言われているのが、「貪欲、瞋恚、愚痴」の三つ。
「貪欲」とは、無ければ無いで欲しい、あればあったでもっと欲しいと際限もなく求める心です。その欲の心が妨げられて腹が立つ心が「瞋恚」、怒りの心。カーッと腹が立つと、「えーい、こんな奴、死んでしまえ」とさえ思います。怒りをぶつけられない相手には、ウラミ、ネタミ、ソネミの心がとぐろを巻く。これが「愚痴」です。毎日の暮らしの中で、こんな心にどれだけ私たちは煩わされ、悩まされていることでしょう。
人間は、これら欲や怒り・ネタミソネミの煩悩の塊であることを、仏教では「煩悩具足の凡夫」といわれます。「具足」とは「それでできている」ことですから、「煩悩具足」とは、人間は「煩悩によってできている」「百八の煩悩の塊である」ということです。
それら欲や怒りの煩悩は、阿弥陀仏に救われても全く変わらない、と言われているのが、「不断煩悩」の四字なのですが、そんなことを簡単に信じられるでしょうか。「弥陀に救われたら、少しは煩悩が減るのではないか。欲もあまり出なくなるだろうし、そんなに腹も立たんようになるだろう」とは思っていないでしょうか。それどころか、「仏教を聞いても欲や怒りの心が少しも減らないなら、聞く意味がないじゃないか」、これが常識的な仏教観でしょう。
ところが親鸞聖人は、
「阿弥陀仏のお力によって絶対の幸福に救われても、煩悩は減りもしなければ無くもならないのだ」
と、驚くべきことを喝破されているのです。こうも言われています。

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)

〝人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりである。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない〟
「臨終の一念に至るまで」とは、「死ぬ瞬間まで」ということですから、「阿弥陀仏に救われても、煩悩はまったく変わらない」の断言です。これを『正信偈』には「不断煩悩」と言われ、次に、
「得涅槃(涅槃を得)」
と言われているのは、
「『弥陀の浄土へ往って、仏になれる身』になれる」
ということです。

ところがこのような「不断煩悩得涅槃」というお言葉をちょっと聞くと、これまた多くの人が、
「死ねば誰でも極楽浄土へ往けるということか」
「みんな死んだら極楽、死んだら仏」
と誤解する。それで親鸞聖人は、
「それは間違いだ。誰でも彼でも極楽へ往けるのではないのだよ」
と、前の行に、
「能発一念喜愛心」
〝阿弥陀仏のお力によって、現在ただ今、救い摂られたならば〟
と念を押されて、
「現在、阿弥陀仏に救われた人だけが、欲や怒りの煩悩あるがままで、仏になれる身になれるのだよ。だから早く、今の救いを急ぎなさい」
と勧めておられるお言葉が、
「能発一念喜愛心(能く一念喜愛心を発せば、
不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得)」
の二行です。

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