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凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

0 6月 3rd, 2011

凡聖逆謗斉廻入 凡聖逆謗、斉しく廻入すれば、
如衆水入海一味 衆水の海に入りて一味なるが如し

自由と平等。この二つは、古今の人類が希求してやまぬ究極の理想でしょう。だが実際は、自由を追及すれば不平等になり、平等を徹底すると不自由を強いられる。
小学校の駆けっこでは、「順位をつけない」ことで「平等性」を保とうと試みられていますが、自由な競争心を失わせ活力を奪うと懸念する声もあります。また、私有財産を禁じ完全平等を目指すはずの共産主義国家で、貧困にあえぐ民衆をはた目に、独裁統治者や一部の特権階級が富を独占し豪奢に暮らす、いわば「超格差社会」が出現しやすい事実は、いかに「平等」が実現困難か示しているといえるでしょう。
考えてみれば、生まれもっての能力や家柄、国籍、肌の色、男女の違いや容姿のよしあし、学問や経験の浅深など、あらゆることが十人十色、千差万別で、一人も同じ人はありません。現在、地球上に六十数億の人がいるといわれますが、それらのことはみな異なります。いわゆる「差別」は、紛れもない現実です。
そんな中、すべての人が真の平等になれる、驚くべき世界の厳存を喝破されている親鸞聖人のお言葉が、
「凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
の二行なのです。

●「凡聖逆謗」=「すべての人」●

「凡・聖・逆・謗」の「凡」は凡夫、「聖」は聖人(といっても親鸞聖人のことではありません。後述します)、「逆」は五逆罪の人、「謗」は謗法罪の人。この「凡・聖・逆・謗」で、「すべての人」ということです。何十億の人がいても、「凡・聖・逆・謗」の中に入らない人は、一人もいません。

そこでまず「凡夫」について、親鸞聖人の解説をお聞きしましょう。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)

〝凡夫というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりである。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない〟
「欲も多く」とは、あれが欲しい、これも欲しい、金が欲しい、恋人が欲しい、尊敬されたい、才能や努力を認められたい、若く見られたい、キレイと言われたい、まだ足らん、もっと欲しいと、際限もなく求める欲の心で、朝から晩まで振り回されていることです。聖人ご自身、

「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」
(教行信証)

〝何と情けないことか、男女の欲や人間の好き嫌い(愛欲)の広い海に沈み切っている、先生と呼ばれたい、悪口言われたくない名誉欲と、一円でも金が欲しい利益欲が、大きな山ほどあって迷惑している〟
と告白されています。
「瞋り腹立ち」とは、それら欲の心が邪魔されてカーッと腹が立つ心。ひとたび怒りの炎が燃え上がると、相手が親だろうが親友だろうが恩師だろうが、思ってはならないことを思い、言ってはならないことを言う、やってはならないことをやる。後先考えずに八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。
「そねみねたむ心」は、仏教では愚痴といわれ、宇宙の真理である「因果の道理」が分からぬバカな心をいいます。不幸や災難に遭うと「あいつのせいだ」「こいつが悪い」と他人を怨み憎しみ、ライバルの成功や隣家の新築を見てはねたみそねむ、醜い心です。
これら欲や怒り・ねたみそねみの煩悩が、「身にみちみちて」いるのが「凡夫」である、と言われているのですが、そう聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょう。多くの人が想像するのは、大体こんな感じではないでしょうか。
「私という器があって、その中に汚い煩悩が入っている。まあ七割か、多くても八割ぐらいだろう。残りの二割が、理性とか真心とか愛とか、なにか煩悩以外のピュアなものにちがいない」
親鸞聖人が「身にみちみちて」と言われているのは、そんなことではない。煩悩以外に何もない、百パーセント煩悩。これを「煩悩具足」ともいわれます。「具足」とは、「それによってできている」ことで、例えば「雪だるま」は「雪具足」といえるでしょう。雪だるまから雪を取ったら、何もなくなるからです。といっても厳密に言えば、目や鼻に使った木炭やニンジンは残りますから、完全な「雪具足」ではありませんね。
「煩悩具足」とは、「煩悩の塊」のことで、我々から煩悩を取ったら、まさにゼロになる、何もなくなる。これを「凡夫」と親鸞聖人は、言われているのです。

次に「聖」とは「聖人」のこと。欲や怒り・ねたみそねみなどの煩悩が、凡夫ほどには荒っぽくない人。ある程度はコントロールできる人。ですから、「愛欲と名利に朝から晩まで振り回されている親鸞だ」と懺悔されている、親鸞聖人ご自身のことを仰ったのではありません。相当高いさとりを開いている人のことを、「聖」と言われているのです。

「逆」は「五逆罪を造っている人」。「五逆罪」とは、「五つの恐ろしい罪」をいいます。中でも初めに挙げられているのが、「親殺し」の罪です。包丁で刺したり、寝室に忍び込んで絞殺するなど、子が親を殺す事件が絶えません。これら「親殺し」など五つの罪のうち、一つ犯しても「五逆罪」であり、もっとも苦しみの激しい無間地獄へ堕ちる「無間業」と教えられています。その五逆の罪人を「逆」と言われています。

「謗」は、「謗法罪を造っている人」のことで、親鸞聖人は、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」(末灯鈔)
と仰っています。「謗法罪」とは、真実の仏法を謗ったり非難する罪をいいます。大恩ある親を殺す五逆罪も大変恐ろしい罪ですが、最も恐ろしいのが仏法を謗る罪であり、「無間業」と教えられている。それは、すべての人が救われるたった一本の道である仏法をぶち壊し、幾億兆の人を地獄へ堕とすことになるからです。

この「凡・聖・逆・謗」で「すべての人」、「どんな人も」ということであり、この中に入らぬ人は一人もありません。

●弥陀に救われたら、どうなるのか●

次に「斉しく廻入すれば」の「廻入」とは、「廻心帰入」を略した言葉です。「廻心」とは「心が廻る」と書くように、心がガラーっと百八十度変わってしまうこと、「帰入」は、阿弥陀仏の誓願に救われたことをいわれます。
阿弥陀仏は、「すべての人を、必ず極楽浄土に生まれられる身に救う」という超世の大願をおこされています。この「弥陀の誓願不思議」に助けられたならば、
「死んだらどうなるのか後生不安な心」が、「いつ死んでも必ず浄土へ往ける大安心」に、
「何のために生きているのか分からない」暗い心が、「人間に生まれたのはこれ一つのためだった」と明るい心に、生まれ変わる。
永久の闇より救われて、苦悩渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じ変わってしまう。
弥陀に救われる前と、救われた後とでは、このように心がガラーっと変わり果てますから、弥陀に救い摂られたことを「廻心」といい、『正信偈』には「廻入」といわれているのです。

しかもその「弥陀の救い」は、「一念」であることを親鸞聖人は、

一念とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す   (教行信証)

と説示されています。「信楽開発」とは、〝後生不安な心〟が晴れ渡り、〝必ず浄土へ往ける〟大満足がおきたこと。その弥陀の救いの速さを「一念」という、と言われているお言葉です。

凡夫も、聖人も、五逆の罪人も、謗法の者も、どんな人も一念で阿弥陀仏に救い摂られたならば(凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すれば)、どうなるのか。
「一味になる。それはちょうど、世界中の川の水が、海に流れ込むと、同じ塩辛い一つの味なるようなものだ」
と、例えで教えられているのが、次の、
「衆水の海に入りて一味なるが如し」
です。
「衆水」とは、色々の川の水のこと。日本にも、世界にも、沢山の河がありますが、どの川の水も、海へ、海へと向かって流れています。大河も小川も、綺麗な川の水も汚い川の水も、万川の水がやがて必ず海に辿り着くことを、「衆水が、海に入る」と言われ、海に流れ込んだならば、同じ塩辛い味になることを、「一味になる」と表現されています。
海は、圧倒的に広くて大きいですから、どんな川の水も受け入れて、海に入れば一つの味になる。そのように、
「阿弥陀仏に救い摂られたならば、ノーベル平和賞をもらった人も、凶悪殺人犯も、才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ」
と、驚くべき世界を喝破されているのが、
「凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
の二行なのです。

「そんな世界、とても想像できない」
と、みなびっくりするのも無理もありません。このお言葉の真意を知るのは、実は大変なことで、ちょっとやそっとで分かるものではない。例えば、こう言われて、ピンとくるでしょうか。
「イチローも、菅直人さんも、レディーガガも、あなたも、弥陀に救われたらならば、全く同じ心の世界に生かされるのですよ」
あまりにも常識からかけ離れていて、「なるほどそうですか」と、簡単に納得できることではありませんね。
そこで聖人は、この不可思議な弥陀の救いをなんとかみんなに知ってもらいたい、早く弥陀の救いに遇ってもらいたいと、同じ法然門下の法友と、大ゲンカまでなされたのが、今日「信心同異の諍論」といわれている論争です。
「阿弥陀仏の救いは、一味平等か、差別があるのか」
で、激しく闘われた親鸞聖人の大喧嘩について、次に詳説いたしましょう。

●信心同異の諍論●

この争いの相手は、聖信房・勢観房・念仏房の三人。みな法然上人のお弟子です。
当時、法然上人は、「智慧第一の法然房」「勢至菩薩の化身」といわれ、日本一の仏教の大学者でした。有名な大原問答は、京都の大原で、各宗派のトップの学者たちを相手にたったお一人で、七千余巻の一切経を縦横無尽に引用して、完膚なきまでに論破なされた大法論です。また主著の『選択本願念仏集』は、当時の仏教界に水爆級の衝撃を与えた事実によっても、いかに法然上人が常人を超えた方であったか、知られるでしょう。
その法然上人には、三百八十余人という多くのお弟子がありました。聖信房・勢観房・念仏房の三人は、中でもトップクラスの俊秀であり、親鸞聖人の先輩でもあったのです。
聖人三十四歳の御時。三人が、「信心」について話し合っているのを耳にされます。アニメ『世界の光・親鸞聖人』第2部で見てみましょう。

念仏房「高弟二人が、何の話かな」
聖信房「今、お師匠さまの信心は凄い。あんな信心にはとても我々はなれんと言っておったのだ」
念仏房「そりゃそうだ。智恵第一のお師匠さまと、同じ信心になれるものか」
勢観房「大原の法論でもそうだった。三百余人の日本中の学者を向こうに回して、たったお一人で打ち破られたお方だからなあ」
念仏房「勢至菩薩の生まれ変わりと、みんなが言うのも当然だ」
聖信房「そんな方の信心と、同じになれないのが当たり前よ」

ここで親鸞聖人が、摩擦を避けて〝見て見ぬふり〟をされたならば、論争は起こらなかったでしょう。後に先輩から疎まれ門内で孤立されることもなかったかもしれません。だが〝極悪の親鸞を、絶対の幸福に救ってくだされた弥陀の厚恩には、身を粉に骨砕きても報いずにおれない〟と、燃える「恩徳讃」に生き抜かれる聖人には、弥陀の本願の聞き誤りを、看過することはできなかったのです。

親鸞聖人「少し、よろしいでしょうか」
念仏房「何だ、親鸞か」
親鸞聖人「今、お師匠さまの信心と、同じになれるはずがないと、おっしゃっておられたようですが」
聖信房「いかにも」
親鸞聖人「それは親鸞、納得できません」
念仏房「そなたはいつも先輩の言うことにケチをつける人だなあ。善恵房殿の時もそうだった。そんなことでは、みんなから嫌われるだけだぞ」
親鸞聖人「先輩方には、申し訳ありませんが、親鸞の信心は、お師匠さまの信心と、まったく同じでございます」
三人「なっ、何ーっ!」
念仏房  「何ということを親鸞!お師匠さまを冒涜するにもほどがある。聞き捨てならんぞ」

かくして、「信心が同じくなれるか、なれないか」で意見が対立した論争なので、「信心同異の諍論」と伝えられています。

●師への深い尊敬●

親鸞聖人が、法然上人をいかに尊敬されていたかは、有名な『歎異抄』第二章の、

「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」

〝たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちても、親鸞なんの後悔もないのだ〟
という宣言や、また、「救われたのは、まったく阿弥陀仏のお力によってであった」と感泣されている聖人が、

「昿劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし」

〝親鸞、法然上人に救われた〟
とまで言われている『ご和讃』からも窺えます。聖人にとって法然上人は、まさに〝いのち〟であったにちがいありません。その聖人が、
「親鸞の信心は、法然上人の信心とまったく変わるところはありません。同じです」
と、何の躊躇もなく確言されていることには、聖信房・勢観房・念仏房ならずとも、だれもが驚くのではないでしょうか。
「お前、何様のつもりだ。自惚れるな」
「法然上人をどんな方だと心得る。弟子としてあるまじきことだ」
と、激しく非難した三人の気持ちも、常識からは当然といえるでしょう。
この三人も、ただの人ではありませんでした。法然上人から親しく教えを受け、皆さんに伝えることを使命としていた仏教の専門家です。しかも、その法然門下三百八十余名の中でも高弟と目され、お師匠さまへの尊敬の深さは一方ならぬものでした。だからこそ、親鸞聖人の、
「私の信心は、法然上人と同じです」の発言にいきり立ち、
「同じになれるはずがない。撤回せよ」と迫ったのです。法然上人を尊敬していない三人なら、こんな反応はありえないでしょう。また学問や理屈で分かることなら、優秀な人たちが間違えるはずもありません。

●法然上人のご裁断●

どれだけ論じても埒が明かないと見て三人は、法然上人をお呼びし、ご裁断を仰ぐことになりました。その時の〝判決文〟ともいえる上人のお言葉が残っています。

「信心のかわると申すは自力の信にとりての事なり、すなわち智慧各別なるが故に信また各別なり。他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心もさらにかわるべからず、ただ一なり。我が賢くて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々はわが参らん浄土へはよも参りたまわじ、よくよく心得らるべき事なり」(御伝鈔)

これも分かりやすく描かれた、アニメで見てみましょう。

法然上人「そなたたちは、私の信心と、異なると言ったのだな」
三人「そのとおりでございます」
法然上人「皆、よく聞きなさい。信心が異なるというのは、自力の信心であるからだ」
三人「えーっ!」
法然上人 「自力の信心は、智恵や学問や経験や才能で作り上げたもの。その智恵や学問や経験や才能は、一人一人異なるから、自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ」
勢観房「異なるのは、自力の信心か……」
法然上人「他力の信心は、阿弥陀如来からともに賜る信心だから、誰が受け取っても皆、同じ信心になるのである」
聖信房「他力の信心は同じになる……」
法然上人「それ故に、阿弥陀如来から賜った私の信心も、親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。まったく同じになるのだよ」
念仏房「それでは、親鸞の言うことが正しかったのか……」
法然上人「いいですか。この法然と異なる信心の者は、私の往く極楽浄土へは往けませんよ。心しておきなさい」
三人「はあっ」
念仏房「おのれ、親鸞。よくもお師匠さまの前で恥を……」

こうして、彼ら高弟の誤りを正された親鸞聖人は、いよいよ孤立していかれました。今日「信心同異の諍論」と伝えられるこの論争は、『歎異抄』後序にも記されています。

●一味平等の救いを鮮明に●

これは決して、「愚かな人たちが、うっかり誤った」という程度のものではないのです。何億兆年と迷い続けてきた我々一人一人の魂にかかわる、根深い重大な問題を孕んでいることを忘れてはなりません。
では、聖信房・勢観房・念仏房の三人が、
「法然上人の信心と同じになれなくて当然」
と間違った原因はどこにあるのか。
「信心」といえば、「智恵や学問、才能、経験」で作り上げたものしか知らなかったところにあります。これらは一人一人異なるものであり、法然上人はその智慧才覚が卓越しておられたから「信心も異なって当然」、と結論したのです。
「信心が異なる」とはどんなことか、次のような小話が理解の助けになるでしょうか。

◇ ◇ ◇

昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、同宿して争っていました。
「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」
と、高山の男は言う。
「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。この目でいつも見ていることだ」
と、一歩も引かないのは大島の男。そこへ宿屋の主人がやって来て、
「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。太陽は屋根から出て屋根へ入るもの」
と笑ったといいます。

◇ ◇ ◇

太陽が三つあるわけではありません。一つなのですが、住む場所の違いによって、その見え方が三者三様、異なっていたために、意見の食い違いが起きた、ということです。
同じ時計の音でも、金まわりのいい人には、
「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」
と聞こえるそうですが、借金に追われている者には、
「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」
と時計までが催促するといいます。
一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、各人各別の智恵や才能、経験で固めた「自力の信心」は、異なるのが特徴です。
それに対して「他力の信心」は、智恵や才能、学問や経験、善人悪人などとは関係なく、阿弥陀仏から賜る信心だから、誰が受け取ってもまったく同じになるのです。
テレビ局が同じなら、各家庭のテレビが、大・小、新・旧、異なっても、放送内容が変わるはずがない、のに例えられるでしょう。あるいは、同じ日本銀行発行の一万円札ならば、金襴・革・布、どんな素材の財布に入っていても、同じく一万円の値があるようなもの、と言えば分かりやすいでしょうか。
「慈悲平等の、仏から賜った信心に、相違があろうはずがない。法然の信心も親鸞の信心も、ともに他力の信心、まったく違いはない。同じである」
誤りやすいところを法然上人は懇ろに糾され、この一味平等の絶対の救いを親鸞聖人は『正信偈』に、
「凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
と鮮明にされて、〝片時も急いで弥陀の救いにあってくれよ〟と念じておられるのです。

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