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摂取心光常照護

0 7月 5th, 2011

摂取心光常照護 摂取の心光、常に照護したまう

弥陀の救いとは、どんなことか。救われる前と、救われた後とでは、どう変わるのか。それを親鸞聖人が鮮明に教えておられるお言葉です。

●摂取不捨の利益●

「摂取の心光」の「摂取」とは、「摂取不捨の利益」のことです。「摂取不捨」とは文字どおり〝摂め取って捨てぬ〟ことであり、「利益」は〝幸福〟をいいます。〝ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福〟を「摂取不捨の利益」と言われるのです。「絶対の幸福」といえるでしょう。
私たちは、健康から、子供から、恋人から、友人から、会社から、金や財から、名誉や地位から、捨てられはしないかと、毎日ビクビクしてはいないでしょうか。
彼女にフラれるんじゃないか。メールの返信しないと仲間はずれにされるんじゃないか。やっともらえた内定、取り消されたらどうしよう。定年退職した途端に妻から離縁状を突きつけられたら大変だ。病院から再検査の通知が来たが大丈夫かなあ。うちの子供が事故や事件に巻き込まれたらどうしよう、と薄氷を踏む不安にいつもおびえています。
楽しみも夏の夜の夢、幸せもつかの間の幻、浜辺の砂に指で書いた文字のように儚いものだと知っているからです。たとえしばらくあったとしても、やがて、すべてと別れる時が来ます。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、ただ一人こそ行きなんずれ」(御文章)

「いままで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、いよいよ死んでゆく時は、何一つ頼りにならぬ。誰もついては来てくれぬ。すべてから見放され、独りぼっちでこの世と別れて、いったい、どこへゆくのだろうか」
咲き誇った花も散る時が来る。死の淵に立てば、必死にかき集めた財宝も、名誉も地位も、何もかもわが身から離散し、一人で地上を去らねばなりません。
こんな悲劇に向かっている私たちに、死が来ても崩れない「摂取不捨の幸福」のあることを明示されているのが、親鸞聖人です。絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今すでに受く」(釈尊)
〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と、ピンピン輝く摂取不捨の幸福こそ、誰もが求める人生の目的なのです。

政治も経済も、科学も医学も、法律、芸術、スポーツなどあらゆる人間の営みは、幸福の追求以外にありません。ストレスに耐えて働くのも、資格取得や大学受験に励むのも、スキルアップに努め時間の使い方を工夫するのも、いろんな健康法やダイエットを試したり、合コン・婚活、プチ整形、ファッション、温泉めぐりや食べ歩きなど趣味や生き甲斐もすべて、よろこびや満足を求めてのことでしょう。
しかも私たちは決して、〝夢のまた夢〟と消える幸せのために生きているのではない。一切の滅びる中に、滅びざる真の幸福、「摂取不捨の利益」を得ることこそ、人生究極の目的なのです。

●阿弥陀如来の光明に、二つあり●

次に「心光」とは、阿弥陀如来のお力のことです。阿弥陀如来のお力を「光明」ともいわれるのですが、その「光明」の働きに二つあることを、よく知っていただかねばなりません。

「遍照の光明」と「摂取の光明」の二つです。

「遍照の光明」とは、〝遍く照らす〟とあるように、大宇宙のすべての衆生にかかっている阿弥陀如来のお力です。アメリカ人にも中国人にもアフリカの人も日本人にも、古今東西の人々すべてに働いている。またキリスト教を信じている人も、イスラム教者も天理教の信者も。みんなを照らしておられる阿弥陀如来のお力を、「遍照の光明」と言われるのです。この光明に照らされていない人は、一人もありません。

それに対して「摂取の光明」とは、私たちを一念で「摂取不捨の幸福」に救い摂る働きです。親鸞聖人は、

「一念とは、これ信楽開発の時尅の極促を彰す」(教行信証))

「一念とは、阿弥陀仏に救われる、何兆分の一秒よりも速い時をいう」
とおっしゃって、弥陀の「摂取の光明」によって「摂取不捨の利益」に救い摂られる(信楽開発)のは、「だんだんと」でもなければ「いつとはなしに助かる」のでもない、アッという間もない一瞬であると明言されています。
人生の目的は「摂取不捨の幸福」を得ることですから、「摂取の光明」とは、「一念で人生の目的を果たさせる、弥陀のお力」といっても同じです。
この「摂取の光明」のことを、『正信偈』のここでは「摂取の心光」と言われているのです。

●二つの光明の違い、分かれ目●

この「一念の救い(摂取の光明)」に遇わせるまで、何としても導かんと、阿弥陀如来が、大宇宙すべての人を照らして、押したり引いたり、ああもしたら、こうもしたらと種々に働いてくだされている力が、先に述べた「遍照の光明」なのです。
この「遍照の光明」を、その働きから、「調熟の光明」ともいわれます。

「調熟」とは、一念で人生の目的を果たさせるところまで、私たちの心を調え、誘導し、押し出し、引っ張ってくだされることです。
例えて言うと、集合写真を撮影する際にカメラマンが、
「はい皆さん、前の人の顔と顔の間から見えるようにしてください」
「二列目の方、中腰になってください」
「後ろの方、はいあなたです、気持ち右に寄っていただけますか……」
「赤い服の方、少しお顔が隠れていますので左に……」
などと、撮影できる状態になるまで調整するようなもの、といえましょう。シャッターを押すのは一瞬でも、そのための調節が、どうしても要るのです。

阿弥陀如来は、どうすれば私たちに「摂取不捨の利益」を与えることができるかと、種々にご苦労なされているのです。仏とも法とも知らなかった私が照育されて、無常と罪悪に驚き、後生の一大事を知らされ、仏法を真剣に聞かずにおれなくなる。そしてやがて「摂取の光明」に遇わせるところまで、私たちの心を調えてくださる、その弥陀のお働きを「調熟の光明」といわれ、これは大宇宙すべての人に差別なく平等に(=遍く)かかっている(=照らしてくださる)お力ですから、「遍照の光明」といわれるのです。

このように阿弥陀如来の光明には、「遍照(調熟)の光明」と「摂取の光明(心光)」と、二つの働きがあることをよく知っていただきたいと思います。その違いを知らないと、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
の一行が正しく読めないからです。
二つの光明の違いを一言で言えば、「遍照の光明」はすべての人を照らしているお力ですが、「摂取の光明」は、人生の目的を果たした人だけにかかっている。ここが、まったく違うところです。

次に「常照護」とは、「常に照らして、護ってくだされる」ことですから、
「摂取の心光は、常に照護したまう」
とは、
「一念で弥陀の摂取の光明に救い摂られた後、弥陀のお力は途切れることなく、ずっと護ってくだされるのだよ」
といわれているお言葉です。
これは「摂取の光明」に遇い「摂取不捨の利益」に救い摂られた人(=信後)のことであって、弥陀に救われていない人(=信前)のことではありません。言葉を換えれば、親鸞聖人はここで、弥陀の光明の働きを「遍照」と「摂取」の二つ(信前と信後)に分けられて、その中の「摂取の光明」のことをおっしゃっている、ということです。
「摂取の心光(=摂取の光明)は、」
と言われているのですから、明らかですね。

●要の中の要●

ゆえに、「平生の一念に摂取されたか、どうか」こそが大問題なのだと蓮如上人は、こう断定されています。

「たのむ一念のところ、肝要なり」(御一代記聞書)

「たのむ一念」とは、「弥陀に摂取された一念」「人生の目的を完成した一念」のこと。「肝要」とは「要の中の要」の意であり、これより大事なものはないことをいわれます。
この「たのむ一念」こそ、地獄と極楽の分かれ目であり、信前・信後の水際であり、自力と他力の分岐点であるから、仏教で最も重い言葉を使われているのです。
この肝要がすっぽり抜けているために、浄土真宗に極めて重大な誤解が横行しているのが悲しい実態です。例えば「阿弥陀さまのお力は、南無阿弥陀仏となって今ここに届いている。だからみんな助かっている」などと、ほとんどの人が誤るのです。そして「この身このままのお助けだから、なんにもしなくてよい」とドン座り、「真剣に聞き求める必要はない」と他人の聞法まで邪魔する始末。この末期的症状は、「遍照の光明」と「摂取の光明」との区別がつかず、一緒くたにしているところにあるのです。
大事なところですから、重ねて申しましょう。
「遍照の光明」に照らされてない人は一人もありませんが、「摂取の光明」に遇わねば「摂取不捨の利益」は頂けず、死後、弥陀の浄土へも往かれません。「誰でも彼でも死ねば浄土へ往ける」のではない。だからこそ親鸞聖人は、朝晩の勤行で、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
とおっしゃって、
「早く弥陀の『摂取の光明』に遇わせて頂きなさいよ。平生の一念に、未来永劫の浮沈が決するのだからね」
と、現在の救いを強調されているのです。

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