『正信偈』の初めの二行、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
について繰り返しお話しをしておりますので、
「早く次に進んでもらえないかな」
と思われる人もあるかも知れません。
が、この初めの二行に、『正信偈』はすべて納まっていますので、
くどいようですが、重ねてお話しさせて頂いていることを、了解して
頂きたいと思います。
つまり親鸞聖人の教えのすべてが凝縮されて いる、初めの二行ですから、
その真意が分からなかったり、誤解していますと、
この後のお言葉の御心も、親鸞聖人の教え全体も、まったく分からなくなって
しまう、ということです。
具体的には、この二行は、
「親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ!助けられたぞ!」
という聖人の絶叫ですが、一体、阿弥陀様に、「何を」救われたと言われているのか。
これが分からなければ、この後にどれだけ、
「どうして救われることができたのか」
「救われてどうなったのか」
「どうすれば、救われることができるのか」
ということを『正信偈』に書かれていても、無意味になってしまいますね。
それで先回は、親鸞聖人が「阿弥陀仏に救われた」と言われているのは、
「後生の一大事を救われた」
=「いつ死んでも浄土往生間違いない身に、救い摂られたこと」
であることを、確認しました。
次に、その「浄土往生まちがいない身」に救われるのは、
「死んだ後」のことではない、
「現在ただ今」のことであることを、親鸞聖人は生涯、鮮明にしてゆかれた、
そのことについて、「体失不体失往生の諍論」を通して、お話しいたしましょう。
これは一言で、「弥陀の救いは、死後か、現在か」という、親鸞聖人のなされた
大きな争いです。
「阿弥陀様は死んだら極楽へ助けてくだされるのだ」
と聞き誤っていた人は、今日の浄土真宗の人だけでなく、親鸞聖人当時も、
あったということです。
しかも、同じ法然門下の先輩、後に一宗一派を開く程の学徳のあった俊秀・
善慧房との対立でした。
その発端と結末を次回、詳しく述べたいと思います。