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譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

0 10月 12th, 2011

この「煩悩」と「無明の闇」の違いを正しく知らなければ、親鸞聖人の教えは絶対に分からず、弥陀の救いには遇われません。だからこそ聖人は、『正信偈』に峻別して教えておられる。
ところが、専門外の作家が間違うならまだしも、相当の真宗学者でもこの「煩悩」と「無明の闇」の区別がなされておらず、ごちゃまぜに論じているものがほとんどですから、違いを知るのは大変です。多くの人の仏教観が、こうなるのも当然でしょう。
「阿弥陀仏に救われたならば、欲が減って、何事にも淡泊になるのではないか。今まで一日に十回腹を立てていた人は、忍耐力がついて、五回か六回になるのだろう。執着を離れてひょうひょうとした生き方になるのではないか」
これが常識ですから、それに反する言動を見聞きすると、
「あんたは仏教を聞いているのに、少しも欲が減らないじゃないの」
「腹立ててばかりいるし。聞く前とちっとも変わってない。それで仏教聞いているといえるの?」
「そんなことでは仏教を聞く意味なんてない!」
と非難までする。これは「無明の闇」と「煩悩」との違いが分からず、仏教の目的を完全に誤解しているから。すなわち、
「仏教を聞く目的は、煩悩を減らすことだ」「欲や怒りをコントロールできるようになることだ」と、カンカンに思い込んでいるのです。

そこで聖人は、この「無明の闇」と「煩悩」との違いは簡単に分かることではないからと、さらに譬えを重ねて、
「譬如日光覆雲霧 譬えば、日光の雲霧に覆わるれども、
雲霧之下明無闇 雲霧の下、明かにして闇なきが如し」
〝雲や霧で天が覆われていても、日光で、雲霧の下は明るくて闇がないように、どんなに煩悩に覆われていても、弥陀の智慧の太陽で、心は明るく浄土に遊んでいるように楽しいのだ〟
と解説されています。「日光」とは「太陽」のこと。「弥陀に救い摂られた『後生明るい心』」を、「太陽の光によって闇が無くなった、明るい天」に譬えられているのです。

この懇ろな聖人の教導でお分かりのように、「昼」と「夜」とでは、「雲霧が天を覆っている」状態は同じでも、「日光」の有無によって、全く異なるのです。
「夜」(=「日光」が出ていない間)は、天を覆う「雲霧」も見えないし、「闇」が「闇」とも分かりません。まして、「闇が晴れた明るい世界」など知るよしもないでしょう。
それが、「昼」(=「日光」で「闇」が晴れた)ならば、「闇」が「闇」と知らされ、天を覆う一杯の「雲霧」も、「闇の無くなった明るい世界」も、ハッキリするのです。
これが「夜」と「昼」との違いです。「雲霧」は関係ありません。「日光が出ていないか、出たか」で、全く別世界なのです。
同様に、弥陀に救われる前(無明の闇のある間)は、欲や怒りの「煩悩一杯」も分からなければ、「無明の闇」を「闇」とも分かりません。
ところが、ひとたび、弥陀の智慧の太陽(日光)によって「無明の闇」が照破されたならば、欲や怒りの「煩悩一杯」の自己も、「往生一定」の自己も、ハッキリ知らされるのです。
「雲霧の下、明らかにして闇なし」
は、その自覚を言われたお言葉です。
私たちの本懐成就のポイントは、欲や怒りの煩悩にあるのではなく、「無明の闇が晴れたか、どうか」にあることを、巧みなたとえで説かれているお言葉と知られるでしょう。

●「無明の闇」と「煩悩」のちがい

阿弥陀仏の目的は、私たちの欲や怒りの煩悩を減らしたり無くすることではありません。もしそうなら、弥陀に救われた人は、夜も眠らず食欲減退、ヒョロヒョロの草食系の人間になり、誰かにいきなり頭たたかれても、腹も立たないということになります。おかしいとすぐ分かるでしょう。
弥陀の救いは「無明の闇(後生暗い心)を照破すること」なのです。

聖人は九歳で仏門に入って二十年、比叡山での日々は、まさに煩悩との格闘でした。
「あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。思ってはならぬことが思えてくる。考えてはならぬことが浮かんでくる。恐ろしい心が噴き上がる。どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか」
無常の風は時を選ばず。このままならば、釜の中の魚の如く、永久の苦患は免れぬ。忍びよる無常の嵐に火急を感じ、「こんな親鸞、救われる道があるのだろうか」と下山を決意。間もなく、法然上人に邂逅され、

『凡夫』というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心、多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、止まらず消えず絶えず              (一念多念証文)

〝人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない〟
苦悩の根元は無明の闇一つであると知らされて、「無明の闇を断ち切り、往生一定の身にする弥陀の誓願」に救い摂られたのが、聖人二十九歳の御時のことでした。
それから九十歳でお亡くなりになるまで六十一年間、この「弥陀の救い」ひとつを、すべての人に知らせたいと、「煩悩」と「無明の闇」との違いを『正信偈』に峻別され、
「欲や怒りの煩悩は、死ぬまで無くならぬ。仏教を聞く目的は、後生暗い『無明の闇』を破ること一つなのだ。聞き誤ってはならないよ」
と朝晩、訴えておられるのです。

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