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獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

0 11月 9th, 2011

初めに「獲信(信を獲る)」と言われているのは、「信心獲得」のことです。
すでに重ねて述べてきたように、『正信偈』冒頭の二行、
「帰命無量寿如来(親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
南無不可思議光(親鸞、不可思議光に南無いたしました)」
これは、
「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ!
親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ!」
という、「弥陀に救われた」聖人の歓喜の告白です。この「阿弥陀仏に救われたこと」を、仏教の別な言葉で「信心獲得」とか「信心決定」、あるいは「信を獲る」とも言われ、『正信偈』のここでは、二字で「獲信」と言われているのです。
では、「信心獲得」「信心決定」「獲信」とは、私たちがどうなったことでしょうか。続けて蓮如上人にお聞きしましょう。

「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」(御文章)

これは「信心獲得の章」といわれる『御文章』の冒頭です。初めにズバリ、
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり」
〝信心獲得するとは、第十八の願を心得ることなのだよ〟
と言われています。
「第十八の願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が、四十八の約束をされている中の十八番目のお約束のこと。「十八願」ともいわれます。阿弥陀仏が本心を誓われている願であり、王本願ともいわれる、弥陀の命です。ゆえに「阿弥陀仏の本願」といえば、この「十八願」のことなのです。一言で、こう約束されている本願です。
「すべての人は、助かる縁手がかりのない極悪人である。
『南無阿弥陀仏』を与えて、必ず絶対の幸福に助けてみせる」
この第十八の願を、「心得る」とは、
「『ご本願の通りでございました』と疑い晴れたこと」です。
では、それはどういうことか、蓮如上人は続けて、
「この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
と、懇ろに解説されています。

●ナムアミダブツって、なに?●

世間では、「南無阿弥陀仏」といえば〝魔除けのマジナイか〟くらいに思われていますが、本当の意味を蓮如上人にお聞きしましょう。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。

〝『南無阿弥陀仏』といえば、わずか六字だから、そんなに凄い働きがあるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の名号の中には、私たちを最高無上の幸せにする大変な働きがあるのである。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである〟

「(南無阿弥陀仏には)さのみ功能のあるべきとも覚えざるに」
とは、
〝助かる縁手がかりのない極悪人を、絶対の幸福に救う働きがあるとは、誰も思えないだろう〟
ということです。〝猫に小判、豚に真珠〟といわれるように、ネコに小判を与えてもニャンとも喜ばないし、ブタの鼻先に真珠をぶら下げても、ブーとも言わない。見向きもせずエサに顔を突っ込むだけでしょう。それは、小判や真珠に値が無いからではない、それらの値を知る智恵が、ネコやブタにはないからです。
同様に、〝『南無阿弥陀仏』に、それほど凄い働きがあるとは思えない〟のは、六字の名号に「値がないから」ではない、「値を知る智恵が、我々にない」からなのです。
『南無阿弥陀仏』のもの凄い働きを知られた蓮如上人は、
「無上甚深の功徳利益の広大なること、極まりがない」
と言われています。これは無論、蓮師の「こう思う」という私見や、根拠のない独断ではなく、釈迦・親鸞聖人のご教導の通り知らされられての明言です。

お釈迦さまは『大無量寿経』に、

「十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう」

〝大宇宙にましますガンジス河の砂の数ほどの仏方が、異口同音に、阿弥陀仏の作られた名号(南無阿弥陀仏)の不可思議な大功徳を褒め讃えておられる〟
と説かれています。
阿弥陀仏は、なぜ、このような大功徳のある名号を作られたのでしょうか。一体、誰のために、どのようなご苦労をなされて、「南無阿弥陀仏」を完成されたのか。その「名号のいわれ」を親鸞聖人は、こう述べておられます。

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり」(教行信証)

〝すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿弥陀仏)を完成されたのである〟

十方諸仏の悲願に漏れて、捨て果てられた私たちを、本師本仏の阿弥陀仏だけが、「我ひとり助けん」と立ち上がられ、五劫の思惟と兆載永劫のご修行という大変なご苦労をなされて成就されたのが、『南無阿弥陀仏』であるから、この六字の名号の中には「無上甚深の功徳利益(=どんな極悪人をも、絶対の幸福に救い摂る働き)」があるのだよと、釈迦も親鸞聖人も蓮如上人も、一貫して教えておられることがお分かりでしょう。

「『南無阿弥陀仏』のすがたを心得る」
と蓮如上人が言われているのは、
「その『南無阿弥陀仏』を弥陀から賜って、〝助かる縁なき極悪の私を、救いたもう無上甚深の大功徳であった〟と、ハッキリ知らされた」ことであり、これを「信心獲得した」というのだと、蓮如上人は、
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」(御文章)
と言われているのです。

『正信偈』の初めに聖人が、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
〝阿弥陀仏に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀仏に親鸞、助けられたぞ!〟
と表明されているのは、この『南無阿弥陀仏』の大功徳を弥陀から賜って、絶対の幸福に救い摂られたことであり、
「獲信見敬(信を獲て見て敬い)」
とおっしゃっているのも、全く同じ意味です。
次に「大慶喜する」とは、

「この信心をうるを『慶喜』という」(唯信鈔文意)

と聖人の教示されているとおり、「慶喜」は「信心」を表す異名ですから、
「獲信見敬大慶喜(信を獲て見て敬い大慶喜すれば)」
の一行で、
「信心獲得したならば」
「阿弥陀仏に救われたならば」
と言われているのです。

●迷いの世界と縁が切れる●

弥陀に救い摂られたならば、どうなるのか。次に、
「即横超截五悪趣(即ち横に五悪趣を超截す)」
と、これまたとてつもないことを言い切っておられます。
「即ち」とは、同時に。「横に」とは、阿弥陀仏のお力によって。
「五悪趣」とは、五つの苦しみの世界ということで、「地獄界、餓鬼界、畜生界、人間界、天上界」の五つの迷いの世界をいわれます。(※註・「六道」の中の「修羅界」を「人間界」に含めて言われたもの)。私たちの魂は一人一人、これら迷いの世界を生まれ変わり死に変わり、果てしなく経巡ってきたことを親鸞聖人は「多生」「億劫」「昿劫」「微塵劫」と説かれ、『歎異抄』には「久遠劫より流転せる苦悩の旧里」と言われています。
阿弥陀仏に救い摂られたならば、その流転の絆が断ち斬られて、二度と迷わぬ身になることを、
「五悪趣を超截する」
と言われているのです。死ねば必ず弥陀の浄土へ往ける身になるからです。
ゆえに、
「獲信見敬大慶喜(信を獲て見て敬い大慶喜すれば)
即横超截五悪趣(即ち横に五悪趣を超截す)」
と、親鸞聖人が朝晩仰っている二行は、
「弥陀から『南無阿弥陀仏』を賜って信心獲得(獲信)すると同時に、昿劫流転の迷いを一念で断ち切られ、『往生一定』の絶対の幸福に救い摂られるのだ。我々はそのために人間に生まれてきたのであり、仏教を聞く目的も、この外に何にもないのだよ」
と、一日も早い「信心獲得」を勧めておられるお言葉です。
片時も急いで、弥陀の本願を聞き開かせていただきましょう。

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