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貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

0 9月 21st, 2011

どうして「後生暗い心」が苦悩の根元なのか。疑問に思う人もあるでしょうが、未来暗いとどうなるか。墜落を知った飛行機の乗客を考えれば、よく分かるでしょう。
小説や映画でたびたび描かれる「日航機墜落事故」は、一九八五年八月十二日、羽田発大阪行きの日本航空123便が、群馬県御巣鷹の尾根に墜落炎上し、五百二十名が亡くなる惨事でした。発見された遺書には、
「恐い 恐い 恐い 助けて 気もちが悪い 死にたくない」(26歳女性)
「もう飛行機には乗りたくない」(52歳男性)
と、悲痛な心境がつづられていました。墜死だけが恐怖なのではない、悲劇に近づくフライトそのものが、地獄なのです。
未来が暗いと、現在が暗くなる。現在が暗いのは、未来が暗いからです。死後の不安と現在の不安は、切り離すことができないことがお分かりでしょう。

●無明の闇を破す、阿弥陀仏の本願●

後生暗いままで、明るい現在を築こうとしても、できる道理がありません。すべての人が苦しみから離れ切れないのは、「お金がないから」でも、「病気だから」でもない、「こんな人と結婚したから」でもなければ、「隣にこんな人が住んでるから」でもない、後生暗い「無明の闇」こそが苦しみの根元なのだと、本師本仏の阿弥陀仏は見抜かれて、こう約束なされています。
「すべての人の『無明の闇』を破り、『往生一定』の大満足の身に救ってみせる」
このお誓いが「阿弥陀仏の本願」です。「本願」とは「誓願」ともいわれ、約束のこと。あの有名な『歎異抄』の一章冒頭に、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」
と言われている「弥陀の誓願」とは、この「阿弥陀仏の本願」のことです。
「往生一定」とは、疑いなく浄土へ往く身になったことで、蓮如上人は「往生は治定せしめたもう」(聖人一流の章)とか、『領解文』にも「往生一定・おん助け治定」と言われています。「一定」も「治定」も、ハッキリしたこと。一切が浄土往生のさわりにならないから「無碍の一道」(歎異抄第七章)とも聖人は言われています。今日の言葉では、「絶対の幸福」といえるでしょう。
その絶対の幸福に、平生の一念、必ず救い摂る、という凄い約束を阿弥陀仏はなされているのです。大宇宙広しといえども、私たちの後生暗い心(無明の闇)をぶち破ってくだされるのは、本師本仏の阿弥陀仏だけなのだと、親鸞聖人は、

無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり (浄土和讃)

と仰っています。意味はこうです。
「阿弥陀仏には、全人類の苦悩の元凶である無明の闇(後生暗い心)を破り、往生一定の大安心に救い摂るお力があるから、大宇宙のすべての仏や菩薩方が、〝智慧光仏〟と弥陀を絶賛されているのである」
この弥陀のお力によって、「後生暗い心」がぶち破られて、「往生一定」に救い摂られたことを、
「已能雖破無明闇」
「弥陀の誓願力によって(=能く)、無明の闇が破られた」
と言われ、『正信偈』冒頭の、
「帰命無量寿如来(親鸞、弥陀に救われたぞ!)
南無不可思議光(親鸞、弥陀に助けられたぞ!)」
の宣言も、聖人自らこの「弥陀の救い」に遇われた魂の絶叫なのです。

●無明の闇が晴れたら、どうなる●

では、無明の闇が破られて、往生一定に救い摂られたならば、どうなるのか。「人生の目的」を成就すると、どう変わるのでしょうか。
「とらわれない生き方」になるのか。「しがみつかない生き方」に変わるのか。執着心の無い、ひょうひょうとした生きざまになるのだろうか。欲や怒り、ねたみそねみなどの煩悩は、少しは減って、穏やかな生活ができるようになるのだろうか。
これらの疑問に、親鸞聖人は続けて、
「貪愛瞋憎之雲霧(貪愛・瞋憎の雲霧)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり)」
とハッキリ答えられ、私たちが仏教を聞く目的を、鮮明にされています。

「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。褒められたい、儲けたい、愛したい、愛されたい、まだ足らんと、際限もなく求める心をいわれます。ダイエットや整形に大金を投じ、時には命の危険さえ冒すのも、モテたい、キレイと言われたい、の強烈な願望にちがいありません。
「瞋」は瞋恚、怒りの心。欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心です。ひとたび怒りの炎が燃え上がると、理性も教養もへったくれもなく八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。十八歳の男が、「交際を邪魔されたから」と、恋人の姉を刺殺した事件も、この怒りのなせる業でしょう。
「憎」は憎しみ・うらみの心。因果の道理が分からず、〝オレがこんな目にあったのは、あいつのせいだ〟〝こいつが余計なことを言ったからだ〟〝世間が悪い〟と他人を怨み世を呪い、ライバルの容姿や人気をねたみそねむ、醜い心のことです。
これら欲や怒り・ねたみそねみの心で私たちは、朝から晩まで煩わされ、悩まされ、イライラしてはいないでしょうか。仏教ではこれを「煩悩」といわれ、全部で百八つあると教えられています。
その百八の煩悩を、雲や霧にたとえられて聖人は「貪愛瞋憎の雲霧」と言われ、次の「真実信心の天」とは、無明の闇が晴れた「後生明るい心」のこと。その天を、欲や怒りの雲霧が「常覆(常に覆っている)」とは、「途切れる間がない、一杯である」ことですから、この三行は、
「弥陀に救われて『無明の闇』が無くなっても、
欲や怒り・ねたみそねみの『煩悩』は、
減りもしなければ無くもならない、まったく変わらない」
と、驚くべきことを喝破されているお言葉です。

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