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凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

0 6月 3rd, 2011

凡聖逆謗斉廻入 凡聖逆謗、斉しく廻入すれば、
如衆水入海一味 衆水の海に入りて一味なるが如し

自由と平等。この二つは、古今の人類が希求してやまぬ究極の理想でしょう。だが実際は、自由を追及すれば不平等になり、平等を徹底すると不自由を強いられる。
小学校の駆けっこでは、「順位をつけない」ことで「平等性」を保とうと試みられていますが、自由な競争心を失わせ活力を奪うと懸念する声もあります。また、私有財産を禁じ完全平等を目指すはずの共産主義国家で、貧困にあえぐ民衆をはた目に、独裁統治者や一部の特権階級が富を独占し豪奢に暮らす、いわば「超格差社会」が出現しやすい事実は、いかに「平等」が実現困難か示しているといえるでしょう。
考えてみれば、生まれもっての能力や家柄、国籍、肌の色、男女の違いや容姿のよしあし、学問や経験の浅深など、あらゆることが十人十色、千差万別で、一人も同じ人はありません。現在、地球上に六十数億の人がいるといわれますが、それらのことはみな異なります。いわゆる「差別」は、紛れもない現実です。
そんな中、すべての人が真の平等になれる、驚くべき世界の厳存を喝破されている親鸞聖人のお言葉が、
「凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
の二行なのです。

●「凡聖逆謗」=「すべての人」●

「凡・聖・逆・謗」の「凡」は凡夫、「聖」は聖人(といっても親鸞聖人のことではありません。後述します)、「逆」は五逆罪の人、「謗」は謗法罪の人。この「凡・聖・逆・謗」で、「すべての人」ということです。何十億の人がいても、「凡・聖・逆・謗」の中に入らない人は、一人もいません。

そこでまず「凡夫」について、親鸞聖人の解説をお聞きしましょう。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)

〝凡夫というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりである。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない〟
「欲も多く」とは、あれが欲しい、これも欲しい、金が欲しい、恋人が欲しい、尊敬されたい、才能や努力を認められたい、若く見られたい、キレイと言われたい、まだ足らん、もっと欲しいと、際限もなく求める欲の心で、朝から晩まで振り回されていることです。聖人ご自身、

「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」
(教行信証)

〝何と情けないことか、男女の欲や人間の好き嫌い(愛欲)の広い海に沈み切っている、先生と呼ばれたい、悪口言われたくない名誉欲と、一円でも金が欲しい利益欲が、大きな山ほどあって迷惑している〟
と告白されています。
「瞋り腹立ち」とは、それら欲の心が邪魔されてカーッと腹が立つ心。ひとたび怒りの炎が燃え上がると、相手が親だろうが親友だろうが恩師だろうが、思ってはならないことを思い、言ってはならないことを言う、やってはならないことをやる。後先考えずに八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。
「そねみねたむ心」は、仏教では愚痴といわれ、宇宙の真理である「因果の道理」が分からぬバカな心をいいます。不幸や災難に遭うと「あいつのせいだ」「こいつが悪い」と他人を怨み憎しみ、ライバルの成功や隣家の新築を見てはねたみそねむ、醜い心です。
これら欲や怒り・ねたみそねみの煩悩が、「身にみちみちて」いるのが「凡夫」である、と言われているのですが、そう聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょう。多くの人が想像するのは、大体こんな感じではないでしょうか。
「私という器があって、その中に汚い煩悩が入っている。まあ七割か、多くても八割ぐらいだろう。残りの二割が、理性とか真心とか愛とか、なにか煩悩以外のピュアなものにちがいない」
親鸞聖人が「身にみちみちて」と言われているのは、そんなことではない。煩悩以外に何もない、百パーセント煩悩。これを「煩悩具足」ともいわれます。「具足」とは、「それによってできている」ことで、例えば「雪だるま」は「雪具足」といえるでしょう。雪だるまから雪を取ったら、何もなくなるからです。といっても厳密に言えば、目や鼻に使った木炭やニンジンは残りますから、完全な「雪具足」ではありませんね。
「煩悩具足」とは、「煩悩の塊」のことで、我々から煩悩を取ったら、まさにゼロになる、何もなくなる。これを「凡夫」と親鸞聖人は、言われているのです。

次に「聖」とは「聖人」のこと。欲や怒り・ねたみそねみなどの煩悩が、凡夫ほどには荒っぽくない人。ある程度はコントロールできる人。ですから、「愛欲と名利に朝から晩まで振り回されている親鸞だ」と懺悔されている、親鸞聖人ご自身のことを仰ったのではありません。相当高いさとりを開いている人のことを、「聖」と言われているのです。

「逆」は「五逆罪を造っている人」。「五逆罪」とは、「五つの恐ろしい罪」をいいます。中でも初めに挙げられているのが、「親殺し」の罪です。包丁で刺したり、寝室に忍び込んで絞殺するなど、子が親を殺す事件が絶えません。これら「親殺し」など五つの罪のうち、一つ犯しても「五逆罪」であり、もっとも苦しみの激しい無間地獄へ堕ちる「無間業」と教えられています。その五逆の罪人を「逆」と言われています。

「謗」は、「謗法罪を造っている人」のことで、親鸞聖人は、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」(末灯鈔)
と仰っています。「謗法罪」とは、真実の仏法を謗ったり非難する罪をいいます。大恩ある親を殺す五逆罪も大変恐ろしい罪ですが、最も恐ろしいのが仏法を謗る罪であり、「無間業」と教えられている。それは、すべての人が救われるたった一本の道である仏法をぶち壊し、幾億兆の人を地獄へ堕とすことになるからです。

この「凡・聖・逆・謗」で「すべての人」、「どんな人も」ということであり、この中に入らぬ人は一人もありません。

●弥陀に救われたら、どうなるのか●

次に「斉しく廻入すれば」の「廻入」とは、「廻心帰入」を略した言葉です。「廻心」とは「心が廻る」と書くように、心がガラーっと百八十度変わってしまうこと、「帰入」は、阿弥陀仏の誓願に救われたことをいわれます。
阿弥陀仏は、「すべての人を、必ず極楽浄土に生まれられる身に救う」という超世の大願をおこされています。この「弥陀の誓願不思議」に助けられたならば、
「死んだらどうなるのか後生不安な心」が、「いつ死んでも必ず浄土へ往ける大安心」に、
「何のために生きているのか分からない」暗い心が、「人間に生まれたのはこれ一つのためだった」と明るい心に、生まれ変わる。
永久の闇より救われて、苦悩渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じ変わってしまう。
弥陀に救われる前と、救われた後とでは、このように心がガラーっと変わり果てますから、弥陀に救い摂られたことを「廻心」といい、『正信偈』には「廻入」といわれているのです。

しかもその「弥陀の救い」は、「一念」であることを親鸞聖人は、

一念とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す   (教行信証)

と説示されています。「信楽開発」とは、〝後生不安な心〟が晴れ渡り、〝必ず浄土へ往ける〟大満足がおきたこと。その弥陀の救いの速さを「一念」という、と言われているお言葉です。

凡夫も、聖人も、五逆の罪人も、謗法の者も、どんな人も一念で阿弥陀仏に救い摂られたならば(凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すれば)、どうなるのか。
「一味になる。それはちょうど、世界中の川の水が、海に流れ込むと、同じ塩辛い一つの味なるようなものだ」
と、例えで教えられているのが、次の、
「衆水の海に入りて一味なるが如し」
です。
「衆水」とは、色々の川の水のこと。日本にも、世界にも、沢山の河がありますが、どの川の水も、海へ、海へと向かって流れています。大河も小川も、綺麗な川の水も汚い川の水も、万川の水がやがて必ず海に辿り着くことを、「衆水が、海に入る」と言われ、海に流れ込んだならば、同じ塩辛い味になることを、「一味になる」と表現されています。
海は、圧倒的に広くて大きいですから、どんな川の水も受け入れて、海に入れば一つの味になる。そのように、
「阿弥陀仏に救い摂られたならば、ノーベル平和賞をもらった人も、凶悪殺人犯も、才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ」
と、驚くべき世界を喝破されているのが、
「凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
の二行なのです。

「そんな世界、とても想像できない」
と、みなびっくりするのも無理もありません。このお言葉の真意を知るのは、実は大変なことで、ちょっとやそっとで分かるものではない。例えば、こう言われて、ピンとくるでしょうか。
「イチローも、菅直人さんも、レディーガガも、あなたも、弥陀に救われたらならば、全く同じ心の世界に生かされるのですよ」
あまりにも常識からかけ離れていて、「なるほどそうですか」と、簡単に納得できることではありませんね。
そこで聖人は、この不可思議な弥陀の救いをなんとかみんなに知ってもらいたい、早く弥陀の救いに遇ってもらいたいと、同じ法然門下の法友と、大ゲンカまでなされたのが、今日「信心同異の諍論」といわれている論争です。
「阿弥陀仏の救いは、一味平等か、差別があるのか」
で、激しく闘われた親鸞聖人の大喧嘩について、次に詳説いたしましょう。

●信心同異の諍論●

この争いの相手は、聖信房・勢観房・念仏房の三人。みな法然上人のお弟子です。
当時、法然上人は、「智慧第一の法然房」「勢至菩薩の化身」といわれ、日本一の仏教の大学者でした。有名な大原問答は、京都の大原で、各宗派のトップの学者たちを相手にたったお一人で、七千余巻の一切経を縦横無尽に引用して、完膚なきまでに論破なされた大法論です。また主著の『選択本願念仏集』は、当時の仏教界に水爆級の衝撃を与えた事実によっても、いかに法然上人が常人を超えた方であったか、知られるでしょう。
その法然上人には、三百八十余人という多くのお弟子がありました。聖信房・勢観房・念仏房の三人は、中でもトップクラスの俊秀であり、親鸞聖人の先輩でもあったのです。
聖人三十四歳の御時。三人が、「信心」について話し合っているのを耳にされます。アニメ『世界の光・親鸞聖人』第2部で見てみましょう。

念仏房「高弟二人が、何の話かな」
聖信房「今、お師匠さまの信心は凄い。あんな信心にはとても我々はなれんと言っておったのだ」
念仏房「そりゃそうだ。智恵第一のお師匠さまと、同じ信心になれるものか」
勢観房「大原の法論でもそうだった。三百余人の日本中の学者を向こうに回して、たったお一人で打ち破られたお方だからなあ」
念仏房「勢至菩薩の生まれ変わりと、みんなが言うのも当然だ」
聖信房「そんな方の信心と、同じになれないのが当たり前よ」

ここで親鸞聖人が、摩擦を避けて〝見て見ぬふり〟をされたならば、論争は起こらなかったでしょう。後に先輩から疎まれ門内で孤立されることもなかったかもしれません。だが〝極悪の親鸞を、絶対の幸福に救ってくだされた弥陀の厚恩には、身を粉に骨砕きても報いずにおれない〟と、燃える「恩徳讃」に生き抜かれる聖人には、弥陀の本願の聞き誤りを、看過することはできなかったのです。

親鸞聖人「少し、よろしいでしょうか」
念仏房「何だ、親鸞か」
親鸞聖人「今、お師匠さまの信心と、同じになれるはずがないと、おっしゃっておられたようですが」
聖信房「いかにも」
親鸞聖人「それは親鸞、納得できません」
念仏房「そなたはいつも先輩の言うことにケチをつける人だなあ。善恵房殿の時もそうだった。そんなことでは、みんなから嫌われるだけだぞ」
親鸞聖人「先輩方には、申し訳ありませんが、親鸞の信心は、お師匠さまの信心と、まったく同じでございます」
三人「なっ、何ーっ!」
念仏房  「何ということを親鸞!お師匠さまを冒涜するにもほどがある。聞き捨てならんぞ」

かくして、「信心が同じくなれるか、なれないか」で意見が対立した論争なので、「信心同異の諍論」と伝えられています。

●師への深い尊敬●

親鸞聖人が、法然上人をいかに尊敬されていたかは、有名な『歎異抄』第二章の、

「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」

〝たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちても、親鸞なんの後悔もないのだ〟
という宣言や、また、「救われたのは、まったく阿弥陀仏のお力によってであった」と感泣されている聖人が、

「昿劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし」

〝親鸞、法然上人に救われた〟
とまで言われている『ご和讃』からも窺えます。聖人にとって法然上人は、まさに〝いのち〟であったにちがいありません。その聖人が、
「親鸞の信心は、法然上人の信心とまったく変わるところはありません。同じです」
と、何の躊躇もなく確言されていることには、聖信房・勢観房・念仏房ならずとも、だれもが驚くのではないでしょうか。
「お前、何様のつもりだ。自惚れるな」
「法然上人をどんな方だと心得る。弟子としてあるまじきことだ」
と、激しく非難した三人の気持ちも、常識からは当然といえるでしょう。
この三人も、ただの人ではありませんでした。法然上人から親しく教えを受け、皆さんに伝えることを使命としていた仏教の専門家です。しかも、その法然門下三百八十余名の中でも高弟と目され、お師匠さまへの尊敬の深さは一方ならぬものでした。だからこそ、親鸞聖人の、
「私の信心は、法然上人と同じです」の発言にいきり立ち、
「同じになれるはずがない。撤回せよ」と迫ったのです。法然上人を尊敬していない三人なら、こんな反応はありえないでしょう。また学問や理屈で分かることなら、優秀な人たちが間違えるはずもありません。

●法然上人のご裁断●

どれだけ論じても埒が明かないと見て三人は、法然上人をお呼びし、ご裁断を仰ぐことになりました。その時の〝判決文〟ともいえる上人のお言葉が残っています。

「信心のかわると申すは自力の信にとりての事なり、すなわち智慧各別なるが故に信また各別なり。他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心もさらにかわるべからず、ただ一なり。我が賢くて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々はわが参らん浄土へはよも参りたまわじ、よくよく心得らるべき事なり」(御伝鈔)

これも分かりやすく描かれた、アニメで見てみましょう。

法然上人「そなたたちは、私の信心と、異なると言ったのだな」
三人「そのとおりでございます」
法然上人「皆、よく聞きなさい。信心が異なるというのは、自力の信心であるからだ」
三人「えーっ!」
法然上人 「自力の信心は、智恵や学問や経験や才能で作り上げたもの。その智恵や学問や経験や才能は、一人一人異なるから、自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ」
勢観房「異なるのは、自力の信心か……」
法然上人「他力の信心は、阿弥陀如来からともに賜る信心だから、誰が受け取っても皆、同じ信心になるのである」
聖信房「他力の信心は同じになる……」
法然上人「それ故に、阿弥陀如来から賜った私の信心も、親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。まったく同じになるのだよ」
念仏房「それでは、親鸞の言うことが正しかったのか……」
法然上人「いいですか。この法然と異なる信心の者は、私の往く極楽浄土へは往けませんよ。心しておきなさい」
三人「はあっ」
念仏房「おのれ、親鸞。よくもお師匠さまの前で恥を……」

こうして、彼ら高弟の誤りを正された親鸞聖人は、いよいよ孤立していかれました。今日「信心同異の諍論」と伝えられるこの論争は、『歎異抄』後序にも記されています。

●一味平等の救いを鮮明に●

これは決して、「愚かな人たちが、うっかり誤った」という程度のものではないのです。何億兆年と迷い続けてきた我々一人一人の魂にかかわる、根深い重大な問題を孕んでいることを忘れてはなりません。
では、聖信房・勢観房・念仏房の三人が、
「法然上人の信心と同じになれなくて当然」
と間違った原因はどこにあるのか。
「信心」といえば、「智恵や学問、才能、経験」で作り上げたものしか知らなかったところにあります。これらは一人一人異なるものであり、法然上人はその智慧才覚が卓越しておられたから「信心も異なって当然」、と結論したのです。
「信心が異なる」とはどんなことか、次のような小話が理解の助けになるでしょうか。

◇ ◇ ◇

昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、同宿して争っていました。
「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」
と、高山の男は言う。
「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。この目でいつも見ていることだ」
と、一歩も引かないのは大島の男。そこへ宿屋の主人がやって来て、
「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。太陽は屋根から出て屋根へ入るもの」
と笑ったといいます。

◇ ◇ ◇

太陽が三つあるわけではありません。一つなのですが、住む場所の違いによって、その見え方が三者三様、異なっていたために、意見の食い違いが起きた、ということです。
同じ時計の音でも、金まわりのいい人には、
「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」
と聞こえるそうですが、借金に追われている者には、
「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」
と時計までが催促するといいます。
一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、各人各別の智恵や才能、経験で固めた「自力の信心」は、異なるのが特徴です。
それに対して「他力の信心」は、智恵や才能、学問や経験、善人悪人などとは関係なく、阿弥陀仏から賜る信心だから、誰が受け取ってもまったく同じになるのです。
テレビ局が同じなら、各家庭のテレビが、大・小、新・旧、異なっても、放送内容が変わるはずがない、のに例えられるでしょう。あるいは、同じ日本銀行発行の一万円札ならば、金襴・革・布、どんな素材の財布に入っていても、同じく一万円の値があるようなもの、と言えば分かりやすいでしょうか。
「慈悲平等の、仏から賜った信心に、相違があろうはずがない。法然の信心も親鸞の信心も、ともに他力の信心、まったく違いはない。同じである」
誤りやすいところを法然上人は懇ろに糾され、この一味平等の絶対の救いを親鸞聖人は『正信偈』に、
「凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味」
と鮮明にされて、〝片時も急いで弥陀の救いにあってくれよ〟と念じておられるのです。

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

0 5月 11th, 2011

「能く」とは、「阿弥陀如来のお力によって」ということ。
「弥陀のお力」のことを、仏教で「他力」といわれます。

●「他力」って何のこと?●

この「他力」という言葉も、世間では誤用されている仏語(仏教の言葉)の一つですね。いわゆる「他人のフンドシで相撲を取る」式の理解をして、「自分以外の人や物の力」という意味で使われています。
例えばプロ野球ペナントレースの終盤、首位チームにマジックが点灯。二位チームが全勝してもリーグ優勝できないケースになると、「これで二位ドラゴンズの自力優勝は消えた。巨人が負けるのを待つ、他力本願しかない」などと言う。あるいは「太陽がなければ我々は生きていけない。空気や水がなくても死んでしまう。これら、他力のおかげさまで、生かされているのだ」などとも使う。
「他力」とはしかし、そんな「他人の力」とか「自然の力」という意味ではありません。語源は仏教ですから、仏教の意味で正しく使用されねばなりません。
仏教で「他力」とは、阿弥陀仏のお力のことをいわれるのだと、親鸞聖人は、こう明言されています。

「『他力』と言うは如来の本願力なり」(教行信証行巻)

ここで「如来」といわれているのは、阿弥陀如来のこと。「阿弥陀仏」「弥陀」ともいわれ、大宇宙に無数にまします仏方(十方諸仏)の、先生の仏さま(本師本仏)であると、お釈迦さまはおっしゃっています。「本願」とは「誓願」ともいわれ、〝誓い〟のことですから、分かりやすく言うと「約束」ということ。ゆえに「如来の本願」とは、「阿弥陀如来のなされているお約束」のことであり、その本願のお力のみを「他力」というのだ、と聖人は教えられているのです。

●本願の信楽=一念喜愛心=他力の信心●

では阿弥陀如来は、誰と、どんな約束をなされているのでしょうか。「如来の本願力」とは、どんなお力のことでしょうか。
弥陀の本願は、一言で言うと、
「すべての人を、必ず信楽に救う」
というお約束です。
私たちが生まれてきた目的、生きている目的は、
「阿弥陀仏に救われること」
です。その「阿弥陀仏の誓い」は「信楽にする」というお約束ですから、私たちの人生の目的は、「信楽の身になること」なのです。いかに、「信楽」とはどんなことか知ることが大切か、お分かりになるでしょう。
そこで、この「信楽」とはどんなことか、蓮如上人は分かりやすく、『聖人一流』の御文章に、

「往生は治定せしめたまう」

と言われています。「往生」とは、「阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、仏に生まれる」こと、「治定」はハッキリしたこと。これを「往生治定」とも「往生一定」とも言われます。弥陀が、
「すべての人を、必ず信楽にする」
と誓われている「信楽」とは、この「往生一定の決定心」をいうのです。いつ、どこで、どんな死に方をしても〝必ず浄土へ往ける〟大安心・大満足のことであり、今日の言葉で「絶対の幸福」といえましょう。親鸞聖人はこの本願の「信楽」を、『正信偈』のここでは、
「一念喜愛心」
と言われ、これは全く「他力(=阿弥陀如来の本願力=能)」によって賜る(発される)心であるから、
「能発一念喜愛心(能く一念喜愛心を発す)」
〝阿弥陀仏のお力によって、往生一定の身に救い摂られるのだ〟
と言われているのです。蓮如上人も同じく「聖人一流の章」に、

「不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう」

〝阿弥陀仏の不可思議の本願力によって、往生治定とハッキリするのだ〟
と、『正信偈』と一貫していることが分かりますね。

●救われたら、欲や怒りの煩悩はどうなる●

では、弥陀に救われたら、煩悩はどうなるのか。次に、
「不断煩悩得涅槃」
と言われています。まず
「不断煩悩(煩悩を断ぜずして)」
とは、
「煩悩は減りもしなければ増えもしない、無くもならないままで」
ということ。一言で、
「煩悩は全く変わらないで」
ということです。

「煩悩」とは、私たちを「煩わせ悩ませるもの」と書き、仏教では、全部で百八あると教えられています。中でも大きなものが三つあり、三毒の煩悩と言われているのが、「貪欲、瞋恚、愚痴」の三つ。
「貪欲」とは、無ければ無いで欲しい、あればあったでもっと欲しいと際限もなく求める心です。その欲の心が妨げられて腹が立つ心が「瞋恚」、怒りの心。カーッと腹が立つと、「えーい、こんな奴、死んでしまえ」とさえ思います。怒りをぶつけられない相手には、ウラミ、ネタミ、ソネミの心がとぐろを巻く。これが「愚痴」です。毎日の暮らしの中で、こんな心にどれだけ私たちは煩わされ、悩まされていることでしょう。
人間は、これら欲や怒り・ネタミソネミの煩悩の塊であることを、仏教では「煩悩具足の凡夫」といわれます。「具足」とは「それでできている」ことですから、「煩悩具足」とは、人間は「煩悩によってできている」「百八の煩悩の塊である」ということです。
それら欲や怒りの煩悩は、阿弥陀仏に救われても全く変わらない、と言われているのが、「不断煩悩」の四字なのですが、そんなことを簡単に信じられるでしょうか。「弥陀に救われたら、少しは煩悩が減るのではないか。欲もあまり出なくなるだろうし、そんなに腹も立たんようになるだろう」とは思っていないでしょうか。それどころか、「仏教を聞いても欲や怒りの心が少しも減らないなら、聞く意味がないじゃないか」、これが常識的な仏教観でしょう。
ところが親鸞聖人は、
「阿弥陀仏のお力によって絶対の幸福に救われても、煩悩は減りもしなければ無くもならないのだ」
と、驚くべきことを喝破されているのです。こうも言われています。

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)

〝人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりである。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にない〟
「臨終の一念に至るまで」とは、「死ぬ瞬間まで」ということですから、「阿弥陀仏に救われても、煩悩はまったく変わらない」の断言です。これを『正信偈』には「不断煩悩」と言われ、次に、
「得涅槃(涅槃を得)」
と言われているのは、
「『弥陀の浄土へ往って、仏になれる身』になれる」
ということです。

ところがこのような「不断煩悩得涅槃」というお言葉をちょっと聞くと、これまた多くの人が、
「死ねば誰でも極楽浄土へ往けるということか」
「みんな死んだら極楽、死んだら仏」
と誤解する。それで親鸞聖人は、
「それは間違いだ。誰でも彼でも極楽へ往けるのではないのだよ」
と、前の行に、
「能発一念喜愛心」
〝阿弥陀仏のお力によって、現在ただ今、救い摂られたならば〟
と念を押されて、
「現在、阿弥陀仏に救われた人だけが、欲や怒りの煩悩あるがままで、仏になれる身になれるのだよ。だから早く、今の救いを急ぎなさい」
と勧めておられるお言葉が、
「能発一念喜愛心(能く一念喜愛心を発せば、
不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得)」
の二行です。

五濁悪時群生海 応信如来如実言

0 4月 20th, 2011

五濁悪時群生海  五濁悪時の群生海、
応信如来如実言 応に如来如実の言を信ずべし

「五濁悪時」と言われているのは、
「いろいろと汚れ、悪に染まっている世界」
のことです。これは、歴史上のある一時代のことでもなければ、映画・ハリー・ポッターやアバターなどファンタジーに出てくる架空の世界でもありません。私たちの生きている現実社会、この娑婆世界のことです。古今東西、いつでもどこでも、「五濁悪時」なのです。
親が子を殺し、子供が親をあやめる悲しい事件が後を絶ちません。遊ぶ金欲しさに、虫けらのようにタクシー運転手を刺し殺し、ホームレスを面白半分に殴り殺す高校生あり。「ムシャクシャするから」と、駅のホームで赤の他人を線路に突き落としたり、恋愛関係のもつれから、女性を山中の屎尿処理タンクで窒息死させたり。”クリーンな政治”を掲げて当選した人が贈収賄で捕まり、警察官が万引きし、消防士が放火し、教師が淫行で逮捕される。清純派アイドルだった女優が覚醒剤に染まっていた事件も、世間に衝撃を与えました。
人命の尊重を訴えていた識者があっさり首を吊ってしまったり、人道の正義を振りかざす平和主義者が戦争をしかけ、法治国家で人治がまかり通り、冤罪事件がでっち上げられることもあります。
「なぜオレだけがこんな目に」
「世の中いったいどうなってんだ」
「まさかこんなことになるとは……」
深い業をもった私たち人間の生み出す世界は、かかる矛盾と不条理にあふれ、毎日報じられる悲喜劇は、まさに『歎異抄』の、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって
空事・たわごと・真実あること無し

の実証でしょう。形こそ違えど、これらは太古の昔から現代まで連綿と、この地上で織り成されてきた人間ドラマではないでしょうか。
このように、罪悪にまみれ、悲哀と苦悩充満する人の世を「五濁悪時」と言われ、そこに生きる私たちすべてを、
「五濁悪時の群生海」
と、親鸞聖人は言われているのです。「群生海」とは、その数の多いことから「生きている群れ」と言われた言葉で、この中に入らない人は一人もいません。日本人もアメリカ人も中国人も、男も女も老いも若きもすべて。その苦悩の絶えない全人類に向かって、
“どうか皆人よ、「如来如実の言」を信じ、まことの幸せになってくれよ”
と訴えておられる聖人のお言葉が、
「五濁悪時の群生海、
応に如来如実の言を信ずべし」
の二行なのです。
では、「如来如実の言」とは、何のことか。これが分からなければ、聖人が朝晩、私たちに「信ずべし」と勧めておられるのに、順うこともできず、聖人の御心にかなうこともできません。それどころか、悲しまれる結果となってしまいます。それではあまりにも申し訳なく、勿体ないですね。
「如来如実の言」とはどんなことか、続けて親鸞聖人からお聞きしましょう。。

●「如来如実の言」=「一向専念無量寿仏」●

ここで「如来」と言われているのは、仏教を説かれた「釈迦如来」のことであり、「如実」とは「真実」ということですから、
「如来如実の言」
とは、
「釈迦如来の、真実のお言葉」
ということです。それは、『大無量寿経』という唯一真実の経に説かれている、

「一向専念無量寿仏」

の八字のこと。これは、
「無量寿仏に一向専念せよ」
ということで、無量寿仏とは本師本仏の「阿弥陀仏」のことですから、
「阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ」
と言われている、釈迦のご金言であり、仏教の結論です。
この「一向専念無量寿仏」の釈迦のお言葉を、親鸞聖人はここで「如来如実の言」と言われているのですが、では、どうしてお釈迦さまは、
「弥陀一仏だけを信じよ」
と言われるのでしょうか。それは、大宇宙広しといえども、私たちの「後生の一大事」を救う力のある仏は、阿弥陀仏一仏だけだからです。
このことは先に聖人が先に、
「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
「釈迦如来が仏教を説かれたのは、
『弥陀の本願』唯一つ明らかにするためであったのだ」
と仰っている通りです。そして、釈迦が「弥陀の本願」ただ一つ説かれたのは、
「阿弥陀仏の本願以外に、我々の救われる道は絶対にないから」
であることを、「本願海」の「海」の一字で教えておられることも、詳述してきました。
「助ける力のないものにすがっていも、絶対に助かりませんよ。この釈迦にもあなた方を助ける力はない。助ける力のある仏は、本師本仏の阿弥陀仏だけなのだから、弥陀一仏に向きなさい、弥陀のみを信じよ。弥陀の本願によって、『後生の一大事』を助けて頂けよ」
これ一つ教えられたのが、釈迦如来なのだと、親鸞聖人は断言されているのです。

●徹底した教え●

「弥陀一仏に向きなさい」
ということは、
「他の一切の諸仏・菩薩・諸神に向くな、礼拝するな、捨てよ」
ということです。
蓮如上人(*)は、有名な『御文章』に、
「一心一向というは、阿弥陀仏に於て、二仏をならべざる意なり」
「心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、更に余の方へ心をふらず」
など、繰り返されています。「二仏をならべる」とか「余の方へ心をふる」とは、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や諸神を信ずる」ことですから、いずれのご文も、釈迦の教えのとおり、
「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や諸神にかかわるな、手を合わせるな、礼拝するな、弥陀一仏を信じよ」
と訴えておられるお言葉です。

●なぜ、「弥陀一仏」なのか●

親鸞聖人は九十年の生涯、この釈迦の教えに順い、

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり (御伝鈔)

“我々が未来永遠、救われるか、どうか、の一大事は、「一向専念無量寿仏」になるか、否かで決するのである”
と明言されて、
「一向専念無量寿仏」
を叫び続けていかれました。『正信偈』の
「五濁悪時群生海
応信如来如実言」、
この二行も、
「すべての人よ、どうか早く『一向専念無量寿仏』の釈迦の教えに順い、『後生の一大事』の解決を果たしてくれよ」
と、熱烈に勧められているお言葉です。
蓮如上人もまた、

「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせよ」                  (白骨の章)

とか、

「阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二つも三つもあるべからざるものなり」   (御文章)
「その外には何れの法を信ずというとも、後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず」                (御文章)

と、「一向専念無量寿仏」の真実を開顕することに生涯、徹し抜かれたのでした。
阿弥陀仏は、
“すべての人は極悪人である。
我を信じよ、必ず助ける”
と誓われています。いかなる罪悪深重の者をも、極楽往生一定の身に必ずしてみせる、と仰せです。この弥陀の本願以外、釈迦も親鸞聖人も蓮如上人も、教えられたことは何もありませんでした。
「『一向専念無量寿仏』の他に、我々の助かる道は絶対ないのだから、五濁悪時のすべての人よ、弥陀一仏を信じなさい」
朝晩の勤行で私たちは、その聖人のみ声を聞かせていただいているのです。直ちに随順いたしましょう。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

0 3月 7th, 2011

「如来所以興出世 如来、世に興出したまう所以は、
唯説弥陀本願海 唯、弥陀の本願海を説かんとなり」

「如来」といわれているのは、釈迦如来、お釈迦さまのことです。釈尊とも敬称されます。世間では、お釈迦さまといっても阿弥陀仏といっても、レッテルが違うだけで、同じ仏さまだろうと思っている人がありますが、お釈迦さまと阿弥陀仏とは全く違う仏です。その違いを知らないと、親鸞聖人の教えは全く分からなくなりますので、よく知って頂きたいと思います。

●お釈迦さまはどんな方か●

釈尊は約二千六百年前、インドのカピラ城に住んでいた、浄飯王という王様の太子として誕生されました。お母さんの名をマーヤー夫人といわれます。四月八日、ルンビニー園という花園で生まれられたので、お釈迦さまの誕生日を今日「花祭り」といって祝っています。
幼いころはシッタルタ太子といわれ、学問も武芸も国一番の師匠に学ばれました。文武ともに抜群で、並ぶ者は誰もなかったといわれています。そのことは、二人の師匠が間もなく「私にはもう太子に教えることはありません」と、浄飯王に辞任を申し出たといわれていることでも分かります。
このように何不自由のないシッタルタ太子でしたが、成長するにつれ、何か深刻に物思いにふけられるようになりました。心配された両親は、何とか明るい太子になってほしいと、十九歳で、国一番の美女といわれたヤショダラ姫と結婚させられました。
それでも太子の暗い表情は変わりませんでした。両親はいろいろ悩みの種を尋ねますが、太子は一向に語ろうとはされません。
そこで浄飯王は、春夏秋冬の季節ごとの御殿を造らせ、五百人の美女をはべらせて、太子の悩みをなくそうとされましたが、表情は少しも晴れませんでした。それは、健康、財産、地位、名誉、妻子、才能などに恵まれていても、やがてすべてに見捨てられる時が来る。どんな幸福も続かないことを知っていた太子は、心からの安心も満足もできなかったのです。
“この世のものは皆滅びゆく。どうすれば、崩れない本当の幸福になれるのか”
シッタルタ太子の、真実の幸福を求める気持ちは、日に日に強くなっていきました。ある日、父・浄飯王に手をついて、
「城を出て、まことの幸福を求めさせて下さい」
と、頼まれたのです。驚いた浄飯王は、
「一体何が不足でそんなことを言うのか。お前の望みは何でもかなえてやろう」。
「それではお父さん、申しましょう。私の願いは三つです」
「三つの願いとは何か」
不審そうに浄飯王が聞かれると、シッタルタ太子は、こう言われています。
「私の願いの一つは、いつまでも今の若さで年老いないことです。望みの二つは、いつも達者で病気で苦しむことのないことです。三つ目の願いは、死なない身になることです」
それを聞かれた浄飯王は、
「そんなことになれるものか。無茶なことを言うものではない」
と、あきれかえって立ち去られた、といわれます。
そこでついに二十九歳の二月八日、シッタルタ太子は夜中密かに城を抜け出し、山奥深く入られ、私たちの想像もできない厳しい修行を、六年間されました。そして三十五歳の十二月八日、ついに仏の悟りを得られたのです。

●弥陀の本願ひとつ●

三十五歳で最高の仏の悟りを開かれたお釈迦さまは、八十歳二月十五日にお亡くなりになるまでの四十五年間、すべての人が本当の幸せになれる道一つを、説き続けていかれました。その釈尊の教えを、今日、仏教といわれます。その教えのすべては、今日、「一切経」といわれるものに書き残されています。それは七千余巻という膨大な数のお経です。
仏教に何が教えられているかを知るには、この一切経を、余すところなく読んで、正しく理解しなければなりません。ところが難しい漢字ばかりのお経ですから、誰でも全部読めるものではありませんし、理解できるものでもありません。
今日、世界の光と仰がれている親鸞聖人は、その一切経を何回も読み破られ、
「お釈迦さまの教えていかれたことは、これ一つなんだよ」
と、『正信偈』というお聖教(*)に書かれているのが、
「如来所以興出世(如来、世に興出したまう所以は)
唯説弥陀本願海(唯、弥陀の本願海を説かんがためなり)」
と言われている二行です。

「如来、世に興出したまう所以は」とは、「お釈迦さまが、この地球上に現れて仏教を説かれた目的は」ということ。
「唯説」とは、「ただ一つのことを説かれるためであった」ということです。
七千冊以上のお経があり、四十五年間も教えられたと聞くと、「お釈迦さまは色々なことを説かれたのだろう」と思われましょうが、そうではなかった。お釈迦さまの教えられたことは、たった一つのことなのだと、親鸞聖人は断言されています。
一切経を99%読んでも、こんな断言はできません。後の1%に何が書かれてあるか分からないからです。親鸞聖人は一切経を何度も読み破られて断言されているのです。
私たちは釈迦が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、仏教すべてを聞いたことになり、仏教のすべてを知ったことになる。だから釈迦のただ一つ説かれた、そのことほど大事なことはありません。決して間違えてはならないことです。
親鸞聖人は、それこそ「弥陀の本願」であるとおっしゃっています。
「弥陀の本願」とは、「阿弥陀如来という仏さまが、本当に願っていられる御心」のことで、海にたとえて「本願海」といわれています。
『正信偈』には他にも「本願の大智海」「功徳の大宝海」など、「阿弥陀仏の本願」のことを、幾度も「海」と言われています。
これは、「海」の持つ次の四つの特徴が、「弥陀の本願」をよく表しているからであると拝察されます。
○広い
○深い
○一味
○終帰
一つ一つについて、聖人のお言葉を通して伺ってみましょう。

●広い──相手えらばずなされたお約束●

言うまでもなく、この地球上で最も「広い」ものは、「海」です。海岸や船の甲板から、はるか水平線を眺めると、海の広大さに圧倒されます。それでも見えている範囲は、海全体のごく一部ですから、まさに「海は広いな、大きいな」。海と陸の割合は、およそ七対三。地球儀で見ると、ユーラシア・アフリカ・南北アメリカ大陸など合わせれば、陸地も結構広そうですが、海はその倍以上もの広さがあるのです。
「本願」は「誓願」とも言われ、約束のこと。約束には、必ず相手がある。親鸞聖人が「弥陀の本願」を、広大な海に例えられたのは、そのお約束の「相手」が、とても「広い」からです。
阿弥陀仏は約束の相手を、
「十方衆生」
とおっしゃっています。「十方」とは、東西南北上下四維の十の方向のことで、仏教では大宇宙のことをいわれます。大宇宙には、地球のようなものが無数に存在することは、今日の天文学では常識になっていますね。それはちょうど、大空間に沢山の塵芥が浮いているようなものですから、仏教では「十方微塵世界」とも言われます。
この大宇宙に生きとし生きるすべての人を、「十方衆生」と言われているのです。この中に入らない人は、一人もいません。私も、あなたも、イチローも、朝青龍も、オバマ大統領も、みんなです。
大日如来や薬師如来など他の仏方にも、それぞれ「本願」があり、「約束」をされているのですが、「十方衆生」を相手に約束されている仏はおられません。どの仏さまの本願も、「こんな人とだけ、約束する」と、相手が限定されています。条件がついているのです。
ところが、本師本仏の阿弥陀仏だけは差別なく、「十方衆生」と約束されている。

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず (歎異抄)

親鸞聖人は、その「弥陀の本願」を、「弘誓」(弘い誓い)とか、広い海に例えて「本願海」と讃嘆されているのです。

●深い──弥陀の慈悲は底無し●

次に、とてつもなく「深い」ことも、海の特徴の一つです。
世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈には、世界最高峰を誇るエベレストがそびえていますが、それでも標高は約八八〇〇メートル。対して世界最深のマリアナ海溝は、一万メートルを超えます。エベレストを引っ繰り返して海に沈めても、頂上は海底に届かない程の深さです。
阿弥陀如来が、罪悪の深い私たちを見捨てられず、ご本願を建ててくだされた底無しのお慈悲を、海の深さになぞらえて「本願海」と言われているのです。

願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず (正像末和讃)

と言われている親鸞聖人の『ご和讃』も、
「阿弥陀如来のお力には限りがないから、どんな極悪人をも救い切ってくだされるのだ」
と、繰り返し仰っているお言葉です。
量り知れない悪業のかたまりの我々は、阿弥陀如来の無限のお力によらなければ、絶対に救われません。
『歎異抄』には、”なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのか”といえば、

罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします

“煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである”
と説かれ、そのご本願に救い摂られた歓喜をこう告白されています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ

“弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな量り知れぬ悪業をもった親鸞を、助けんと奮い立ってくだされた本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか”

すべての人を、金輪際助からぬ極悪人と見抜かれた上で、必ず絶対の幸福に救うと誓われている、弥陀の御心の底知れぬ深さが、「海」の一字で表されています。

●一味──海に入れば皆同じになる●

「一味」とは、大小清濁どんな川の水も、「海」に入れば同じ「一つの味」になる、ということです。
富山県でお話ししますと、富山湾には黒部川・神通川・常願寺川・小矢部川・庄川など、多くの河川が流れ込んでいます。しかしどの川の水も、海に入ると同じ味になる。ちょうどそのように、どんな人も、阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、一味平等の絶対の幸福に生かされることを、「本願海」とおっしゃっているのです。
『正信偈』には、このことを分かりやすく、
「凡聖逆謗斉廻入(凡・聖・逆・謗、斉しく廻入すれば)
如衆水入海一味(衆水の海に入りて一味なるがごとし)」
“弥陀の本願に救い摂られたならば、万川の水が海に入って一味になるように、才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、すべての人が、同じよろこびの世界に共生できるのだよ” (○ページに詳解)
と教えられています。また、
「与韋提等獲三忍」(韋提と等しく三忍を獲る)
“どんな人でも弥陀の誓願不思議に救い摂られれば、イダイケ夫人と等しく三忍(人生の目的成就)を体得できる”(○ページに詳解)
と明言されているのも、いつの時代、どこの国に住む人も、弥陀に救われたならば、一味平等の世界に生まれ出る、と言われたお言葉です。
ここでイダイケ夫人とは、約二千六百年前、お釈迦さまの在世中、インドで最強を誇っていたマガダ国の王妃。産んで育てた我が子によって牢屋に入れられ七転八倒、地獄の苦しみに悶えるイダイケが、お釈迦さまのご教導によって、「弥陀の本願」に救い摂られたことが、『観無量寿経』に説かれています。恨みと呪いの暗黒の人生が、たちまち懺悔と感謝の光明の人生と新生したイダイケは、地球上で最初に「弥陀の本願」に救われた人。そのイダイケの名を聖人は『正信偈』に挙げられて、
「韋提と等しく三忍を獲る」
〝何十億人の人がいても、阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、誰もが韋提(イダイケ夫人)と等しくなれるのだよ〟
と訴えておられるのです。
このように、弥陀の救いは時空を超えて一味であることを、「海」に例えて教えておられます。

●終帰──万川が行き着く●

また、”地上のどこに降った雨水も、最後、ここへ来ないと落ち着かない”という、究極のよりどころが「海」です。
山頂に降った雨も、中腹に降った雨水も、平野に降った水滴も、やがて川に入り、海へ、海へと向かっていきます。もちろん途中の湖や池にしばらく留まることはあるでしょう。が、流れ流れて最後は「海」に辿り着きます。「海」に入らなければ、どの雨滴も落ち着かないのです。これを「終帰」といい、海の大きな特徴です。

世界には、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など数多の宗教があり、信仰している人があります。例えれば、山頂から海に至るまでに、多くの湖や池があり、そこに雨水が留まっているようなもの、といえるでしょう。
何十万とある宗教だけではありません。お金や財産、地位や名誉、仕事、結婚、家庭、友人、思想や哲学、学問など、私たちが信じ、あて力にしている一切は、湖や池や水たまりのようなもの。それらを信じ、手に入れ、しばしの安らぎがあったとしても、心の底からの安心が得られるでしょうか。「人間に生まれてよかった」という、変わらぬ生命の大歓喜があるでしょうか。
「今までで、一番うれしかったことは?」「どんなときが幸せ?」と聞かれて、即答できる人はどれだけあるでしょう。「いやぁ、何かいいことあったかなぁ……」という程度の記憶しか残っていないのが実態ではないでしょうか。
一時よろこべても、すぐに色あせる儚い幸せしか知らない、そんな私たちに、本当の安心・満足を与えてみせると誓われているのが、「阿弥陀仏の本願」です。
私たちは、それぞれ自分が一番よいと思うものを生き甲斐にし、安心を得ようと必死に追い求めていますが、最後はこの「弥陀の本願」に帰して初めて、
「人間に生まれたのは、これ一つであった」
「我が人生に悔いなし」
と真の幸福が得られることを、万川の終帰する「海」に例えて、「弥陀の本願海」と親鸞聖人は言われているのです。

“阿弥陀仏は、すべての人を極悪人と見抜かれた上で、そんな者を一味平等の絶対の幸福に救い摂ると、命を懸けて誓われているのだよ。我々の真に救われる道は、この「弥陀の本願」以外にないのだから、釈迦は「弥陀の本願」唯一つ、教えていかれたのだ。一日も片時も急いで、聞き開いてくれよ”
聖人の熱き御心を、「海」の一字に知らされるではありませんか。

成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

0 2月 2nd, 2011

「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と言われているのは、
「まず『等覚』に成り、『大涅槃』を証しなさい」
ということです。親鸞聖人は私たちに、
「『等覚』に成らねば、『大涅槃』を証することは絶対にできないのだから、早く『等覚』に成りなさい」
と勧めておられるのです。
そこで「等覚に成る」とはどんなことか、お話しいたしましょう。

●等覚に成る●

「等覚」とは先述の「正定聚」と同じで、あと一段で「仏覚」の、五十一段のさとりの位をいわれます。
「等覚に成る」とは、『南無阿弥陀仏』の大功徳を弥陀から頂いた一念で、「正定聚不退転」の身に救い摂られたことであり、これを「信心決定」とも「信心獲得」ともいわれます。

親鸞聖人が『正信偈』に朝晩、「早く等覚に成りなさい」と教えられていることを、蓮如上人はご遺言に、

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり
(御文章)

とおっしゃっています。初めに、
「あわれあわれ(あわれだなあ、不憫だなあ)」
と嘆かれているのは、どういうことでしょうか。
ふつう私たちが「かわいそうだなあ」と思うのは、不幸で気の毒な人のことを、見たり聞いたりしたときでしょう。幸せの絶頂にいる新郎新婦に向かって、「あわれあわれ」とは誰も思いませんし、言いません。地震の被災者や、飢餓で苦しむ子供たちなどを見て、「気の毒だなあ」と思うのです。
ところが蓮如上人が哀れんでおられるのは、一部の人だけのことではありません。「皆々」とあるように、「すべての人」に「不憫だなあ」と言われているのです。
「ん?なんでだろう。別に私はそれほど不幸ではないが」と思われる人も多いでしょう。なぜ蓮如上人は、私たちすべてを「あわれ」と悲嘆されているのでしょうか。
今日でも、仏教といえば「死んだら極楽」「死んだら仏」と思っている人がほとんど。「この世はどうにもなれない、助かるのは死んでから」が常識になっています。せっかく生まれ難い人間に生まれながら、本当の仏教も知らず、何のために生まれてきたのか、生きているのか、真の人生の目的も分からぬまま、金だ財産だ、地位だ名誉だ、酒だ女だと、浮かれ騒いで酔生夢死していく。”人間に生まれてよかった”という命の輝きはなく、人生こんなもんさとアキラメてはいないでしょうか。そんな私たちを蓮如上人は、
「かわいそうに。情けないことだ」
と悲しんでおられるのです。そして、仏法は、
「存命の中に」
〝生きているときが勝負なのだ。死んでからでは手遅れですよ〟
と道破され、
「皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」
〝すべての人に「信心決定」してもらいたい。そのこと一つをこの蓮如は、朝から晩、晩から朝まで、思い続けているのだよ〟
と、述懐されているお言葉です。
私たちが朝夕考えていることは、「どうしたらお金が儲かるか」「人から褒めてもらえるか」ということばかりですが、親鸞聖人や蓮如上人が念じ続けられているのは、私たちの「信心決定」一つであることがお分かりでしょう。
人間は、ただ生きるために生きるのではない。崇高な目的があって、生まれてきたのであり、生きているのです。どんなに苦しくても生きねばならないのは、「信心決定」するためであることを、親鸞聖人も蓮如上人も、
「早く等覚に成れ」
「命のあるうちに、片時も急いで信心決定せよ」
と教示されているのです。

ところがそう聞いても、なにしろ「等覚」とは、最高位の「仏覚」に次ぐさとりの位ですから、「そんな等覚に、私なんかがホントになれるのかな」と、途方に暮れる人もあるかもしれません。しかし、「成れない」ことを「成れ」とおっしゃる聖人ではありません。「等覚に成れ」と言われているのは、必ず成れるからです。「信心決定せよ」と言われているのは、できるからです。
それでもなお、「どうしても、等覚にならねばならないんですか」「信心決定なんて、できっこない」と、尻込みする人もあるでしょう。しかし、現在「等覚」にならねば、死後「大涅槃を証する」ことは絶対にできないのです。
「大涅槃を証する」とは、「阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、弥陀と同じ仏のさとりを開く」こと。先述のように、みんな「死んだら極楽」「死んだら仏」と思っているのは大間違いで、誰でも仏になれるのではない。「この世で等覚になった人だけが、死ぬと同時に極楽へ往って仏に成れる」のだから、
「成等覚証大涅槃」
〝まず「等覚」に成りなさい。現在、等覚になった人は、死ねば極楽へ往って弥陀同体の仏のさとりを開く(大涅槃を証する)ことができるのだよ〟
と聖人は仰っているのです。

●弥陀の救いは二度ある ── 二益法門 ●

この一行で聖人は、「弥陀の救い」は現在と死後の二度あることを言われていることがお分かりでしょう。このように、二度の弥陀の救いを明らかにされた親鸞聖人の教えを、「現当二益」の法門といわれます。
「現当二益」とは、「現世(この世)の利益」と「当来(死後)の利益」の二つの利益(救い)のことです。それぞれ略して「現益」「当益」と言われます。
「現益」は、「等覚に成る」という現在の救いのことであり、
「当益」は、「大涅槃を証する」という死後の救いのことです。
この現当二益の親鸞聖人の教えを、少しでも分かってもらいたいと、蓮如上人は問答形式で次のように教えておられます。

問うていわく、「正定と滅度とは、一益と心得べきか、また二益と心得べきや」。
答えていわく、「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」
(御文章)

「弥陀の救いは一度でしょうか、二度あるのでしょうか」
と問いを出され、
「この世は、弥勒菩薩と同格(正定聚・等覚)に救い摂られ、死ぬと同時に弥陀の浄土で、無上のさとり(滅度・大涅槃)が得られる。弥陀の救いは二度(二益)ある」
と明快に答えておられます。この二度の「弥陀の救い」を親鸞聖人は『正信偈』に、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と、一行で言われているのです。

●必至滅度の願●

ではどうして、この世で「等覚」に成った人が、死後「大涅槃」を証することができるのか。それは、
「必至滅度願成就」
(必至滅度の願が、成就しているからなのだ)」
と、次に言われています。

「必至滅度の願」とは、阿弥陀仏の「十一願」のこと。十一願とは、弥陀が四十八の約束をされている中の、十一番目のお約束をいいます。
弥陀は十一願に、
「設い我仏を得んに、国の中の人天、定聚にも住し、必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ」
“この世で正定聚(等覚)に成った人を、死後、滅度(大涅槃)に至らせてみせる。もしできなければ命を捨てる”
と誓われているので、この十一願のことを「必至滅度の願」といわれているのです。まとめると、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証することは)
必至滅度願成就(必至滅度の願、成就すればなり)」
の二行は、
“現在「正定聚」に成った人が、必ず死後「仏覚」を開くことができるのは、弥陀の十一願が完成されているからなのだ”
と言われ、
「平生の一念に未来永劫の浮沈が決するのだから、現在ただ今の救い(現生正定聚)を急げ」
と勧めておられるのです。

本願名号正定業 至心信楽願為因

0 1月 8th, 2011

一行目の「本願名号正定業」は、「本願の名号は正定の業なり」と読みます。

「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のこと、「正定」は「正定聚不退転」、「業」は「働き」のことですから、意味はこうです。
「阿弥陀仏の本願によって作られた『南無阿弥陀仏』の名号には、すべての人を『正定聚不退転』の身にする働きがある」
「阿弥陀仏の本願」とは、「本師本仏の阿弥陀仏がなされているお約束」。阿弥陀仏は、漢字三十六文字で誓われているのですが、一言で表現すると、
「すべての人を必ず『信楽』に救う」
と誓われているのです。『歎異抄』には「信楽」を「摂取不捨の利益」と言われています。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私たちを「ガチッと摂め取って、絶対に捨てられない」こと。「利益」は幸福のことですから、「摂取不捨の利益」とは、現代の言葉で「絶対の幸福」といえましょう。

この世は無常、いつどうなるか分からない世界です。終身雇用で安泰と思っていたのに、突然のリストラ。やっと決まった内定が、一方的に取り消し。一家団欒の喜びが、愛児の事故死で涙の日々に。恋人に振られたショックで自殺する人もいます。健康が取り柄だったのに、末期ガンの宣告。かつて賞賛を浴びた才能が衰えて泣く人。
これらは皆、信じていたものに「捨てられた」苦悩でしょう。
東京の高島平や千葉の常盤平など、都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、三十年を経た今、子供は皆巣立ち、独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、NHK番組『クローズアップ現代』で紹介されていました。わずか八畳間に男女の区別なく三人押し込められ、風呂にも入れず、食事は一日たったの二百円。入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、ア然としました。ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」と涙ぐむ。家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。「身寄りがない、いられるだけでよい」という弱味につけ込む悪どい業者、それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、浮き彫りにされていました。
死に物狂いで働き、日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。オギャッとこの世に生まれ落ちてより、努力してかき集めてきたものが、年とともに奪われていく。最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。これが人生というものならば、一体どこに、生きる喜びがあるでしょうか。何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し
(歎異抄)

やがて必ず「捨てられるもの」しか知らず、薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、阿弥陀如来は、
「すべての人を、絶対に裏切られることのない、大安心の身にしてやりたい」
と、無上の願いを起こされたのです。本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、『歎異抄』にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。

●若不生者のご念力●

ところがそう聞いて、「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」「単なる脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、自分とは関係ない」などと怪しむのは論外としても、真剣に仏法を求めていきますと、
「私のようなものが、ホントに絶対の幸福になれるんだろうか」
「生きている時に、ハッキリすることなどあるのだろうか」
などと、阿弥陀仏の本願を疑う心がむくむくと出てまいります。
そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて誓われているお言葉が、

「若不生者不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)

の八字です。「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、命を捨てる」
といわれているお言葉です。弥陀が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」と誓われているのが、「若不生者の誓い」なのです。

卑近な例えで言うと、銀行でローンを組む際、こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、土地や建物を担保に入れるでしょう。
阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。この絶大な「若不生者のご念力」によって、平生の一念、疑心が晴れわたり、必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、親鸞聖人は、

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ  (浄土和讃)

と、教え続けていかれたのです。
この「若不生者の誓い」が、「本願の名号」の「本願」です。

●名号の働き●

次に「名号」とは、阿弥陀仏が、この誓願を実現するために、大変なご苦労をして完成してくだされた「南無阿弥陀仏」の六字のことです。これを、
「本願の名号」
“本願によって造られた名号”
と言われています。「正定」とは「正定聚」のことですから、
「本願の名号は正定の業なり」
と言われている一行の意味は、こうなります。
「弥陀が本願の通りに作られた、『南無阿弥陀仏』の六字の名号には、すべての人を正定聚の身に救い摂る、すごい力があるのだよ」

●正定聚とは●

「正定聚」とは、さとりの位をいうのです。
「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで全部で五十二の位があり、これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。ちょうど相撲取りにも、下は褌担ぎから上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二のさとりには、それぞれ名前がついており、中でも最高のさとりの位を「仏覚」(仏のさとり)といわれるのです。これ以上のさとりはないから、「無上覚」ともいわれます。さとりが一段違えば、人間と虫けらほどの境涯の差があるといわれるのですから、五十二段の仏覚が、いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、お分かりになるでしょう。
その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。
中国で天台宗を開いた天台も、「九段目までしか覚れなかった」と臨終に告白していますし、また、壁に向かって九年間(面壁九年)、手足腐るまで修行し禅宗を開いた達磨大師でも、三十段そこそこであったと言われます。
仏の覚りを開くことが、いかに大変なことかが分かります。

その仏に間違いなくなれると定まった位を、「正定聚」と言われるのです。五十一段のさとりの位であり、絶対に崩れない位ですから、「正定聚不退転」とも言われます。
「不退転」とは、後戻りしない、壊れない幸せ、ということで、今日の言葉で「絶対の幸福」と言えましょう。”必ず浄土へ往って仏になれる”大満足であり、何ものも往生のさわりとならないから「無碍の一道」(歎異抄)とも言われます。「人間に生まれたのはこれ一つだった」という、生命の大歓喜なのです。

阿弥陀仏が、兆載永劫のご苦労によって完成なされた「南無阿弥陀仏」の六字には、どんな極悪人も、この「正定聚不退」の絶対の幸福に救い摂る働きがあることを、親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号は正定の業なり」
と絶賛されているのです。
同じく『正信偈』に「功徳の大宝海」(功徳の大きな宝の海)とも言われています。

多くの人が「これは宝だ」と大事にしているものは、どんなものでしょうか。代々伝わる壺とか掛け軸、土地や家財道具などでしょう。中には鑑定士から何千万円と評価された「お宝」もあるかもしれません。「国宝」に指定された仏像や建造物、「世界遺産」登録の文化や自然を誰もが大切にするでしょう。
しかし悲しいかな、これらの宝は、どんなに厳重に管理し維持しようと努めても、火事で焼けたり、洪水で流されたり、盗まれたりする不安が絶えず、やがて必ず朽ち果てる、一時的なものではないでしょうか。
「佐賀の会社役員、庭に埋めた三億六千万円盗まれる」という見出しで、こんな記事がありました。

会社役員の八十代の男性が、安全のために、佐賀県にある自宅の庭に埋めていた現金三億六千万円が盗まれていたことが明らかになった。(中略)前年十月に盗難にあっていることに気づいたという。男性はその二か月後に死亡している。(中略)四十年間にわたって、現金を容器に入れては自宅の庭に埋めることをくり返していたという。男性は、銀行の金利が低いことから手元に置いておく方がよいと考え、さらに火事や地震の被害を避けるために庭に埋めていたという。

なんともったいない、とも思いますが、考えてみれば、たとえ盗まれなかったとしても、後生へは一円も持っていけない。この世の宝は、すべて置いていかねばなりません。
ところが、「南無阿弥陀仏」の宝は、焼けもせず、流されも、盗まれもしない未来永遠の幸福にする、もの凄い働きがあるから、親鸞聖人は「功徳の大宝海」と讃嘆され、蓮如上人も『御文章』に、分かりやすく解説されています。

それ「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである」

●まことだった!ホントだった!●

この不可称・不可説・不可思議の大功徳(南無阿弥陀仏)を、一念で弥陀から丸もらいされて(仏智全領)、「正定聚」の身に救い摂られた歓喜を、親鸞聖人は『教行信証』にこう告白されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

初めに「真に知んぬ」と言われているのは、
「親鸞、ハッキリ知らされた」
という確言です。「たぶんこうだろう」という曖昧な憶測でもなければ、「私はこう思う」などという想像でもありません。体験して知らされたことを、「まことであった、本当であった」と高らかに叫ばれているのが、聖人の「真知(真に知んぬ)」です。「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びなのです。
では、どんなことが「ハッキリ知らされた」とおっしゃっているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、有名な弥勒菩薩のこと。「菩薩」とは、仏のさとりに向かって修行中の人のことです。いろいろな位の菩薩がある中で、弥勒菩薩は、仏のさとりにもっとも近い等覚(五十一段のさとり)を開いていることを、
「弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに」
と言われています。あの面壁九年の達磨でも、三十段そこそこであったのですから、五十一段のさとりを開いている弥勒が、いかに勝れた菩薩であるか、お分かりでしょう。
その等覚の弥勒菩薩は、
「龍華三会の暁、当に無上覚位をきわむべし」
“五十六億七千万年後に、仏のさとりを開く”
と聖人が言われているのは、お釈迦さまがお経の中に、
「この釈迦の次に、地球上で仏のさとりを開くのは弥勒である。それは、五十六億七千万年後のことである」
と説かれているからです。その弥勒菩薩と比較して、
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
と宣言されています。「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏に救われた人のことであり、聖人自らのことです。「横超の金剛心」とは、「正定聚」のこと。絶対壊れない幸福ですから、金剛心(ダイヤモンドのように硬い、不変の信心)と言われています。
あの弥勒菩薩は、気の遠くなるような長期間の自力修行によって、さとりの位を一段一段上り、ようやく五十一段まで到達したけれども、「念仏の衆生」の親鸞は、「南無阿弥陀仏」の働きによって、一念で五十一段を高飛びさせられ「正定聚」の身に救い摂られたのだ、という大自覚を、
「横超の金剛心をきわむるがゆえに」
と告白され、
「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
“一息切れると同時に、阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができるのだ”
と明言されているのです。
「本当にそうだったなぁ! あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。まったく弥陀の名号不思議によってのほかはない。しかもだ。弥勒は五十六億七千万年後でなければ、仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」
この世から未来永遠の幸福に救い摂る、名号六字の働きを真知させられた聖人の、大慶喜なのです。

●救われたらハッキリする●

ここで親鸞聖人の言われている「真知(真に知んぬ)」と、一般に使われる「信じる」との違いについて、よく知っていただきたいと思います。
実は、「信じる」のは、「疑い」があるからです。
「ん?そりゃどういうことだ。『信じる』とは、『疑っていない』ことだろう」と、常識的には思われるでしょう。ですが、ちょっと考えてみれば分かるように、疑う余地の全くないことなら、「信じる」必要はありませんし、「信じている」とも言いません。「知っている」といいます。例えば、ひどい火傷をしたことのある人なら、火は熱いものだと「知っている」というでしょう。火は熱いと「信じている」とは言いません。そのように言う人は、まだ火に触ったことがなく、想像や憶測で語っている人です。
「あなたの永遠の愛を、信じているわ」
「あの子はまだどこかで生きてくれていると、信じている」
「今度こそ合格、と信じる」
──いずれも、ハッキリしない不安をかき消すために、疑いを抑えつけ信じ込もうとする努力ではないでしょうか。
親鸞聖人の「真に知んぬ」の告白は、それらの「信じる」とは全く異なります。「南無阿弥陀仏は尊いそうな」という想像でもなければ、「お念仏さえ称えていれば、阿弥陀さまは極楽へ連れていってくださるだろう」と夢みる信仰でもない。
身も心も「南無阿弥陀仏」と一体になって、「正定聚」の身に救い摂られた聖人が、
「まことであった、本当だった、ウソではなかった」
と、本願に露チリほどの疑心もなく晴れ渡った、実体験なのです。蓮如上人も『御文章』に、

「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」

「今こそ明かに知られたり」

「この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり」

「うれしさを昔は袖につつみけり、今宵は身にもあまりぬるかな」

とおっしゃっているのも、「南無阿弥陀仏」を頂いた一念に、絶対の幸福に救い摂られた歓喜の発露です。

ところが、「弥陀に救われても、そんなにハッキリするものではない」と嘯いている人が、浄土真宗には少なくありません。
一念で五十一段を高飛びさせられて、この世は弥勒と同格、死ねば「弥勒お先ごめん」と仏覚を開く身になった人が、「その自覚がない」ということがありえるでしょうか。
母親から毎月一千万円もらっていたことを、本人が「知らなかった」「気がつかなかった」と発言してさえ、「そんなのウソに決まってる!」「考えられない」とみんな訝るのです。ましてや、何兆円どころでない大宇宙の宝を一念で丸もらいして、永遠の幸福に救い摂られたのに、それが「自分には分からない」ということが、考えられるでしょうか。
「救われても、ハッキリするものではない」と言うのは、「正定聚」とはどんなことかも、「南無阿弥陀仏」の偉大な働きも、知られないからでしょう。

●どうして、そんな働きが●

「本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)」
と言われている御心の一端を、解説してきました。では、どうしてそんな凄い力が名号にはあるのかというと、その理由を次に、
「至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)」
と開示されています。
「至心信楽の願」とは、
“すべての人を、必ず信楽(正定聚)に救う”
と誓われている「阿弥陀仏の本願」のことです。この「至心信楽の願」を因として造られたのが「南無阿弥陀仏」だから、どんな極悪人をも「正定聚」にする働きがあるのだよと、親鸞聖人は朝晩の勤行で、
「本願名号正定業  本願の名号は正定の業なり
至心信楽願為因  至心信楽の願を因と為す」
と教えられているのです。

普放無量無辺光~一切群生蒙光照(5)

0 12月 2nd, 2010

●不断光●

「不断光」とは、「途切れることのないお力」ということです。
一念で阿弥陀仏に救い摂られたことを「信心決定」とか「信心獲得」「信心を獲る」といわれますが、阿弥陀仏から賜ったその「他力の信心」が、死ぬまで変わらずに続くのです。
弥陀に救い摂られるまで(信前)は、自分で何とか信心が途切れないように、続かせようとしている。これを自力といわれます。「仏法のことを思おう」「忘れないようにしよう」と努力しているのです。
ところが、弥陀に救われてから(信後)は、私が忘れないように努めるのではない、「他力の信心」が私を死ぬまで導いてくだされる。仏法のことを忘れている時も、何を思っている時も「信心」が変わらないのは、阿弥陀仏の「不断光」の働きによるのです。
蚊取り線香に火をつけると、火の力で最後まで進みます。火を押して「もっと進め、ここを燃やせ」と努力しなくても、火はそのまま最後まで燃えるでしょう。一念の信心の火がつくと、その後、続かせようとしなくても、全く仏法と別なことを思っている時も、信心は死ぬまで続いてくだされる。
救われるまで(信前)とは、まるで逆になるのです。
これもまた例えですが、昔はよく、馬子が馬を引き、その馬に人や物をのせて運んでいました。この場合、主人は馬子であり、その主人に馬が引かれている、という状態です。
信前はそのように、私が主人となって、信心を引っ張ろう、引っ張ろうとしている。「ほかのことを考えないようにしよう」「仏法のことを思おう、思おう」としているのです。ところが、他力の信心を獲得してから(信後)は、その信心が主人となって、私が引っ張られ生かされる人生に変わってしまう。
蓮如上人はこれを、次のように教えられています。

「『一念の信心を獲て後の相続』というは、更に別のことに非ず、はじめ発起するところの安心に相続せられて、とうとくなる一念の心のとおるを、『憶念の心つねに』とも、『仏恩報謝』ともいうなり。いよいよ帰命の一念、発起すること肝要なり」と仰せ候なり      (御一代記聞書)

●難思光●

「難思光」とは、文字どおり、「想像もできないお力」ということです。
食いたい、飲みたい、楽がしたい、金が欲しい、名誉が欲しい、女が欲しい、男が欲しいと、自分の欲望を満たす「相対の幸福」しか思っていない私たちには、「絶対の幸福に救い摂る」という弥陀の本願力は、想像を超えています。
「この世はどうにもなれない」「絶対の幸福に助かった、ということなどあるはずがない」「人生に、完成も卒業もない」と思い込んでいるすべての人にとって、
「平生の一念に、人生の目的を果たさせる」
という弥陀のお力は、人智を超越していますから、「難思光」と言われているのです。

●無称光●

「無称光」は、「言うことができないお力」ということです。
親鸞聖人は、その阿弥陀仏のお力に救い摂られた世界を、何とか伝えようとなされたのですが、不完全な言葉で伝えることはできないと、絶望への挑戦であったに違いありません。
この、心も言葉も絶えた世界を、「大信海」と高らかに、次のように讃嘆されています。

大信海を按ずれば、貴賤・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず          (教行信証)

“貴いとか賤しいとか、僧侶とか俗人とか、男女、老少、罪の軽重、善根の多少など、大信海の拒むものは何もない。完全自由な世界である”
と明言し、続いて「非ず」を十四回も重ねて、一切の人智を否定されています。想像も言語も絶えた「真実の信心」の、ギリギリの表現に違いありません。

行に非ず・善に非ず、頓に非ず・漸に非ず、定に非ず・散に非ず、正観に非ず・邪観に非ず、有念に非ず・無念に非ず、尋常に非ず・臨終に非ず、多念に非ず・一念に非ず。
ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽なり
(教行信証)

言葉の絶える笑話があります。
炭火を運ぶ小僧がつまずいて、思わず火の粉が足の上にこぼれた。アチチ!と跳びはねる小僧をおもしろがって、いじわる和尚が問答しかける。
「こりゃ小僧。アチチ!とは、いかなることか言うてみよ」
「はぁ、はぁ」
と返事はするが、なんとも言いようがない。
「それぐらい説明できぬようでは、和尚にはなれぬぞ」
と大喝すると、窮した小僧、とっさに残り火を和尚のツルツル頭めがけてふりかけた。
「アチチ!アチチ!なにをするか、バカもん!」
和尚たまらず怒鳴りつける。すかさず小僧、
「和尚さま。アチチ!ということ説明してみなされ。それぐらい講釈できぬようでは、和尚とはいえませぬ」
と打ち返したという。月並みの体験でも、その表現に困惑するのがよく分かります。ましてや言葉にもかからず、文字にも表せず、思い浮かべることさえできぬ大信海を、懸命に伝えようとされる聖人ですが、とどのつまりは、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)」
としか言いようがなかったのでしょう。

●超日月光●

「超日月光」とは、「日月を超えた光」ということで、阿弥陀仏の光明は、昼間いちばん明るい太陽の光も、夜最も明るい月の光も、はるかに超越していることを讃嘆されているお言葉です。
「日も月も 蛍の光さながらに
行く手に弥陀の光かがやく」
これは、先の大戦後、A級戦犯として刑場の露と消えた東条英機が、死の直前に歌ったものといわれます。
エリート軍人として駆け上がり、抜群の記憶力から「カミソリ東条」と呼ばれていた彼は、独裁内閣を築きました。戦争を主導し、赫々たる戦果を上げていた時は騎虎の勢いでしたが、敗戦するや犯罪人として巣鴨刑務所の独房に収監されます。板敷きの上にワラ布団を置き、毛布五枚のほか、何も持ち込めない。そこには、かつての総理大臣、陸相、参謀総長、内務、文部、軍需、外務の各大臣を歴任した威厳は微塵もありませんでした。孤影悄然たる姿は、人間本来の実相を見せつけられた思いであったでしょう。世人のつけた一切の虚飾をそぎ落とされたそこにあるものは、か弱き葦のような、罪悪にまみれた自己でしかありませんでした。

戦犯の九割が仏教徒だったことから、刑務所では浄土真宗の布教使が教誨師として法話をすることになりました。東京は三十度を越える暑さの中、風も入らぬ蒸し風呂のような仏間で東条は、扇子も使わず、身動き一つせずに聴聞していたといいます。顔からダラダラ流れ落ちる汗を、ぬぐおうともしない東条の真剣さに打たれ、布教使も汗まみれで法話を続けました。
獄中で親鸞聖人の教えを聞法し、多生にも億劫にもあい難い弥陀の本願を喜ぶ身となった東条は、よく『正信偈』を拝読し、人にも勧めていたといいます。それで、弥陀のお力を「超日月光」とも言われることを知っていたのでしょう、絞首台の階段を上る前に、残した辞世が先の「日も月も蛍の光さながらに」の歌です。
この世で最も明るい日の光も月の光も、はるかに超え勝れている弥陀の光明を、親鸞聖人は「超日月光」と言われているのです。

●すべての人が救われる●

以上、解説してきた十二光を、まとめると次の通りです。

○無量光…どんな極悪人をも救い切る、無限のお力。
○無辺光…十方世界いずこにも行き渡っているお力。
○無礙光…何ものも遮ることのできないお力。
○無対光…比較できるもののない偉大なお力。
○光炎王光…仏法を聞かせるために、人間界に生まれさせて下されたお力。
○清浄光…底の知れない欲の汚さを知らせ、懺悔させ清めて下されるお力。
○歓喜光…怒りの恐ろしさを知らせ、懺悔させ喜びに変えて下されるお力。
○智慧光…ねたみそねみの愚痴の醜さを知らせ、バカだなあと懺悔させて下されるお力。
○不断光…途切れず絶えることのないお力。
○難思光…人間の智恵を超えたお力。
○無称光…とても言葉で表現できないお力。
○超日月光…太陽も月も超越した、偉大なお力。

「阿弥陀仏は、これら十二の光を大宇宙にくまなく放って、塵刹を照らしてくだされているのだよ」
と言われているのが、
「照塵刹(塵刹を照らしたもう)」
です。「塵刹」とは、「チリのような世界」ということ。大宇宙の中では、この地球も塵芥の一つに過ぎません。宇宙はちょうど、大きな部屋にたくさんの塵が浮かんでいるようなものです。カーテンのすき間から陽光がさし込んで、見えることがありますね。地球は、浮かんでいる塵の一つ。そこに六十何億の人が住んでいるのです。
「塵刹を照らす」とは、その大宇宙のすべての人々を照らしてくだされている、ということです。そして、
「一切群生蒙光照 (一切の群生、光照を蒙る)」
「すべての人が、このような弥陀の光明のお育てにあずかって、必ず無碍の世界へ出させて頂くことができるのだ。皆人よ、どうか親鸞と同じように、『帰命無量寿如来 南無不可思議光』と叫ばずにおれない身に、早くなってもらいたい」
と、阿弥陀仏の偉大なお力を讃えられているお言葉です。

普放無量無辺光~一切群生蒙光照(4)

0 11月 22nd, 2010

●清浄光●

「清浄光」とは、貪欲(欲の心)を照らしてくだされる、弥陀のお力のことです。
「ヘソのない人がいても、欲のない人はない」といわれるように、私たちは、「あれが欲しい」「これも欲しい」という欲の心一杯。無ければ無いで欲しい、有れば有るでもっと欲しいと、際限もなく求める心です。食いたい、飲みたい、金が欲しい、男が欲しい、女が欲しい、褒められたい、楽がしたい、眠たい。満足を知らず、どれだけ手に入れても足りない。
欲深い人のことを、「あいつは汚い人だ」といわれるように、欲は「汚い心」。「汚い」というのは外見のことではなく、欲の心が深いことをいうのです。
…………………………………………………………………………………………………
道警札幌中央署は25日、札幌市中央区の無職男(71)を窃盗の疑いで現行犯逮捕した。男は生活保護を受給しており、犯行時、財布に約75万円の現金を持っていた。調べに対し、「自分の金を使いたくなかった」と供述しているといい、同署は生活費を浮かせて生活保護費を蓄えるために万引きをしたとみている。
発表によると、男は同日午前11時50分ごろ、同区内のスーパーでおにぎり、納豆巻き、洋菓子などの食料品計14点(計約3000円相当)を盗んだ疑い。男は着ていたジャンパーの中に次々と商品を入れ、精算せずに店を出たため、気付いた警備員が追いかけて取り押さえた。
同署によると、持っていた現金は、受給した生活保護費を少しずつためたものとみられ、二つ折りの財布に入れてポケットの中に所持していた。
*『読売新聞』(平成20年9月26日)
…………………………………………………………………………………………………
七十五万円の現金を所持していた人が、三千円の万引き。自分の金は、一円でも使いたくない。こんな人のことを「欲深い、汚い人だ」と言いますが、この人だけのことでしょうか。自惚れているために分からないだけで、すべて私たちは欲の塊なのです。
この汚い心を照らし出して、「お前はこんなに汚い心を持っているんだぞ」と知らせてくだされる阿弥陀仏のお働きを、「清浄光」といわれているのです。
親鸞聖人は、弥陀の光明に照らし抜かれ知らされた自己の姿を、こう告白されています。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して

「ああ、バカな親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、大きな山ほどの名利の欲望に、朝から晩まで振り回されて、感謝もなければ懺悔もない。なんと情けないことか」
「愛欲」とは、男女の欲や、親子友人との愛憎。その愛したい愛されたい心の多いのを、広い海に例えられています。「沈没」とは、「浮かぶ瀬がなく、完全に沈みきっている」こと。
次の「名利」とは、「名誉欲」と「利益欲」のことで、「名誉欲」とは、キレイな人と褒められたい、能力を評価されたい、悪口言われたくない心。「利益欲」とは、一円でも多く儲かりたい、損したくない心。財産が欲しい、他人の持たぬものを持ちたい。
「これら名誉欲・利益欲が大きな山ほどあって親鸞、迷惑している」
と、懺悔されているお言葉です。
それまでも、「愛欲名利の深い自分だなあ」とは思っていますが、本当の「欲の心」というものがすべて知らされるのは、弥陀の救いに値った時。その汚い心を”汚い心”と照らして懺悔させ、「こんな欲深い私が、どうして救われたんだろうか」と喜びに転じてくださるのが、弥陀の「清浄光」の働きです。

●歓喜光●

「歓喜光」とは一言で、「私たちの怒りの心を照らして懺悔、歓びに転じてくだされる阿弥陀如来の働き」をいいます。
人間は欲の塊で、一円でも金が欲しい、地位が欲しい、男が欲しい、女が欲しい、若く見られたい、努力を評価されたい、悪口言われたくない、という心一杯。仏教ではこれらの「欲しい、欲しい」と際限もなく求める心を「貪欲」と言われます。
この欲の心が妨げられると噴き上がるのが怒りの心、「瞋恚」です。
「あいつのせいで儲け損なった」「こいつのせいで恥かかされた」と腹を立て、「死んでくれたらいい」とさえ思う。「怒り」という字は「心」の上に「奴」と書くように、欲を邪魔した相手は親でも先生でも友人でも「奴」呼ばわりして切り刻む。関係無い人まで巻き添えにして八方を焼き尽くす、恐ろしい心です。
最近も衝撃的な事件が起きました。元厚生次官ら連続殺傷事件で逮捕された容疑者(46)は、「昔、保健所にペットを殺され腹が立った」と供述しています。大事なものを奪われた怒りが三十四年間も燃え続け、ついには人生を破滅させる凶行にまで及んだのでしょう。ところが、保健所の管轄が厚生労働省でないことを取調官から聞かされた容疑者は、「えっ」と絶句したそうです。”怒りは無謀に始まり、後悔に終わる”の格言に、身の震える思いがいたします。
大阪では、男(42)が妻(29)の入浴中に携帯電話の着信履歴を確認し、男性からの着信があったのを見つけて腹を立て、出刃包丁で刺殺、「妻が浮気をしていると思い、カッとなってやった」と認めています。ほかにも毎日、飲み屋で口論のすえ殴殺とか、親の介護のストレスで突発的に絞殺など、これらは決して、短気な人たちの特殊なケースではなく、私たちの心の中で日々、展開している地獄絵図ではないでしょうか。惚れた女性が他の男と楽しげに話しているのを見て、心穏やかでいられる人はないでしょう。ライバルの面前でボロクソに貶され、嘲笑されても気にしない人があるでしょうか。子供にバカにされてさえ腹が立つ。ひとたび瞋恚の炎が燃え上がったならば、理性も教養もへったくれもない。この恐ろしい怒りの心を、”恐ろしい心”と知らせ、「こんなものがどうして救われたのだろうか」と歓びに変えてくだされる阿弥陀如来の働きを、「歓喜光」といわれるのです。

●智慧光●

次に「智慧光」とは、「愚痴」を照らしてくだされるお力を言われます。「愚痴」とは、愚もバカ、痴も、頭が入院中(「痴」という字は、知恵が病院に入っている)ですから、バカということです。最近は「おバカキャラ」などといって、無知を売りにするタレントもありますが、仏教でバカと言われるのは、知識の乏しいことではありません。「因果の道理が分からない心」のことです。いくら頭脳明晰で記憶力がよく、知識が並み外れて豊富でも、大宇宙の真理である「因果の道理」が分からなければ、仏教では「愚痴」といわれるのです。

ところが、この「因果の道理」を聞いても、「善因善果、自因自果」なら納得できるのですが、「悪因悪果、自因自果」となると、どうしてもそうは思えない。因果の道理を否定する。論理一貫しないのです。だから、思わぬ事故やトラブルが起きると「オレがこんな目に遭ったのは、あいつのせいだ」「勧められて買った株が暴落して大損した。あいつがあんなことさえ言わなければ、オレがこんな目に遭わなくてもよかったのに」と、他人を恨んだり憎んだり、世の中を呪ったりする。まさに「ナワをうらむ泥棒」で、自分のまいたタネとはとても思えない。
また、他人が幸せそうなのを見ると、本人の努力の結果とは認められず、特にライバルなど自分に近い人の成功は、面白くない。「うまいことやりよって」と妬み、心ひそかに「あいつ大失敗してくれんかな」と醜いことを思う。
このように、「因果の道理」が分からず、他人をウラみ、ネタみ、ソネんだりして苦しんでいるのが、愚痴です。大宇宙の真理が分からないのですから、バカと言われて当然でしょう。
この愚痴の心を照らして、「お前はこんな愚かな心いっぱいだぞ」と知らせ、懺悔させてくだされるのが、阿弥陀如来の「智慧光」の働きです。

普放無量無辺光~一切群生蒙光照(3)

0 11月 1st, 2010

●無辺光●

「無辺光」とは、阿弥陀如来のお力には「ほとりがない」こと。阿弥陀如来のお力の届かぬ所はない、どんなところにも、働いてくだされている。「ここには阿弥陀如来のお力がかかっていない」というところは、地球上にも、大宇宙にもどこにもない。ですから、「いつでも助かる」ということです。畑仕事している時でも、風呂入っている時でも、出張している時でも、病院のベッドにいる時でも、関係ない。「ここにいる時でないと助からない」とか、「あそこにいては救われない」ということは、一切ない。弥陀の救いは、いつ、どこで、ということは決まっていません。人智の計らいを超えた、その阿弥陀如来のお力を、「無辺光」と言われているのです。

●無碍光●

「無碍光」の「碍」は障碍、さわりということですから、「無碍光」とは、「遮るものがない」阿弥陀如来のお力のこと。
阿弥陀如来のお力は、遮蔽するものがない。妨げるものが何もありません。「無碍光」ですから、私たちを「無碍の一道」に出させてくだされるのです。「無碍の一道」とは、欲や怒り、ねたみそねみなどの煩悩も、浄土往生の碍りとならない大安心のこと。親鸞聖人は、この不思議な世界に雄飛せられた体験を、『歎異抄』には、

「念仏者は無碍の一道なり」(第七章)

と、高らかに宣言されています。

●無対光●

「無対光」とは、「対するものがない」阿弥陀如来のお力のこと。他に比べるものがない。大宇宙のすべての仏方が束になっても到底及ばぬ、もの凄いお力であることを、お釈迦さまは、

無量寿仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり                         (大無量寿経)

諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、光明の中の最明無極なり
(大阿弥陀経)

とも説かれています。
大宇宙の仏方に見捨てられた極悪の私たちを、「我一人助けん」とただ一仏奮い立たれて、「無碍の一道」に助け切ってくだされるのが阿弥陀如来ですから、その無類の光明を「最尊第一」「最明無極」と言われ、「無対光」と絶賛されて当然でしょう。

●光炎王光●

仏教では、”私たちが人間に生まれるには、五戒といわれる色々の戒律を持たねばならない”と教えられているのですが、法の鏡に照らされて自分の姿をよくよく見れば、とてもそんな戒律を持ってきた殊勝な者とは思えない。では、どうしてそんな私が、人間に生まれることができたのか。人界受生の難しさを知れば、なおさらそう思わずにおれないでしょう。
源信僧都は、こう言われています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり。身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず             (横川法語)

まず、人間に生まれることはいかに有り難く、喜ぶべきことかを、地獄・餓鬼・畜生界といわれる苦しみの激しい三つの世界と比較して、分かりやすく教えておられるお言葉です。
では、その人間に生まれたのは何のためでしょうか。仏法を聞くためなのだと、親鸞聖人は断言されています。仏法を聞いて「後生の一大事」を解決し、

「人身受け難し、今已に受く」

“人間に生まれてよかった”という生命の大歓喜を獲るため、一切の碍りがさわりとならぬ「無碍の一道」へ出るための人生なのだよと、親鸞聖人は生涯教え続けていかれました。
その仏法を聞くことができるのは、六道の中で人間界だけですから、阿弥陀如来が私たちを、なんとか仏法を聞かせて「無碍の一道」に出させるために、その人間界に生まれさせてくだされた絶大なお力を、「光炎王光」と言われているのです。

普放無量無辺光~一切群生蒙光照(2)

0 10月 21st, 2010

●無量光●

「無量光」とは、「量ることのできないお力」ということ。阿弥陀如来のお力は、無限であることをいわれたものです。「こんな悪いことをした者は助けられない」という〝限界〟がない、底無しということです。
「十方諸仏」の力には、限りがあります。十方諸仏とは、大宇宙(十方)に数え切れないほど沢山まします仏方のこと。大日如来も、薬師如来も、ビルシャナ如来も、地球に現れられたお釈迦さまも、その中の一仏です。それら十方諸仏の力には、「こういう悪までなら助けることができるが、これ以上の重い悪を犯した者は助けられない」という境界線があります。ですから「無量」ではありません。お釈迦さまが、「大宇宙の仏方には、お前たちを助ける力がなくて、見捨てられたのだよ」と説かれているのは、私たちの造る悪が、諸仏の力の限界を超えているからです。
ところが、本師本仏の阿弥陀如来のお力にだけは、限界がない。「五人殺した者までは助けられるが、十人殺した者は助けられない」というような差別がありません。どんな極悪人をも救う弥陀の量り知れないお力を、釈迦は「無量光」と絶賛され、親鸞聖人は”その通りであった”と知らされて、『正信偈』に記されているのです。
『ご和讃』には、こうも説かれています。

願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず (正像末和讃)

「阿弥陀仏のお力は、どんな極悪人をも救い切ることができるのだ」といわれたお言葉です。

ここで「極悪人」と聞くと、文字からいえば「極めて悪い人」ということだから、こんなふうに思う人もあるかも知れません。
「世の中には、確かに酷い人間がいるなぁ。法の網をすり抜けて、ドカ儲けする奴。次々と詐欺商法を生み出しては、お年寄りをダマす者。イヤそれより恐ろしいのは、”人を殺したい、誰でもいい”と繁華街で白昼、包丁を振り回す凶悪犯だ。”極悪人”とは、そんな人間のことだろう」
私たちは常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて、「善人」「悪人」を判断します。これらの基準では、
「一人殺すよりも、十人殺した方がもっと悪い、十人より二十人の殺人犯はもっと悪い」
というように、善悪は相対的なものです。そしてほとんどの人が、「自分を善人だとまでは言わないけど、少なくともあいつよりマシだ」などと、他人と比較して、善悪の程度を自覚しているのではないでしょうか。凶悪事件が起きると皆、即席評論家になり、正義の側に身を置いて、「とんでもない奴だ」と悪事を裁くのも、「自分は善人、この犯人は悪人」と、分けているからでしょう。
ところが聖人の言われる「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではありません。極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させます。

いずれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし  (歎異抄)

“どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄のほかに行き場がないのだ”
この告白は、ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、偽らざる実相であることを繰り返されます。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し    (教行信証)

“すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくない”
世の中に「善人」と「悪人」二通りの人がいるのではない。聖人の「悪人」とは全人類のことであり、人間の代名詞なのです。
阿弥陀如来は、すべての人を「永久に助かる縁なき極悪人」と見抜かれた上で、「我を信じよ、平生に、必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われているのです。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし (歎異抄)

どうにもならない縁が来たならば親鸞、どんな恐ろしいことでもするだろう。人を十人殺す縁が来れば十人殺すだろう、千人殺す縁が来れば、千人殺すこともあるだろう。かかる量り知れない深い業をもった極悪の親鸞が、絶対の幸福に救われたのは、弥陀のお力が「無量光」であったからなのだ。だから救われない人は一人もいない。「私のような悪人が助かるんだろうか。この世で救われるのだろうか」と疑っているのは、弥陀のお力は無限であることを知らないからだ、早く弥陀のお力を「無量光」と知らされるところまで進めよと、親鸞聖人は訴えておられるのです。