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一切善悪凡夫人~是人名分陀利華

0 12月 6th, 2011

一切善悪凡夫人 一切善悪の凡夫人、
聞信如来弘誓願 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏言広大勝解者 仏は広大勝解者とのたまい、
是人名分陀利華 この人を分陀利華と名けたもう

『正信偈』の冒頭に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と叫ばれた聖人は、その「弥陀の救い」を明らかにされて最後に、
「道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説」
「すべての人よ、この親鸞と同じように、早く阿弥陀如来に救われてもらいたい」
と結んでおられます。『正信偈』を書かれた聖人の目的は、私たちが「弥陀に救われること(信心決定)」一つであったことが分かります。この度お話する四行も、その御心は、
「あわれあわれ、存命の中に、みなみな信心決定あれかし」
の外に何もなかったことを確認した上で、解説を進めましょう。

まず「一切善悪の凡夫人」とは、「すべての人」のことです。男も女も老いも若きも、善人も悪人も、この中に入らない人は一人もありません。「どんな人も」ということです。次に、
「聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
と言われている「如来の弘誓願」とは、「阿弥陀如来の本願」のこと。本師本仏の阿弥陀如来が、
「すべての人を
平生の一念
必ず助ける
絶対の幸福に」
と誓われているお約束を、「如来の弘誓願」と言われています。
大宇宙には、地球のお釈迦さまはじめ、大日如来や薬師如来、ビルシャナ如来など無数の仏方がましまして、それぞれに本願を持っておられますが、中でも、
「すべての人(十方衆生)と、約束する」
と、差別なく誓われている阿弥陀如来の本願のことを、「弘誓願(広い誓い)」と言われるのです。

「聞信」とは、露チリ程の疑いも無くなったこと。ですから、
「如来の弘誓願を聞信する」
とは、弥陀の本願通りに「絶対の幸福」に救い摂られて、
「弥陀の本願まことだった、まことだった、ウソではなかった!」
と疑い晴れたことを言われるのです。これを「信心決定」とも「信心獲得」とも言われ、また「獲信」と言われることも、先月お話ししました。これでお分かりのように、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
の二行は、
「どんな人も、
阿弥陀如来に救い摂られたならば」
といわれているお言葉です。

●阿弥陀仏に救われたら、どんないいことがあるの?●

では、弥陀に救われたら、どうなるのでしょうか。信心決定すると、なにかいいことがあるの? 私たちが知りたいことについて、親鸞聖人は続いて、
「仏言広大勝解者(仏は広大勝解者とのたまい)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)」
と明言され、
「凄いいいことがあるのだよ、早く信心決定して、この幸せよろこぶ身になってもらいたい」
と勧めておられるのです。
ここで「仏」と言われているのは、「十方諸仏」のことです。大宇宙にまします無数の仏方のことで、『阿弥陀経』には、東西南北上下のそれぞれの方角に、インドのガンジス川の砂の数ほど(恒河沙数)の仏方がおられるのだと、具体的な名前を挙げて紹介されています。それら無数の仏さまが、弥陀に救い摂られた人を、
「貴方は『広大勝解者だ』『分陀利華じゃ』と褒め讃えて下される」
といわれています。
「広大勝解者」とは仏教の大学者、「分陀利華」は、千年に一度しか咲かない白蓮華のことで、滅多にない素晴らしいことを表します。親鸞聖人はこの四行で、
「どんな人も、阿弥陀仏に救われたならば、大宇宙の無数の仏方から、『あなたは仏教の大学者だ』『滅多にない尊い人だ』と称賛される身になるのだよ」
と言われているのです。

●ほめられると、うれしい●

私たちは朝から晩まで、どんなことを考えているでしょうか。頑張って生きようとするモチベーションは、何でしょう。人それぞれ、いろいろありましょうが、中でも「褒められたい」、これが大変強いのではないでしょうか。評価されたい。実力を認められたい。若く見られたい。キレイと言われたい。モテたい。朝起きて、何を着ていくか、誰とどんなことを話すか。何から何までその行動基準は、「どうしたら他人からよく見られるか」が大きいでしょう。
そして実際に褒められると、どんな気持ちになるでしょう。子供に褒められてさえ、気分がよくなります。「お前なんかにどう言われても、どうってことないよ」と思っている相手からでも、また、お世辞だとは百も承知でも、やはり褒められると嫌な気がしないのが、私たちですね。まして、自分の尊敬する方から賛辞を頂けばなおさらです。「よし、もっと頑張ろう!」と元気が出ます。「どんな困難も乗り越えてゆくぞ」と、勇気が湧いてきます。
このように、人から褒められることも凄い元気と勇気の出ることなのですが、親鸞聖人は『正信偈』のここで、
「阿弥陀仏に救われた人は、
大宇宙の仏さま方から、褒められる身になるのだよ」
と、とてつもないことをおっしゃっているのです。「仏さまから褒められるって?どういうこと?」あまりにも日常からかけ離れているのでピンと来ない、という人もあるでしょうが、これは『教行信証信巻』にも、
「金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何ものをか十とする」
〝阿弥陀仏に救われた人は、死んでからではない、現在生きている時に、十の幸せを頂けるのだ〟
とおっしゃっている五番目に、「諸仏称讃の益」を挙げられて、
「大宇宙のすべての仏方に、褒められる幸せを頂けるのだ」
と言われています。その褒め言葉は、『正信偈』に言われている「広大勝解者」「分陀利華」の他にも、お釈迦さまは、
「すなわち我が善き親友なり」
と、「親友」とまでおっしゃってくださり、また「上上人だ」「無上人(最高の人だ)」「妙好人(妙なる好ましい人だ)」「希有人(めったにない、珍しい人だ)」「最勝人(もっとも勝れた人だ)」など、仏さま方から種々の褒め言葉で称讃されるのですから、勇気百倍、生きる力が沸々と湧いてくるのです。

弥陀に救い摂られてからの、あのたくましい親鸞聖人の生きざまは、一体どこから出てくるのだろうか、と首をかしげる人も少なくありませんが、「迷った人間から何を言われても親鸞、眼中にない。大宇宙の仏さまから褒められる身になったのだからなあ」と、「諸仏称讃の益」に生かされている自覚からにちがいありません。

●たくましき生きざま●

親鸞聖人の生涯は、激しいものでした。波瀾万丈という言葉は、聖人の生きざまを表すためにある、と思えるほどです。「たくましき親鸞」といわれるそのご一生には、どんなことがあったのか。弊社のアニメ「世界の光親鸞聖人」全六巻に詳しく描かれていますが、一例を挙げれば、三十五歳の「肉食妻帯」でしょう。
当時の仏教界では、僧侶には固く禁じられていた「戒律」があり、中でも大きな二つが「肉食」と「妻帯」でした。「肉食」とは、生き物の命を奪ってその肉を食べること、「妻帯」は結婚することです。出家した仏弟子たるもの、これを犯してはならない。「肉食妻帯」した者は僧侶ではない。これが伝統的な仏教であったのです。
その戒律を親鸞聖人は公然と破られ、肉食妻帯を断行されました。
当然「あいつは堕落した」「戒律を破った破戒僧だ」と非難の嵐は巻き起ころう。だが、肉食妻帯が十方衆生(全人類)の姿ではないか。仏の慈悲は苦あるものにおいて偏に重し。欲や怒りの煩悩にまみれ、罪の重い者ほど殊に哀れみたもうのが仏さまではないのか。まして本師本仏の阿弥陀仏の救いに、差別があろうか。肉食妻帯の者が助からない仏教が、本当の仏教といえるか。「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」、男も女も、在家も出家の者も、あるがままの姿で救われるのが真実の仏教なのだ。この弥陀の本願真実を明らかにするためならば、どんな嘲笑罵倒も物のかずではない、と御身をもって示された破天荒の言動が、親鸞聖人の肉食妻帯であったのです。
案の定、聖人には、仏教界は無論、一般大衆からも、「あれで僧侶か」「堕落坊主じゃ」「仏教を破壊する悪魔の坊主だ」「仏法の怨敵じゃ」と非難中傷が浴びせられ、八方総攻撃の的となられたのでした。肉食妻帯だけでなく、三十四歳の三大諍論も、三十五歳の越後流刑も、四十過ぎから二十年間の関東ご布教も、八十四には長子善鸞を勘当も、疑謗の嵐の中を、たったお一人突き進まれた方が、親鸞聖人であったのです。
どうしてそんなことができられたのでしょうか。普通なら意気消沈するところ、その勇気はどこから出ているのか。
大宇宙の諸仏方から「親鸞、あなたは広大勝解者だ」「滅多にない白蓮華のような方だ」と称讃されている自覚から、迷った人間のどんな罵倒も聖人には、牛の角に蚊が刺したほどにも思われなかったのでしょう。

●弥陀の本願、聞き開けよ●

では、地獄より行き場のない極悪の私を、弥陀に救い摂られたならば、どうして大宇宙の仏方がかくも褒めて下されるのでしょうか。
諸仏も釈迦も、その使命は、宇宙の真理「因果の道理」を説き、三世因果を教え、「後生の一大事」を知らせて、その後生の一大事解決してくださる方は本師本仏の阿弥陀仏しかないから、
〝阿弥陀仏一仏に向け、本師本仏の阿弥陀仏を信じよ〟と、
「一向専念無量寿仏」
を教え勧めること以外にはありませんでした。その勧めに順って、阿弥陀仏に救われた人は、弥陀の弟子になったともいえる、さすれば大宇宙の仏方にとっては、まさに「我が親しき友」であり、また一切経を身体で読み破った大学者(広大勝解者)であり、それは滅多にない人(分陀利華)だと、褒め讃えてくだされるのです。

褒められたい一杯の私たちが、「仏さまから褒められる身になれるのだよ」と聞けば、早くそうなりたい、と思いますね。
「親鸞と同じように、阿弥陀仏に救われてもらいたい」
これ以外に、『正信偈』を書かれた目的のなかった親鸞聖人が、
「誰でも仏さまから褒められる大変な身になれるのだよ。この親鸞と同じく、諸仏称讃の益をいただける身に早くなってくれよ。それには、如来の弘誓願を聞信すればなれるのだから、片時も急いで、如来の弘誓願を聞信しなさいよ」
と勧めておられるのです。

●聞信●

そこで大事なことは、
「如来の弘誓願を聞信する」ことだとお分かりでしょう。
「如来の弘誓願を聞信すれば、このような身になれるが、
如来の弘誓願を聞信しなければ、こうはならないのだよ。
だから早く、如来の弘誓願を聞信しなさいよ」
ということだからです。
そこで、「如来の弘誓願を聞信する」とはどんなことか、親鸞聖人からお聞きしましょう。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり   (教行信証信巻)

「聞」=「信」ですから、これは、
「『聞』と言うは……」
とは、
「『聞信』とはどんなことかというと」
ということです。
「それは、『仏願の生起本末』をきいて、『疑心有ること無し』となったことを『聞信』というのだ」
と教導されています。

「仏願」とは、阿弥陀仏の本願のことであり、「如来の弘誓願」のこと。
「生起」とは、建てられた、「本末」とは、その一部始終、ということですから、「仏願の生起本末」とは、
「阿弥陀仏は、なぜ本願を建てられたのか。誰のため、何のために、どんな約束をなされているのか。その誓いを果たすために、どのようなご苦労をなされているのか。その結果、どうなったのか。その本から末まで、すべて」
ということです。その「仏願の生起本末」を聞いて、「疑心有ること無し」と疑い晴れたのを、
「如来の弘誓願を聞信する」
というのだ、といわれているお言葉です。

●「疑心」といっても、二つある●

ここで、「疑心」といわれていますが、仏教では「疑心」といっても二つあることを知らねばなりません。すなわち、晴れる疑心と、絶対に無くならない疑心とがあるからです。
絶対晴れない疑心とは、品物を疑ったり他人を疑ったりする心で、煩悩の一種です。例えば、込んでいる電車の中で、変わった動きをしている人を見て、「あの人、私の金を狙っているスリではなかろうか」と疑ったり、「これはダイヤモンドだ、と言われて買ったけど、ホンモノだろうか」とか、「明日の天気は大丈夫だろうか、予報では晴れると言うが、ホントかな」というように、人や物、天気などを疑う心です。このような疑心は、死ぬまでなくなりません。

親鸞聖人がここで「疑心」と言われているのは、それらの疑心とは違います。「仏願の生起本末(如来の弘誓願)」に対する疑心のみを言い、「疑情」とも言われます。「本願疑惑」とか「仏智疑惑」「不定の心」「二心」「三世の業障」とお聖教にあるのも、すべて「仏願の生起本末」を疑う、この心のことです。この疑いこそ、私たちを苦しめる元凶なのです。(詳しくは、「還来生死輪転家 決以疑情為所止」)

この疑心は、一念で無くなります。一念とは、アッという間もない時間の極まり、何兆分の一秒よりも短い時間。その一念で、「仏願の生起本末」に対する疑心が無くなったことを、親鸞聖人は、
「疑心有ること無し」
と言われているのです。

●「有ること無し」と「無し」の違い●

「疑心無し」でなく、「疑心有ること無し」と言われているのは、どういうことでしょうか。実は、「無し」と、「有ること無し」では、意味が異なります。その違いを例えで言いましょう。
どうしてもお金が要ることになったが工面できず、友人に借りに行った。「どうか、百万円、貸してもらえないだろうか」
「百万円?悪いけど、そんなお金無いよ」と、彼は答えた。
この場合、「今は無い」ということで、後日、有るようになるかも知れません。こういうのは、「無い」です。
ところが、次に借りに行ったら、今度は「百万円、有ること無しだよ」と言って断られた。これはもう、いつ借りに行っても「金輪際、無い」ということ。百万円が「有る」ということが「無い」、ということだからです。こうなると、あきらめるしかない。その友人には、何十年経っても、百万円が絶対にないからです。
親鸞聖人が、ここで「疑心有ること無し」と言われているのは、「仏願の生起本末」に対する疑心が、金輪際無くなったことであり、蓮如上人はこれを、『御文章』の至るところで、
「ツユチリ程の疑心も無し」
といわれているのです。
これを「聞」といわれ、同時に「信心決定」とハッキリ救い摂られますから、この時を「聞即信の一念」とか「聞信」と言われているのです。
その身に救い摂られた人は、大宇宙の仏方から、「仏教の大学者じゃ、分陀利華だ」と褒め讃えられる身になれるのだよ、だから早く、「如来の弘誓願に、疑心有ること無し」と疑い晴れるまで、火の中かき分けても聞き抜けよ、と教え勧めておられるお言葉が、
が、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者とのたまい)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)」
の四行なのです。

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