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弥陀の救いはハッキリする

0 10月 9th, 2009

『正信偈』冒頭の、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

の二行は、

「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、

親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ」

と、弥陀に救われたことを告白された、親鸞聖人のお言葉であることを、重ねてお話ししてきましたね。

この二行から、

「弥陀の救いはハッキリする」

ことも分かります。ハッキリしないことを、ハッキリ書かれる親鸞聖人ではないからです。

つまり「弥陀の救い」は、

「阿弥陀仏に救われても、救われたのやら、救われていないのやら、分からない」

とか、

「誰かしっかりした人に『あなたは救われましたよ』と言ってもらわないと安心できない」

とか、

「たぶん、これで助かったのだろう。いやきっとそうにちがいない」

というような、曖昧なものでもなければ、無自覚なものでもない、ということです。

それは、「何を」救われたのか、ということが分かれば、歴然です。

親鸞聖人が、「阿弥陀仏に救われた」と言われているのは、

「後生の一大事を救われた」ということなのです。(前にも少し触れましたね)

「後生の一大事」とは、蓮如上人が、

「後生という事は、ながき世まで地獄におつること
なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとり
て、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべ
し」 (帖外御文)

とおっしゃっている一大事のことであり、弥陀の本願とは、

「すべての人の後生の一大事を解決してみせる」

というお約束であることも、この蓮如上人のお言葉から分かりますね。

仏教は、この「後生の一大事」を知るところから始まり、その解決で終わります。

この「後生の一大事」の重荷を背負って、泣き泣き求めた人に、

その重荷を阿弥陀仏に取って頂いた(後生の一大事を解決して頂いた)、

ということがあるのです。

親鸞聖人『正信偈』冒頭のお言葉は、まさにその「弥陀に救われた」実体験の告白です。

9才で出家されてより20年間、比叡の山で親鸞聖人は、この一大事の解決のために、

血の滲むご修行をなさいました。しかし、天台法華の教えにはかなわぬ自己を知らされ、

泣く泣く下山されたのは29才の御時でした。その親鸞聖人が、弥陀の本願を説かれる

法然上人に会われ、その弥陀の本願力によって「後生の一大事」を解決され、往生一定

の大安心の身に救い摂られたことを、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

と叫ばれているのです。あまりにも明らかな救いであるから、

「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、助けられたぞ」

と繰り返し叫ばずにおれなかったのです。

「阿弥陀様に救われても、そんなにハッキリするもんじゃない」

と言う人は、後生の一大事の重荷に苦しんだこともなければ、それを弥陀に鮮やかに抜き取られた

こともない人であり、仏教の出発点にもたっていない、と言われるのはそのためなのです。

『正信偈』の冒頭二行から、その真意を正しく知るのは大変なことですね。

『正信偈』、初めの二行で分かること。

0 9月 8th, 2009

『正信偈』の初めの二行、

「帰命無量寿如来

南無不可思議光」

は、

「親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ、

親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ」

と、阿弥陀仏に救われたことを告白されている、聖人のお言葉であることをお話ししました。

この、同じことを二回仰っている『正信偈』の冒頭から、私たちはどんなことを知ることができるのでしょうか。

一つは、

「阿弥陀仏に救われるのは、死んでからではない、生きている時である」

ということが分かりますね。

『正信偈』は、親鸞聖人が生きておられるときに書かれたものですし(当然ですよね)、その『正信偈』に救われた、助けられた、といわれているのですから、

「阿弥陀仏に救われた」ということが、「生きている時」にある、ということです。

そして二つには、

「阿弥陀仏に救われたことは、繰り返し言わずにおれないほどのものである」

ということも、分かります。

そのような「阿弥陀仏の救い」であることを、親鸞聖人は、朝晩、お勤めの時に教えておられるのですね。

意味をかみしめて、心静かに、拝読させて頂きたいと思います。

親鸞会で正信偈について学ぶ

0 6月 30th, 2009

親鸞会では月一度、親鸞会館という仏法を聞くための会場で正信偈についてのお話があります。
この前聞かせてもらった内容は正信偈の「已能雖破無明闇」についてでした。
とても全て書くことが出来ませんので、今日は煩悩と無明の闇について書きたいと思います。
煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、全部で108つあります。
特に恐ろしいものが3つあって、これを三毒の煩悩といいます。
三毒の煩悩とは、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の3つです。
貪欲とはいわゆる欲のこころで、なければないで欲しい欲しい、あればあったで欲しい欲しいという心です。
我ながら、欲の心は浅ましいなと思います。
もっと他人にゆずってあげれれば相手の方にも喜んでいただけるし、自分も気持ちいいのに、ついつい、それは私の!とか、その人じゃなくと私の方を褒めて!とか、そういう心が出てきては、小さいことにクヨクヨしたり意地を張っているなと思います。
また、うまくいかないと腹が立ちます。
この腹立つ心のことを仏教で瞋恚というのです。
これももっと寛容な大人になりたいと思うのですが、カチンとくると、もうムカムカしてしまうんですよね。
皺も増えるし、精神衛生上もよくないと思うのですが、これがなかなか・・・
愚痴とは怨み、呪いの心。
またねたみ、そなみの心です。
他人の幸福を素直に喜べない心があります。
他人が褒められると、すごい!とか口では言うのですが、私だって頑張ってるのに、あの子ばっかりずるい、あの子のほうが若くて可愛いから評価が高いだけで、仕事の中身でいえば私のほうが・・とかみっともないことを思っちゃうんですよね。
こういったものが煩悩で、人はみな煩悩のかたまりだと仏教で教えられるんです。
正信偈に出ている「無明の闇」とは煩悩とは違うものなんですね。
正信偈に書かれている「無明」とはどういうことかを知っていただくには、この煩悩の違いを知ることが大事なので、まず煩悩から書きましたが、次回に親鸞と無明の闇については書きたいと思います。

弥陀の救い

0 6月 18th, 2009

正信偈の冒頭に「帰命無量寿如來南無不可思議光」とあるように、全く同じことを二度繰り返しているというのは、親鸞聖人が言っても言っても言い足りない、書いても書いても書き足らない喜びの無限の波動をあらわしているのです。

親鸞聖人が繰り返して生命の歓喜を叫ばずにおられなかった弥陀の救いというのはどんなものなのでしょうか?!
正信偈最初の二行で生きている今、弥陀に救われたということがある、そしてそれはハッキリする、ということが分かります。

親鸞聖人が「阿弥陀如来に救われたと」と言われているのは言葉を変えていうと「人生の目的が完成した」ということなのだそうです。
人は何のために生まれてくるのか?なぜ生きているのか?どうして自殺をしてはいけないのか?その答えがハッキリし、人生の目的を達成されたことだと教えてもらいました。

本当の人生の目的を知って、それを完成させ「人間に生まれてよかった」と本当の幸福になるために生きている・・・・。
素晴らしいことですね。

真の人生の目的を達成された喜びが、正信偈の最初の二行に書かれているわけですが、
その人生の目的を、歎異抄では「摂取不捨の利益」を獲ること「無碍の一道」へ出ることだと書かれています。
この「摂取不捨の利益」も「無碍の一道」も今の日本語でいいかえれば「絶対の幸福」ということになり、どんなことにも絶対に壊れない、崩れない無上の幸せのことです。

次回は、親鸞会で聞かせてもらったことについて調べていきたいと思います。

正信偈の「如来所以興出世唯説弥陀本願海」とは

0 5月 27th, 2009

今回は正信偈に出てくる如来所以興出世唯説弥陀本願海についてお話したいと思います。
正信偈というのは、親鸞聖人の「教行信証」の6巻すべての内容を大切な教えだけを凝縮し抜粋したものなのです
そして、正信偈の冒頭は歎異抄の冒頭にもあるように親鸞聖人自らの阿弥陀仏に救われたことが書かれてあります。

そんな正信偈ですが、冒頭ばかりを調べるのではなく今回は「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」の2行について調べていきたいと思います。

如来、世に興出したもう所以は、唯弥陀の本願海を説かんがためなりと読みます。
まず最初の一行から説明いたしましょう。

如来とは、釈迦如来、お釈迦さまのことです。

お釈迦さまがこの世、この地球上に、興出、生まれでられた、所以、目的は、こらが最初の一行です。
ですからこの正信偈の一行の意味は

「お釈迦さまがこの地球上に現れられた目的は」ということです。
お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、と言い換えてもいいでしょう。

唯説弥陀本願海の唯説とは、唯一つのことを説かれたのだ、という意味です。
お釈迦さまは45年間仏教を説かれていますし、その教えは7000冊以上のお経として書き残されていますのでたくさんのことを教えられているのだろうと普通思われると思いますが、お釈迦さまは唯一つのことを教えられたのです。

ではお釈迦さまが教えられたただ一つのこととは何でしょう?
親鸞聖人は正信偈に「それは弥陀の本願である」と書かれています。

お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、ただ弥陀の本願一つを説かれるためであったと親鸞聖人は正信偈に断言しておられるのです。

これはお釈迦さまが説かれた7000冊以上ものお経を全部読んで理解しないと言えないスゴイ言葉なのです。

このようなことを親鸞会というところで教えてもらうことができるそうなので近々おとづれたいと思います。

正信偈「後生の一大事」

0 5月 14th, 2009

正信偈の冒頭の二行で親鸞聖人が阿弥陀如来に救われた喜びを告白しておられると前回もお話しました。
御文章にも似たようなことがかいてありますが、これは有名な歎異抄の冒頭にある「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と同じこととを意味しています。

しかし、正信偈で親鸞聖人は阿弥陀仏に何をたすけられたといっておられるのでしょうか?!
正信偈で救われたといわれているのは、「後生の一大事」を救われた、助けられたと言われているのです。

仏教はこの「後生の一大事」を知るところからはじまり、「後生の一大事」の解決でおわります。
なので、後生の一大事について知っておかなければ仏法は何十年、何百年聞いても分かるものでもなく、親鸞聖人の正信偈を一行も正しく読むことはできないのです。

では、後生の一大事とはどのようなことをいうのでしょうか?
「後生」は一息いれたら後生です。
仏教とかお経と聞くとどうしても「年をとってから聞けばいい」とか「若いから必要ない」という人が多いですがこれは、後生は遠い先の話で自分には関係がないと思っているからだと思います。

まさか!なんてことは突然やってきます。
心臓麻痺や脳梗塞などでいつ自分の吸った息が吐き出せなくなるか分かりませんが、その時から後生になるのです。
人生80年といわれ平均寿命は伸びましたが、いくら寿命が延びたからといっても死なないわけではありません。
いずれ必ずやってくるのが後生なのです。

後生とは無縁の人はこの世に1人としていないのです。

正信偈の平生業成

0 4月 27th, 2009

今まで正信偈についてお話してきました。
正信偈とは正しい信心を歌の形で明らかにしたお聖教です。
※お聖教とは仏教(浄土真宗)の書物のことを言います。

正信偈の冒頭の「帰命無量寿如来、南無不可思議光」は「阿弥陀如来に親鸞救われたぞ!阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」との親鸞聖人の喜びの言葉です。

阿弥陀如来のお力によって絶対の幸福に救いとられた親鸞聖人は弥陀の救いは死んでからではなく現在(生きている間)であることを教えていかれました。
ですから親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」なのです。

平生とは生きている時のことです。
仏教と聞くと、どうしても死後の世界を想像するかも知れませんが、親鸞聖人は「平生というのは死後のことではないですよ!仏教は生きているときが勝負なのです」と生涯平生の救いを強調していかれたのです。

平生業成の「業」とは人生の大事業のことを意味し。
これは会社のプロジェクトのことではありません。
1人1人の人生の大事業であり、人生の目的のことです。

何のために生きているのか?
何のためにうまれてきたのか?
何のために生きているのか?
すべての人にとって最も大事なこの人生の目的を親鸞聖人は業という一文字で表しておられます。

平生業成の「成」は達成、完成、ということで正しい信心には卒業があるということを意味しています。

平生業成とは、「平生ただ今、人生の目的が完成する。だから早く達成せよ」と親鸞聖人が生涯叫び教え続けていかれことを漢字四文字であらわされたものなのです。

ただ1つの正しい信心

0 4月 4th, 2009

正信偈の「正」という文字は一に止まると書きます。
これは、正しいものは二つも三つもなく一つしかないということを言っています。
この一つの正しい信心を親鸞聖人が明らかにしたのが「正信偈」なのです。

だったら自分がいいと思ったものを信じて生きればいいと親鸞聖人が言われているのではありません。
正しい信心があるということは、迷信や邪信や偽信といったような正しくない信心があるといういうことで、そんなものを信じていても決して幸せにはなれませんよと教えておられるのです。
間違った信心はいずれ必ず崩れてしまうからです。

そして、1日も早く正しい信心・真実の信心を獲得し絶対の幸福に救われてくださいと伝え続けていかれたのが親鸞聖人であり、その正しい信心を明らかにしているのが正信偈なのです。

「帰命無量寿如来、南無不可思議光」で始まる正信偈ですが、これは親鸞聖人が阿弥陀仏に救われたこと、そして親鸞聖人が弥陀によって助けられたといういことを2度繰り返して言っていることを正信偈では述べているのです。

なぜ同じような内容を繰り返し言っているのか?と不思議になるのは当然ですよね?!
これらすべては親鸞聖人が弥陀の教えを聞くことができたことに、無限の喜びを表していいるのです。
この無限の喜びを表した親鸞聖人は正信偈の最後に「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」と締めくくっています。
これは「皆さん親鸞とともに同じ心になって下さい。そのためにはこの高僧(親鸞聖人が尊敬している七高僧のこと)の説をただ信じることが1つの道ですよ」と言っているのです。

浄土真宗の内容としては、信心こそが浄土往生の正因であり、念仏を称えることは報恩・礼であると教えられています。
そして、正信偈の中にはインドや中国や日本で正しく弥陀の教えを広く伝えた七人の高僧方の業績・徳を讃嘆しておられるのです。

正信偈・冒頭の二行②

0 3月 28th, 2009

正信偈の最初の二行について書いています。
正信偈の最初の二行は

「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

で書き起こされています。
前回は、無量寿如来と不可思議光について書きました。
無量寿如来も不可思議光もともに阿弥陀如来のことなんですね。

今日は、帰命と南無についてです。
帰命とは中国の昔のことば、南無はインドの昔のことばです。

仏教はお釈迦さまがインドで説かれ、それが中国に伝わり、朝鮮半島を経て日本に伝わってきましたので、よくインドの言葉や中国の言葉が使われます。

では、帰命、南無とはどういう意味かといいますと、御文章という仏教書には「南無というは帰命なり」と書かれてありますように、帰命も南無も同じ意味で、ともに、救われた、助けられた、という意味なのです。

ですから正信偈冒頭の二行は、「親鸞、阿弥陀仏に救われた。親鸞、阿弥陀仏に助けられた」

という意味になります。
どこにも「親鸞」とはありませんが、これは向かいのおじさんのことを親鸞聖人書かれたものでもありませんし、隣のお嫁さんのことを言われたものでもなく、親鸞聖人ご自身のことを書かれたものなのです。

正信偈・冒頭の二行

0 3月 5th, 2009

正信偈の最初の二行について簡単に意味を説明しましょう。
正信偈最初の二行は「帰命無量寿如来南無不可思議光」と書かれています。

これは、「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」と読みます。

無量寿如来とは、阿弥陀如来の別名です。
不可思議光とは、不可思議光如来を略したもので、これも阿弥陀如来の別名です。

釈迦如来と阿弥陀如来は、同じ仏さまだろう、他にも大日如来とか薬師如来とかいわれる仏さまもおられるが、レッテルが違うだけで結局同じなのだろうと思っている人が多くあるようです。
しかし、釈迦如来と阿弥陀如来はまったく違う仏さまです。

蓮如上人の書かれた御文章という有名な仏教の本には「阿弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり」ということが書かれてあります。
この地球上の仏さまはお釈迦さま一仏ですが、大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、そこに仏さまが現れておられますから、数え切れないほどの仏が大宇宙におられ、これらの仏を十方諸仏とお釈迦さまは教えておられます。

お釈迦さまをはじめとした大宇宙の仏さまの先生が阿弥陀如来という仏さまなのです。

その阿弥陀如来のことを正信偈では無量寿如来・不可思議光といわれているのです。

次回は南無、帰命とはどういう意味なのか、次回書きたいと思います。