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弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯

0 1月 16th, 2012

弥陀仏本願念仏 弥陀仏の本願念仏は
邪見驕慢悪衆生  邪見驕慢の悪衆生、
信楽受持甚以難  信楽受持すること甚だ以て難し
難中之難無過斯 難の中の難これに過ぎたるは無し

「弥陀仏の本願」とは、
「どんな極悪人も、 平生の一念に、必ず絶対の幸福に救い摂る」
と約束なされている、「阿弥陀仏の本願」のことです。この本願の通りに、「絶対の幸福」に救い摂られて称える念仏を、
「弥陀仏の本願念仏」
と言われています。

弥陀仏の本願に救われたことを、この後に、「信楽受持」とも言われているのです。これを「獲信」とも「信心獲得」とも言われることは重ねてお話ししてきました。
そして、それは大変に難しいことなのだと、
「信楽受持すること、甚だ以って難し」
と仰っています。「甚だ以て難し」とは、非常に難しい、と言うことです。
では、どれほど難しいかというと、次に、
「難の中の難、斯れに過ぎたるはなし」
「斯れ」とは、前の行の「信楽受持」のことですから、
「世の中に難しいことは色々あるけれども、信楽受持(信心獲得)することより難しいことはない」
といわれているお言葉です。

よく浄土真宗では、「他力だから易行じゃ、無条件じゃ、何もせんでいい、そのままのお助けじゃ」と嘯いている人が少なくありませんが、親鸞聖人は、朝晩の『正信偈』に、
「阿弥陀仏に救われることは、極めて難しい。これ以上難しいことはない」
と、常に教えておられます。

では、それはどうしてなのか。なぜ「信心獲得」することが、それほど難しいことになるのか。その理由を前の行の、
「邪見驕慢悪衆生」
「邪見驕慢の悪衆生であるからだ」
明示されているのです。
「悪衆生」とは、「悪い人間」ということですが、普通は「悪い人」というとどんな人のことを思い浮かべるでしょう。強盗殺人、婦女暴行、恐喝や詐欺罪、贈収賄罪……などの犯罪者ではないでしょうか。
だが親鸞聖人がここで「悪い」と言われているのは、そのような「犯罪」のことではありません。
「邪見・驕慢」の者を、「悪衆生」と言われているのです。
そこで、「邪見」「驕慢」とはどんなことか。誰のことなのでしょうか。

●邪見・驕慢●

「邪見」とは、「邪に見る」ことで、「正見」の反対です。
「正見」とは仏教の言葉で、「ありのままに見る」こと。誤魔化さず、偏見のフィルターを通さず、白いものは白、黒いものは黒、四角いものは四角いもの、丸いものは丸いもの、と見る、これを「正見」と言われます。
特に仏教では、「自分の本当の姿を、ありのままに見なさいよ」と教えられているのですが、それが中々できない。正しく見れない。
本師本仏の阿弥陀仏が、私の実態を、
「唯除五逆誹謗正法」
(絶対助かる縁手がかりのない逆謗の屍)
と「正見」されているのに、当の本人は、自分をそんな者だとはとても思えない。

「夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」(御文章)

〝大宇宙の全ての仏方が見捨てて逃げたお前だぞ〟
と教えられても、ピンともカンとも驚かない。
このように、邪な見方しかできず、己の実態をまったく知らないのを「邪見」と言われ、だから「なんとかすればなんとかなれる」と自惚れているのを「驕慢」の者と言われているのです。

「然れば、爰に弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり」(御文章)

〝諸仏に見捨てられた極悪の私を、「われ一人助けるぞ」と立ち上がられた阿弥陀如来が、一劫でなし、二劫でなし、五劫もの間、考えに考え抜かれて本願を建てられ、本願どおりに救うために、兆載永劫の気の遠くなるような長い間ご苦労なされて、『南無阿弥陀仏』を成就して下されたのだぞ〟
と聞かされても、千円もらった程も有り難いとは思わない。
この仏智の不思議を計らい、拒否しているのを「邪見驕慢」と言うのです。
このように、後生の一大事、自分の力で何とかすれば何とかなれるという自惚れ心が、腹底にドーンとあって動かない。弥陀の五劫思惟に反抗して、オレはそんな腑抜けでない、と思っているのだから、弥陀の本願に相応しないことを聖人は、
「邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯」
〝古今東西の全人類は、邪見驕慢の悪衆生であるから、
弥陀の本願に救い摂られることが、甚だ難しいのだ。
難しいことは色々あるけれども、信心獲得することほど難しいことは、大宇宙にないのだよ〟
と『正信偈』に朝晩、教えておられるのです。
私が邪見驕慢の親玉でございましたと、如来の御前に五体投地するのは、地獄一定の実機が仏智不思議に生かされた、不可称不可説不可思議の時です。
そこまでひたすらに自己を凝視して求め抜きなさいよ、と言われている親鸞聖人のお言葉です。

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